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【七】ナナ―さよなら、青羽兄ちゃん②
コンコン。カチャリ。
「こんばんは」
足音もせずベッドに近づいてきたのは、ふくよかな中年女性だった。
「どちら様ですか?」
もしかして、馬鹿医者が寄越した人?
「私は相沢。あなたを迎えに来たの」
「五十嵐さんの知り合い?」
「いいえ。彼は今頃、自宅で酔っ払って寝てるわ。未明に逮捕されるとは知らずにね」
「!」
「麻薬横流しの容疑と、脱税も追加されるはずよ。あなたも、ここにいたら逮捕されるわ」
「なぜ。あたしは何もしてないわ!」
「だってマンションに裏帳簿がおいてあるじゃない。宝石や高級絵画、高級家具も溢れかえってる。とぼけても無駄よ。刑事が張り込んでいるから戻れないわよ」
まるで室内を物色した口調だ。まさか刑事?
「誰に頼まれたの?」
「日野青羽。そして、彼を配下にしている者」
「青羽兄ちゃんが……」
相沢と名乗る女性の眼に嘘はなかった。
「あの医者は日野君の属する組織と敵対する人間と繋がっているの。だから、あなたは敵だと見なされている。日野青羽には二度と会えないわ。その代わり、暖かい地方へ逃がしてあげる。それが彼の願いだから」
「あたし育てられない。こんな母親じゃ、赤ちゃんは幸せになれない」
味方のいない世界で子供を守り戦う術を、あたしは知らない。
「そう。じゃあ、ひとりでお逃げなさい」
「……もう逃げるのも、何もかもが嫌」
有名な橋から飛び降りる自分の姿が頭をよぎる。
『結婚詐欺師の娘だからまともじゃない』って偏見に満ちた視線を浴びせてきた人達――。
青羽兄ちゃんだけがあたしを守ってくれた。日野おじちゃんは母さんを叱ってくれたけど、愛してはいなかった。
頼れる大人がいなくなると、青羽兄ちゃんは泣きじゃくるあたしを引き取ってくれた。
甘い卵焼きやだし巻き玉子、手作りのハンバーグ弁当を同級生が羨ましがってた。ありがとうって、素直に言えたのはいつだったっけ――。
マンションで囲われると、医者は週に一度会いに来た。忙しいからと一時間もしないうちにそそくさと帰っていく姿は、さながら競走馬を覗きに来たオーナーだ。そう、マンションは贅沢な厩舎。サラブレッドの血を受け継ぐ赤ちゃんは、お腹で順調に育っている。だけど、あたしはこの子の為に美味しい食事を作って食べる気力がない。この虚しさはなんだろう。マタニティーブルー?
青羽兄ちゃんの料理が食べたい。小さい頃一緒に皮を包んだ餃子はおいしかったなぁ。けれど、あたしは自分から出て行った。幸せなふりをして縁を切った。
「だって生きていても青羽兄ちゃんには、もう会えないんでしょ?」
「……ひとつだけ方法があるわ。十年間、あなたは私と一緒に働く。勤め上げれば兄の元へ戻っていい、と青龍神 がおっしゃっているの。ただし、整形した別人として」
「別人……」
「下田奈々は出産後に死亡する。赤ちゃんも死産。知らない誰かが我が子として育てる。そして、あなたは私の弟子になる」
「弟子……」
「ふふふ。私、これでもスパイなのよ」
さあ、どうする――?
差し出された手を、どうしたらいいのだろう。青羽兄ちゃんが側にいれば、質素でも赤ちゃんと楽しく暮らしていけたかもしれない。だけどそれは叶わない夢になった。
十年――。
こんなあたしでも頑張れば、また優しい青羽兄ちゃんに会えるの?
名前も、素性も顔も変えて、友達としてずっと死ぬまで側にいられる?
「わかった。でもひとつだけ条件があるわ」
「ふふふ。覚悟を決めた人間は、いい眼をしている。さあ、あなたの望みは車で聞きましょう」
さようなら青羽兄ちゃん。
いつかきっと、会いに行くよ――。
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