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第5話 夏の暴風雨(一)

 夏休みが始まって数日。夏期講習終わりの薄暗い道を太河は一人歩いていた。向かっている先は自宅、ではなく、凪の住んでいるアパート。  夏休みに入ってからはまだ一度も彼に会っていない。  何かの偶然で会えたりしないものかと思いながらアパートまで来てみたのだが、そんなに世の中上手くいくわけがなかった。視線の先にある部屋からは明かりが見えず、溜息が零れ落ちる。  彼が家にいたところでインターホンを押せるわけでもない。そこに凪がいる、ただそれを感じたかっただけ。不在である可能性も十分に考えていたじゃないか。自分にそう言い聞かせているとジメジメとした空気の中からポツッと雨粒が一滴鼻の先へと落ちてきた。  そういえば、朝のニュースで雨になると言っていた。予報ではもう少し遅い時間からだと言っていたような気もするが、運の悪いことに降り始めてしまったようだ。 「はぁ……ついてないな……」  走る気力も起きず、頭上からごろごろと嫌な音が響く中を重い足取りで歩きだす。そんなにすぐにはひどくならないだろうと思ったのだが、空は太河の予想を裏切り、あっという間に土砂降りになってしまった。  自分が濡れるのは別に構わなかったが、鞄の中身まで濡れてしまうのはさすがに困る。  仕方なく辺りを見回すと、少し先にコンビニの眩しい明かりが見えた。そして、とある人物の姿も。 「えっ」  まさか、こんなところにいるなんて。  自分の見間違いなのではないかと半信半疑になりながらも先ほどまでは一歩踏み出すのすら億劫だった足は自然と小走りになっていた。そして、太河がコンビニに着くのとほぼ同じタイミングで中にいた人物も外へと出てくる。 「うわっ!? 太河……? なんでこんなところに? 傘は?」 「はぁっ、は、ぁ……凪っ……えっと……夏期講習の帰りで……傘は、忘れた」 「忘れたって大雨予報見てなかったのかよ……ここで買うつもりだった?」 「うん」  今日はもう会えないと思っていた凪に会えた。ついていない日だと思っていたが、今日はラッキーな日だ。  数日ぶりに会った凪は学校にいる時とは違いTシャツにジーンズというラフな格好をしている。それは彼の大学生時代を思い起こさせる姿で、思わずその場に立ち尽くしてぼんやりと見つめてしまう。そんな太河の目を覚まさせたのはバサッという傘を広げる音だった。  男物の大きめの傘が目の前に現れ、太河の頭の上を覆いつくす。その傘を持っているのは凪だ。彼は何の躊躇いもなく太河の横に立ち、二人で一本の傘の下に収まった。 「傘、貸してやるからうちまで来い」 「えっ……いいの?」 「あぁ。ひどくなる前に行くぞ」  まさかの相合傘にパッとテンションが急上昇する。夏の雨という蒸し暑さでも凪が隣にいるだけで一気に爽やかになるような気がしてくるから不思議だ。  濡れないようにもう少し近付いても良いかな……などと僅かに邪な考えが頭を過り、彼に近付こうとしたのだが、ここでも太河の謎のジンクスが発動してしまったらしい。大雨だけだと思っていた天候に強風が追加され、二人を雨から守っていた傘は何の意味もなさなくなってしまった。  凪のアパートまで5分もかからない距離だったが、玄関を開けた時には二人とも全身ずぶ濡れになっていた。 「台風かよ……」  ぼやきながら凪は濡れた眼鏡を外し、スマホを取り出した。  学校では決して外そうとせず、生徒には見せない凪の素顔。以前、眼鏡をかけると大人っぽく見えると言っていたが、本当にその通りだ。眼鏡を外した凪は学生だと言われればまだ学生にだって見える。こんなこと言ったらきっと怒られてしまうだろうが。  水滴の残る横顔を見つめていると太河の視線は自然と彼の顔から彼の身体へと吸い寄せられていた。薄手のTシャツが肌に張り付き、薄っすらと地肌の色を浮かび上がらせている。首筋を流れる透明の雫が彼の胸元へと落ちていき、ハッと我に返って慌ててその場所から視線を外した。  無意識に止めてしまっていた息をゆっくりと吐き出し、自身を落ち着かせるように瞼を閉じると隣でスマホを弄っていた凪が小さく溜息を零した。 「ダメだ。この後もっとひどくなるらしい。親御さんに迎え……」 「……二人とも海外」 「相変わらずだな……しょうがない。泊まってけ」 「え?」 「このあと警報級になるって書いてあるし。ほら、先にシャワー使え」  また泊めてくれる。しかも、今回は凪がシラフだ。前回は酔っ払っていて翌日覚えてなかったが、今回は違う。  やっぱり今日はついている日だ。  あまりの嬉しさに反応が追い付けずにいると、その場で固まっている太河の手首を凪が問答無用といった様子で掴んだ。そしてそのままお風呂場のほうへと引っ張られていく。  再会してから二度目の凪の部屋。前回来た時と何も変わっていない。凪の良い香りが太河のことを包み込み、懐かしさと彼に対する淡い恋心をくすぐってくる。 「着替えは俺ので良いよな。あとでここに置いておくから」 「あ、うん、ありがとう」  彼の言葉に甘えるまま先にシャワーを借り、手早く済ませると凪が言った通りに綺麗に畳まれた着替えが棚の上に置かれていた。  タオル、Tシャツ、ジャージのズボン、ここまでは問題ない。問題なのは一緒に置かれていた黒のボクサーパンツ。新品ではない。新品だったらきっと袋に入れたまま置いておくはずだ。つまり、これは凪が何度か履いたもの……。 「……ッ!」  自分の変態的な考えに頭を横に振り、余計なことを考えないように凪が用意してくれたものを身につけていく。しかし、服やタオルからは彼の落ち着く良い香りが鼻孔を擽り、太河のことを刺激してきた。 「あー、もー……ばか凪……」  数年前にキスをした。  春に好きだと言って落とす宣言もした。けど、彼は頷いてくれない。  それなのにこんな振る舞いをしてくるなんて、まるで生殺しだ。  自分の欲望が暴発してしまいそうになるのをどうにか押さえつけ、気持ちを落ち着かせてからリビングに向かうとTシャツを脱いで黒のタンクトップ姿になっている凪がいた。  いつもは隠されている二の腕は記憶の中よりも筋肉がついている。だが、それは決して硬そうな印象はなく、色が白く、しなやかでとても綺麗な腕だ。 「……シャワー、先にありがとう……その……あれのこと、だけど……」 「ん? あれ? パンツのこと?」 「なっ……!」 「ははっ、顔赤っ。そんないつも新品置いてるわけないだろ。今日くらい俺ので我慢しろ。じゃ、俺も行ってくるから」  ひらひらと手を振って風呂場に向かう凪の背中を見送り、一人になった部屋で太河は盛大な溜息を零して頭を掻いた。  ラッキーな日だと思っていたが、むしろ試練の日なのかもしれない。  これ以上、凪が変な色仕掛けをしてきませんように……。 「……勉強しよう」  カチッカチッという時計の針の音、外の吹き荒れる雨風の音、その中に混じるシャワーの音。どういうわけかシャワーの音だけがやけに大きく聞こえ、その微弱な変化を持つシャワー音は使っている人物の動きを想像させた。  人間とはどうして想像してはいけないと思うと余計にその光景が頭に浮かんできてしまうのだろうか。  先ほどの凪の腕、水滴を纏った身体、濡れた髪。今日の雨とシャワーがリンクし、見てもいないのに何も着ていない凪の姿まで脳内に浮かんできてしまう。そのうえ、こんな時に限ってやっている課題が国語。題材が恋愛ものだ……。  遠くのほうからキュッと栓が閉められるような音が響いた瞬間、太河はパタンッと国語の教材を閉じて急いで数学の教材に取り換えた。目の前に並ぶ数式を無心で解いていき、自分の変な想像を掻き消していく。  しばらくすると風呂場の扉が開けられ、凪が近づいてくる気配を感じた。だが、何かがおかしかった。視界の端にちらりと見えた、色白の……。 「な、なんで裸なの!?」 「あ? Tシャツ持ってくの忘れたんだよ。別に上半身裸くらい良いだろ。一緒に風呂入ったこともあるんだし」  ラッキーな日、訂正。やっぱり、試練の日だ。  いくら子どもの頃一緒にお風呂に入ったことがあると言っても昔と今とでは彼の身体付きは変わっている。前に石水に向かって言っていたように腹筋にはそれなりに筋肉がついていた。  昔と変わらないのは色が白いこと。肩甲骨にあるほくろ。そして、色素の薄い胸の……。  同じ男でも見てはいけないものを見てしまったような気分にさせる魅惑的な身体が脳内で何度も再生され、目の前の数式は何も頭に入ってこなくなっていた。  いっそのことこの嵐の中を帰ったほうが良いのかもしれない。そんなことを考えているとTシャツを着た凪がリビングへと戻って来て、太河の手元を覗き込んだ。 「お、勉強してたのか。偉いぞ。あ、ここ間違ってる。ここの解き方は……」  教師モードに入った凪が空いているスペースにさらさらと解き方を書いていく。  最初は言葉が右から左に抜けてしまっていたが、やはり凪の教え方は上手く、気付いた時には太河もすっかり勉強モードに切り替わっていた。  耳心地の良い彼の声は授業中よりも優しく聞こえる。もしかしたら、クラスメイトが言っていた補習中の凪はこんな感じなのかも。それなら、どれだけ補習を受けても良いと思えるのも納得だ。なんなら自分も受けたいくらいである。しかし、それと同時にある一つの疑問が浮いてきた。  もしも今日、あのコンビニで会ったのが太河じゃない別の生徒だったら。凪は同じように泊めて、服を貸して、こうやって勉強を教えていたのか……?  自分が特別だからだと思っていた。だけど、今日は雨で、親も迎えに来られないからで……。 「太河ー? わかったか?」 「凪、はさ……」 「ん?」 「生徒だったら誰でもこうやって家に連れてきて、泊めたり、服貸したりするの……?」  数式の並ぶノートから顔を上げると太河のことをジッと見つめる凪と視線が絡み合う。  お風呂上がりの濡れた髪、少し赤くなった頬、眼鏡をかけていない凪はいつもの堅苦しさが抜けている。  外は相変わらず煩いくらいに雨も風もひどくなっているが、この瞬間、二人の間だけはまるで時が止まったかのようだった。  少しだけ考えるように太河のことを見つめる凪。それを見つめ返す太河の眉尻は僅かに下がっており、そんな太河の鼻先を凪が指できゅっと摘まんだ。 「そんなことするわけないだろ」 「……俺だから?」 「幼なじみだから」 「……」 「あからさまに凹むなよ」  しょぼくれる太河の額を凪はこつんと指の関節で小突いた。 「今日は幼なじみとして家に入れてやったんだから」 「先生としての凪はお休み?」 「そ、ちょうど短い夏季休暇中。高校の先生って意外と夏の間にやること多くてさ。休み短いんだよ」  そうか、だから今日は凪の雰囲気が学校にいる時とこんなにも違うんだ。  線引きをしっかりとする彼だから、今日は教師と生徒ではなく、幼馴染として扱ってくれている。  その証拠に、凪はまだ濡れている太河の髪にタオルをかけ、昔のように柔く揉み始めていた。ごく当たり前の自然の動作として行っている様子で、本人もその行動を意識してやっているのかはわからない。  ここまでやってくれるなら、試しにもう少しわがままを言っても許してもらえるかもしれない。 「先生が休みなら……今日は昔みたいに甘えても良い?」 「キスしたら怒る」 「それはしないって約束したから、しないよ」 「ふふっ、偉いぞ、太河。美味しいもの作ってやる」  ある程度タオルで乾いた太河の髪を凪はくしゃくしゃと撫でた。タオルをパッと外したあとに見えた彼の顔には笑みが浮かんでおり、久々に見る上機嫌な様子に太河の顔にも笑みが浮かぶ。  本音は今すぐにでも恋愛対象として見られたいし、好きという気持ちに答えてほしい。けど、完全に疎遠になってしまったところからこうして幼馴染の距離感にまで戻れたのだから前進はしているんだ。  今はとりあえず、これで良い。 「太河、卵焼き食べる?」 「食べる!」

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