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第4話 好きな人
凪のことを口説くと宣言してから数週間、あれから特に進展はない。
そんな焦ることでもないと思いつつも、高校三年生の太河には実質あと一年しか残されていないようなものだ。
これからどう進めていくべきか考える日々の中、今は楽しみにしていた国語の授業。別に国語が好きなわけではないが、凪の授業だという点で今年から好きになった。
教師として生徒たちの前に立ち、黒板に文字を書いている背中を見つめていると、ふと昔の記憶が蘇ってくる。
物心ついた頃から凪はずっと傍にいてくれた。太河の両親は仕事が忙しく、家にいないことのほうが多かったが、その寂しさを忘れさせてくれたのが凪だ。家で遊ぶのも、外で遊ぶのも、いろんな遊びを凪が教えてくれた。
太河の手を引っ張って『たい、今日はこれで遊ぼう!』とキラキラした笑顔を見せていたのは今でも鮮明に覚えている。
凪が思春期で親と喧嘩する日が続いていた時も太河にだけはずっと変わらず接してくれていた。
そんな凪のことをいつ好きになったのかはわからない。気付けば凪のことばかり考え、彼に追いつきたくて勉強も運動も人一倍頑張ってきた。しかし、何故か凪にかっこいい姿を見せようとしたり、彼のために何かしたりしようとすると毎回失敗するというジンクスが太河にはあった。
例えば、凪が応援に来てくれた運動会で盛大に転んだり、次のテストで満点を取ると凪に宣言したら解答欄がずれていたり、小さなことは数え出したらキリがない。だけど、どんな失敗をしても凪は優しい言葉をかけて励ましてくれた。
しかし、一番の失敗であった高校受験。確かに凪は慰めてくれた。だが、あの直後にやらかしてしまったキス事件で凪と疎遠になり、太河の妙なジンクスと失敗はなくなった。同時に、最も大切なものも失ってしまった。
あの一件さえなければ、今も昔と変わらずに頻繁に連絡を取って、普通の友達のように遊べていたのだろうか……。
「佐伯、おい、佐伯!」
「えっ、あ、はい!」
「ちゃんと聞いてたか? 今の問い、お前なりの意見で答えてみろ」
ガタンッと慌てて立ち上がり、黒板を見るがそこに問題文は書かれていなかった。
まずい、きっと凪が口頭だけでした質問だ。
どうにか質問を予測してみようとしてするが、そんなエスパーみたいなことできるわけがない。仕方なく太河は苦笑いを浮かべた。
「すみません、聞いてませんでした」
「……しっかり聞いているように。じゃあ、左波、代わりに答えてくれ」
太河が椅子に座ると代わりに後ろに座っていた左波が立ち上がり、珍しくすらすらと答えだした。
いつもはお調子者で大して授業も聞いていないくせに今日はやけに張り切っている。何か心境の変化でもあったのかと思っていると彼は最後に衝撃的な一言を付け加えた。
「以上が俺なりの答えです。ところで須藤先生、好きな人いますか?」
あまりにも突然の質問に、頬杖をついていた太河の肘がずるっと机から落ちる。ガツンと痛い衝撃が走りぬけるが、今はそれどころではなかった。周りの生徒も左波に便乗してかなり盛り上がっている。
「先生、俺も知りたいです!」
「これがわからないと授業に集中できません!」
がやがやと騒ぎが大きくなっていく教室内を見渡す凪と一瞬だけ視線が合う。しかし彼はすぐに真っ直ぐ前を見据え、生徒たちに負けないよう少しだけ声を張り上げた。
「はい、みんな静かに。授業と関係ない話はしないこと」
「えー、でも今の問題、先生に好きな人がいるかどうかで解説の見方が変わってくると思うんですよね」
「ふっ、左波、今日はよく口が回るな?確かに左波の意見も一理ある」
凪は再び教室を見渡し、太河のことをチラッと見た。しかし、またすぐに視線を外し、スッと指を一本、顔の横に立てた。
「指一本……もしかして一人いるんですか!? 付き合ってます!?」
教室内のざわめきに凪は僅かに口角を上げた。そして、その指をまるで内緒話でもするかのように唇へと当てる。
生徒たちも凪の言葉を聞き逃さないためなのか瞬時に静まり返った。太河も例にもれず口を噤んだが、教室内に響くのではないかと思うほどに心臓は煩い音を鳴らしている。誰かのごくりと唾を飲み込む音が聞こえ、静かな教室内に凪の凛とした声が響いた。
「秘密だ」
「えぇっー!?」
凪はフッと小さく笑みを零したあと、唇に当てていた指を再び顔の横に立てた。ピンッと伸びた白く長い指先をゆっくりと左右に振る姿は妙に人を惹きつけるものがある。
「みんな、これが一人を意味していると思っただろ。だけど答えは違う。現代文学も同じだ。数学みたいに答えが一つに決まっているわけじゃない。自分の考えが重要になってくる。まっ、俺のも想像に任せるよ。ということで宿題出すぞー。さっきの問題についての考えを原稿用紙にまとめてくるように」
浮足立っていた教室内が一気に落胆と悲鳴に包み込まれる。そんな中、凪は冷静な顔をしているが、太河の目にはなんとなく楽しんでいるように見えた。多分、他の生徒にはわからない。ほんの僅かに眼鏡の奥の目尻が優しく弧を描いている。
凪が教師を選んだ理由、わかったかもしれない。
こうやって人を導くことが好きなんだ。昔、太河のことを導いてくれたように、今は多くの生徒を導いている。
教室内のざわめきと授業終了を告げるチャイムが重なり合う中、凪は教壇の上を片づけながら思い出したように声をかけた。
「そうだ、この前の小テストで60点以下だったやつは今日の放課後残るように。補習するぞ」
凪の作る小テストは正直言って難しい。そのため60点以下の生徒はクラスの中に大勢いた。
再び教室内が騒がしくなるが、凪はそれを気にも留めず悠々と出て行ってしまい、残されたのは補習に対する文句を言う生徒たちだ。しかし、ある生徒の言葉がその喧騒を静寂に変えた。
「けど、さっきの須藤先生ちょっとエロくなかった?」
シンッと静まり返る教室内。きっとみんな先ほどの凪の姿を思い出している。しかし、どうせすぐにそのエロいと発言した生徒を茶化す空気にでもなるんだろうと思った。男子校の男の教師に対する評価なんてみんなそんなものだから。だが、太河の予想に反してその生徒に同意する声がそこら中から上がり出した。
「確かに。あの指やったときだろ? 普段冷たく見えるのにあれは反則だよな」
「わかる。あれは彼女いてもおかしくない人の行動だよ。太河もそう思うよな?」
「え? あ、あぁ……」
いつもならクラスメイトのこんな他愛のない質問、適当に返すことができる。しかし、凪のことになると冗談であっても『彼女がいる』なんて言いたくなかった。
歯切れの悪くなった太河の様子に周りの生徒は気付いておらず、補習の不満など何処かに吹き飛んでしまったかのように凪の恋人予想で盛り上がっていた。
放課後、多くのクラスメイトは補習で教室に残っていたが、太河は小テストで90点以上を取っていたため、バスケの助っ人に来ていた。
この学校では部活動への入部は必須ではなく、太河も部活には入っていない。しかし、運動神経の良さと人付き合いの良さでいろいろな部活から助っ人を頼まれるのが日常茶飯事となっており、これが良い息抜きにもなっていた。
休憩中に体育館の端で水分補給をしていると補習を終えたクラスメイトが太河の元へとやってきた。太河と同じように運動神経が良く、助っ人を頼まれることが多い人物だが、同時に、補習の多さもこいつに関してはクラスで一番だ。
「補習お疲れ、どうだった?」
「なんか、須藤先生優しかったわ」
「え?」
「なんていうか、授業中は割と冷たいというかクールって感じじゃん? けど、補習中は手止まってたらめちゃくちゃわかりやすく教えてくれてさ。あの補習なら全然いつでも受けられるわ」
「……そうか」
凪の教え方が上手いのは知っている。昔も、太河が宿題でわからないところがあった時には凪が全部教えてくれたから。しかも、次は絶対に間違えないように。
凪にとってそれは普通のこと。
だけど、太河にとっては特別なことだった。
「太河? どうした?」
「いや、なんでもない。補習、まだやってるやついるの?」
「ん? あぁ、左波のグループが残ってたな」
左波。今日の授業では褒められていたが、所謂やんちゃな不良グループだ。
さすがに担任である凪に何かしでかすとは考えたくないが、授業中にあんな質問をしたくらいだ。どうしても嫌な予感がしてしまう。
「……わりぃ、急用思い出したから帰るわ。あとよろしく」
「え? あぁ……」
呆然とするクラスメイトを放置して太河は急いで着替えて教室へと向かった。放課後の廊下にはすでに人気がなく、遠くのほうから部活動をする生徒の声だけが微かに響いている。足早に歩く太河の足音に重なるように教室が近づくにつれて聞き覚えのある声が少しずつ大きくなっていった。
クラスメイト数人と凪の声だ。さすがに補習中に用もなく教室に入るのは憚られたため、扉についている窓からそっと中を覗き見る。
「須藤ちゃん~」
「先生って呼べ」
「じゃあ、凪先生」
「それはダメだ」
「なんでよ。ところでさ、さっきのやつ、本当のところはどうなの? 彼女いるの? いないの?」
最悪のタイミングで来てしまった。
この質問に凪は答えないと心の中では思っていても、やはり言いようのない不安が広がっていく。
「そうそう、隠すことないじゃん。あ、もしかして彼女じゃなくて彼氏だったりして?」
「お前らなぁ……無駄口叩いてないでとっとと終わらせろ」
「ちぇっ……あ、じゃあ俺らと勝負して先生が負けたら教えてくれるっていうのはどう? 俺、寝技とか得意よ」
くだらない冗談だ。しかし、その冗談にも握りしめた拳に無意識に力が入ってしまう。すると、凪の落ち着いた声が太河の耳にはっきりと聞こえてきた。
「……空手、柔道、テコンドー、その他の格闘技も大体経験あるけど、それでもやるか?」
「うわっ、須藤ちゃんえげつなっ! その身体でそんな鍛えてたの!?」
「だから、ちゃん付けは止めろ。はぁ、ここにいたらお前ら終わりそうにないな。15分したら戻ってくるから、それまでに終わらせておけよ」
まだ教室内では左波たちが騒いでいるが凪はそれを置いて廊下へ出てこようとしていた。
太河は慌てて階段のほうに隠れたが、運の悪いことに凪も同じ方向へと歩いてきてしまい、結局鉢合わせになってしまった。
「佐伯? 何してんだ、こんなところで」
「……」
「佐伯?」
「……凪」
「……はぁ、なんだよ、太河」
「凪が心配だったから……あいつら前に変な噂あったし……」
変な噂。それは前の担任が辞めた時に流れたものだ。
生徒とは無関係、実家の事情で辞めたと学校側からは説明されたが、一部ではどこかのグループと関係があったとも噂されていた。
ここは優等生ばかりが集まる学校ではなく、不良グループもいくつかある。左波のグループも大袈裟なことはしないが、元担任にちょっかいをかけているのを何度か見たことがあった。
元担任の雰囲気が少し凪に似ていたこともあり、どうしても不安が拭えない。
「そんな心配しなくて大丈夫だよ」
「けど……」
言葉を濁す太河を見て凪は溜息を吐き、ほとんど変わらない位置にある太河の額を指でこつっと叩いた。
「人の心配より自分の心配をしろ。問題にも答えられないで、授業中に何考えてたんだよ」
「それは……」
あの時は、凪のことしか考えていなかった。しかし、さすがに本人にそれを言うわけにはいかず、気まずげに視線を落とす。
「まぁいいや。もう遅いし、早く帰れよ」
軽く太河の肩を叩いた凪は隣を通り過ぎて行った。ぴしっとしたワイシャツに浮かぶくっきりとした肩甲骨。その大人っぽい後ろ姿を見つめながら太河が動けずにいると凪は再びちらりと太河のほうへと目を向けた。
「あぁ、あと……秘密の答え、知ってるのお前だけだから。他のやつに言うなよ」
凪の口元には悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。それは教師のものではなく、素の須藤凪の笑み。
オレンジ色の夕日が照らす廊下に立ち尽くし、凪の歩いて行った方向を見つめながら彼の言葉を脳内で反芻する。
秘密の答え。
好きな人、に関してはわからないが、少なくとも恋人はいない。それを知っているのは太河だけ。
じわじわと胸の奥が熱くなっていき、いろんな心配事が凪の言葉で塗りつぶされていく。
その場で叫び出したい衝動をなんとか抑え込んだが、口角が上がるのだけはどうしても抑えられなかった。
凪は本当にずるい。
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