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第6話 夏の暴風雨(二)
「そういえば、なんで滑り止めにするにしても今の高校にしたんだ? お前が男子校選ぶなんて思わなかった」
夕飯を食べている最中に凪はふと思い出したように聞いてきた。数年前と同じようにお酒を手にした彼の頬はすでに少しだけ赤くなっている。
「あー……自慢とかじゃないんだけどさ……」
「待て、わかった。女の子にモテすぎるからだろ?」
「……正解」
太河は昔から女の子に言い寄られることが多かった。普通の男子ならそれは喜ばしいことかもしれないが、残念ながら太河は普通の男子という枠から外れている。なんせ昔から凪しか眼中になかったのだから。しかし、それは公にできるものではないうえに女の子をぞんざいに扱うこともできない。その結果、女の子たちからはますますモテてしまい、同い年だけでなく年上からも年下からも、果ては別の学校の子からも告白される始末だった。
第一志望校は共学であったが、それも凪の母校というのが理由なだけだ。そうでなければ第一志望も滑り止めも男子校を選んでいただろう。それくらい太河にとって異性からのアタックは悩みの種になっていた。
「贅沢な悩みだな。羨ましい」
「そんなことないよ……凪だってモテてたじゃん」
「男にな」
「……女の子にもモテてたの知ってるけど」
太河の知る限り、日本にいるときの凪は男に言い寄られているなんてことはなかった。太河自身を除くが。
日本人としては身長も高めのほうであり、顔はもちろん整っている。告白現場を直接見たことはないが、バレンタインの時なんかは家にチョコが何個も置いてあった。
そんな凪がこんな風に自虐ネタっぽく言うのはやっぱり留学先で相当嫌な思いをしたのか、あるいはあの時の……。
「ま、それで男子校ね。勉強に集中するなら正解だな」
ごくりと缶チューハイを煽った凪は小さく口角を上げた。その自嘲気味にも見える笑みに太河は一度強く掌を握りしめ、凪のことを真っ直ぐに見つめる。
「ねぇ、凪」
「ん?」
「ずっと、ちゃんと謝れてなかった……ごめん」
無理矢理キスをしてしまった直後、その場では扉越しに謝った。だけど凪は答えてくれなかった。
後日、落ち着いたらちゃんと謝ろうと思った。しかし、顔を合わせることなく、彼は遠く離れた地へ行ってしまった。そして、二年と少しの月日が経ち、再会しても今日までしっかりと謝ることができていなかった。
過去のことだと割り切って触れないこともできる。しかし、太河の望む関係に進むためにはここは乗り越えなければいけない過去だった。
「後悔……してるんだな」
「凪にキスしたのは本心からだよ。本当に好きだから。だけど、タイミングは間違ったと思ってる」
「どうして、あの時した?」
「……凪に彼女ができるかもしれないって聞いて……衝動的に……凪を取られたくないって……」
若気の至り。やってしまったほうはそれで済むかもしれない。しかし、やられたほうはそれだけで済まないことはわかっている。
凪の大切なものを奪ったということはよく理解しているつもりだ。だから怒られることも、なんなら殴られる覚悟さえしている。だけど、やっぱり少し怖かった。
徐々に小さくなっていく声と共に視線が下へと落ちていき、最後は凪の顔を見ていられなくなってしまった。
彼が今どんな表情をしているのか、見たいけど見たくないという複雑な気持ちのまま反応を待っていると、凪は手に持っていたチューハイを一気に飲み干した。そして、まだ冷たさの残る缶を太河の頬へぴとりと押し当てた。
「冷たっ」
「お前、俺のこと好きすぎだろ」
「そう、だよ……信じてなかったの?」
その問いに凪は答えず、ふらりとその場に立ち上がった。空になった缶を持ったままキッチンのほうへと歩いて行き、同じ姿でリビングへと戻ってくる。しかし、その手に持っているのは未開封のものへと変わっていた。そのうえ度数も少し高くなっている。
「凪……また酔っぱらうよ……」
心配と呆れの混じった声を聞いて凪はチラッと太河のことを見たが、止めようとはしなかった。太河の横に座りながらカシュッと景気の良い音を響かせ、まるでジュースのようにごくごくとその中身を喉に流し込んでいく。そして、先ほどよりもぼんやりした瞳で虚空を見つめながらぽつりと呟いた。
「シラフで聞いてられない」
「え?」
「お前、真っ直ぐすぎるんだよ。酔わせろバカ」
更にもう一口お酒を口に含んだ凪の頬は赤みを増しており、それは頬だけでなく耳も首も赤くなっていた。その赤さはお酒での赤さだけではないようにも見えてくる。
「え、もしかして脈アリ?」
「甘いわ、ばか太河。こんなんで俺が落ちると思うな」
違うのか、と少し落ち込むと凪が口角を上げながらスッと二本の指を立てた。細長く白い指が太河の前でピースサインをするように開かれる。
「教えてやる。落ちるとシラフで聞いていられないは別物。これ今度の授業で出すからな」
「……そんなの出したらみんなびっくりするよ」
凪はプッと吹き出し、そのままクスクスと笑い始めた。
作り笑いなんかではなく、本当に楽しそうに笑っている姿を見ていると緊張していた太河の気持ちもスッと解け、自然と笑みが浮かんでくる。
「凪、もう怒ってない?」
「……うん、まぁ……最初から怒ってない。いや、本当の最初は怒ってた、かもだけど……それより混乱してた、かな。それで、逃げたし、直接お前に言わずに消えたのは悪かったと思ってる。ごめんな」
まさか凪がそんな風に思っていたなんて。それに、留学のことを親から太河に伝えるように仕向けたのはやっぱり凪だったんだ。混乱していても太河のことを考えてくれていた。それは凪の昔からの癖であり、彼の優しさでもある。
数年抱えていた靄が晴れていくのを感じながら凪のほうを見ると彼の顔の赤みは増しており、焦点も合っていないように見えた。
「片づけは俺がやっとくよ。先に寝る?」
「んー? それくらいできる!」
「いや、絶対ダメでしょ。あんな飲み方するからこんなに酔っ払って……」
「ふふっ」
トンッと凪の身体が太河に寄りかかってくる。お酒で熱くなった身体。密着する肌。既視感を覚える場所、状況――ここでキスをしたあの時とそっくり。
あの時も凪は泥酔していた。お酒を飲み始めたばかりの年齢で、留学前で、伝えたいことがあるって言っていて……。
「たい……」
「な、に……」
あの時の流れが脳内で再生される。また凪が爆弾発言でもするのではないか。そんな嫌な予感が広がっていく。こめかみの血管までもが脈打ち、心臓が張り裂けそうだ。
「一つ、言ってなかったことがある……」
どうして。嫌だ。あの時と同じ流れだ。
これでまた彼女が出来そうとでも言われたら……。
今度はキスだけで止まれなくなってしまうかもしれない。
「言っていい?」
「……拒否権は?」
「ない」
「……ずるい」
「これはお前と俺に関係してることだから」
どくん、どくん、と耳の奥で鼓動が鳴り響き、額にじわりと汗が浮かび上がってくる。
今抱いている感情が緊張なのか、不安なのか、それとも恐怖なのか。落ち着く時間を与えてほしいと思いながらも目の前の凪は止まってくれそうにない。
「いい?」
「……止まって、くれないんでしょ」
「うん」
凪の唇が太河の耳元へと寄せられる。この仕草も、あの時そっくりだ。
彼の熱い吐息、少し掠れた声が脳内に響く。
「お前にキスされてからおかしくなった」
「なに、が……」
「身体……」
「どんな、風に……」
「他の人に勃たなくなった」
「……」
勃たなく……なった……?
それは、凪の下半身が……?
キスした時は確かに反応していた。あの硬さは間違いない。いや、触れたのは事故だ。意図的ではない。しかし、あれは事実であり、それが余計にあの時のパニックを招いていたとも言える。それで、今の話でいくと、それ以降他人に対して反応することがなくなった、と?
「なんか言えよ」
「……一人でするときは?」
自分は何を聞いているんだ。
頭が混乱しすぎて変なことを聞いてしまった。こんなのただの変態の質問じゃないか。
「勃つ」
凪もなんで普通に答えるんだよ。しかも、一人のときはちゃんと反応するって……つまり……。
「それは……もしかして、あの時のがトラウマになってたり……?」
「ん? トラウマとは違う気がする……わかんない」
凪は大したことでもない、といった様子で太河から離れて再び缶の中身をごくっと一口飲み込んだ。
お酒で湿った唇が色気を醸し出し、そこから目が離せなくなってしまう。数年前の柔らかい感触を思い出し、思わず自身の乾いた唇を軽く舐めた。
彼の柔らかい唇、そこから視線を下げると先ほど話題に上がった部分。ごくっと喉を上下させ、自身の口から掠れ気味の声が零れ落ちる。
「……試して、みる?」
「なにを?」
「……キス」
僅かに潤んだ瞳がじっと太河のことを見つめてくる。目尻まで赤く染まった顔はあの時の泣き顔と重なった。泣かせてしまってドキリとしたあの時とは違うドキドキ感が増していき、喉が異常に乾いていく。
先ほど離れてしまった距離を縮めるように試しに少し凪に近付いてみても彼は逃げず、じっと太河のこと見つめ続けていた。このままもう少し……と思ったのだが、凪はぷいっと横を向いてしまった。
「しない」
「……なんで」
「お前が先にしないって言ったんだろ」
それは、あの時のキスを凪が本気で嫌がって、怒っていたと思っていたからだ。それが誤解で、しかもこんな話をされてしまったらいろいろと事情が変わってくる。
「凪のそれが……治るかもしれないじゃん」
「病気じゃないし」
「けど、もし反応したら……」
「それこそ困る。お前しかダメになったってことだろ……」
ピタッと凪の動きが止まる。一点を見つめたまま固まってしまい、それは何かを考えているのか、何も考えていないのか傍から見ただけではわからない。数秒して太河が凪の顔を覗き込むとその瞳は先ほどよりも潤んでいるように見えた。
「凪……?」
「だめ」
「え?」
「ばか太河。寝る」
ソファにかけてあった薄手のブランケットを引っ張り、凪はそれを頭までかぶって倒れ込んだ。彼の行動にも言葉にも理解が追い付けず、太河の頭の中は大量の疑問符で覆いつくされていく。
外の雨と風はますます大荒れになっているが、太河の心の中はそれ以上に大荒れだ。元凶となった人物は隣で丸まっているし、なかなか出てこようとしない。
「凪?」
無反応。
とんとんと指先で軽く叩いてみるが、これもまた無反応。
もしかしてずっと出てこないつもりなのかと思っているとようやくブランケットの中に動きが見えた。もぞもぞっと動き、猫のように丸まり直したようだ。
まだ出てこないのか。今日は帰らなくて良いからいつまでも待つが……と思っていた矢先、太河の耳に聞こえてきたのはまさかの穏やかな寝息だ。
「えっ……本当に寝ちゃったの?」
もちろん凪は答えない。心地良さそうな寝息だけが続いている。
チラッとブランケットを捲ってみると、そこに見えたのはしっかりと目を閉じた寝顔。キスする、しない、という話をした相手が真横にいるのにこんな無防備に寝てしまうなんて。
安心感を持ってもらっていると喜んで良いのか、そういう対象としてやっぱり見られてないと捉えるべきなのか。しかし、それよりももっと重要なことに気が付いた。酔っ払った翌日の凪は記憶を失っている可能性が高い。今聞かなければ、あの爆弾発言をしたことすら忘れてしまうかもしれない。
「凪、起きっ……」
衝動的に起こしそうになったが、彼の寝顔にぴたりとその手を止める。
こんなに穏やかに寝ているところを起こしたらだめだ。自分の欲を優先しちゃいけない。
瞼を閉じて自身を落ち着けていると服がくいっと引っ張られる感覚があり、そちらへと目を向ける。そこには太河の服の裾を掴む手。ブランケットの中から少しだけ出た指先がきゅっと布地を掴んでいる。
「……はぁ……凪……ずるいよ……」
両手で顔を覆いながらぽつりと漏らし、再び横で丸まる固まりに目を向ける。
凪がさっき言ったこと。他人には反応しなくなった。それは大変な事態ではある。けど、もしかしたら太河のキスには反応するかもしれない。過去にそれで反応したことがあるし、彼はさっきそれで反応したら困ると言っていたから。可能性はある。
好きな人が自分にしか反応しないかもしれない。こんな嬉しいことあって良いんだろうか。
試練の日だった。けど、やっぱ訂正。大荒れのラッキーな日。
叶うことなら明日の朝、凪が覚えていますように。
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