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第7話 独占欲

 吹き荒れる夏の夜、凪のアパートで聞いた彼の話は太河に大きな衝撃を与えた。  心地良さそうに眠る凪とは対照的に太河は眠れぬ夜を過ごし、嵐のような雨も風も収まった翌日。凪が前夜のことを覚えていることを願っていたのだが、太河が願ったせいなのかお酒のせいなのか、爆弾発言をした張本人はその話をした部分がスコンッと抜け落ちていた。  さり気なく「凪の身体のこと……」と聞いてみたが、不思議な顔をされたあとに「昔より筋肉ついただろ」と全く見当違いなことを言われてその話は終わってしまった。  こうして、再度あの話題を出す機会を見つけられぬまま、長いようで短い夏休みは終わりを迎えた。  まだ暑い日が続く中、夕方になるとツクツクボウシの鳴く声も混ざり始めた九月。  空調の効いた放課後の廊下を歩いていた太河の耳に別のクラスの生徒たちが教室内で話している声が飛び込んできた。  普段なら気にも留めない。しかし、聞き馴染みのある名前と放っておくことのできない内容にその場に足が縫い付けられたかのようにぴたりと止まってしまった。 「俺、須藤先生なら抱けるかも」 「なに? お前もそっちだったの?」 「ちげぇよ。あいつらじゃないんだし……けど、須藤先生は別だな。あの人の眼鏡取ったところ見たことあるか? 結構可愛い顔してるんだぜ。しかも、あれ伊達眼鏡だ」  ……凪が狙われている。しかも、生徒の前で眼鏡を外した。伊達眼鏡だということも知られている。  それに、あいつら、とは誰のことを言っているんだ。そいつらも凪を狙っているのか。それともまた別のことを言っているのか。  じわりとこめかみに汗が滲み、握りしめる拳に無意識に力が入っていく。喉が締め付けられるような感覚と、血の気が引いていくような感覚が襲い掛かり、ここから逃げ出したいけれどこの先の話も聞かなければいけないという、相反する気持ちがぶつかり合う。 「は? お前いつそんなの見たんだよ?」 「補習中。めちゃくちゃ怒られたけど。まぁその顔も可愛かったぞ」 「お前重症だな。けど、そこまで言うなら俺も須藤先生の眼鏡取ったところ見てみたいわ」 「ここ教えてください~って言って近付いてきたところ狙ってみろよ。って言っても俺が一回やっちまったから警戒してるかもしれねぇけど」  考えたくもないのにその光景が頭の中で再生される。きっと凪はいつものようにわかりやすく教えるためにこいつに近付いたはずだ。それなのに突然、眼鏡を取られるなんて理解が追い付かなかっただろう。そのうえ、性的対象として見られているなんて。  留学している時にイギリスの大学で男から狙われたことがあるという話と凪がお酒に酔った時の無防備な姿が頭を過り、嫌な想像はますます広がっていく。  この生徒は眼鏡を取っただけだと言っているが、次はもっとひどいことをするかもしれない。それこそ本当に襲ったり、凪が退職に追い込まれる事態になったりも……。  今のうちに教室に乗り込んで話をつけるべきか……?  しかし、凪と太河の関係が何かと問われたら、教師と生徒の関係、幼なじみ、それでしかない。恋人なら、この生徒に堂々と文句の一つでも言いにいけたのに。周りから見れば教室の中にいる生徒も太河も同じような立場。凪の特別ではない。  何処にぶつけたら良いのかわからない気持ちにその場で固まったままでいると廊下の奥から偶然にも凪が歩いてきた。だが、一人ではない。隣には石水も並んでおり、その距離は不自然なほどに近いように見えてしまう。 「須藤先生、今日どうですか?」 「止めておきます。明日起きられなくなったら困るので」 「そんなそんな、若いんだからいけるでしょ?」 「そう言ってこの前も痛い目見たんですから……」  石水と話していた凪の視線がフッと太河のほうへと向けられる。  いつもならば学校内でたまたま目が合ったとしても凪のほうからわざわざ話しかけにきたりはしない。太河のほうから凪に向かっていくことはあるが、今回のように先生同士で話していればさすがに空気を読んで軽く挨拶だけで済ませるようにはしている。  今回もいつもと同じだと思ったのだが、予想外なことに凪は太河のほうに向かって真っすぐ歩いてきたのだ。変わらない高さにある目線に真正面からじっと見つめられ、何もしていないのに自分が何かしてしまったかのような気分になってくる。 「佐伯、体調悪いのか?」 「え、そんなこと……」 「嘘つけ。顔色かなり悪いぞ。石水先生、すみません。こいつのこと保健室に連れて行きますね。さっきの話はまた今度で」 「ははっ、フラれちゃったな。また今度お願いしますね」  石水が立ち去ると教室の中から再び少し大きめの話し声が耳に入ってきた。男子高校生がよく言うような下ネタが聞こえてくるが、その対象が凪であることを考えるとますます気分が悪くなっていく。 「お前本当に大丈夫か? 吐きそう?」  凪は気づいていないのだろうか。教室の中の彼らに。けど、凪が来てからは名前が出ていないような気もするし、もしかしたら凪にはただの雑音くらいにしか思えていないのかも。  それならそれで、こんな下世話なこと耳に入らないほうが良い。 「おーい、佐伯ー、返事しろー」 「……凪……二人で、話したい」  太河の前で小さく手を振っていた凪の動きがぴたっと止まる。 『凪』という呼び方は学校では普段しない。というよりも凪に禁止された。担任なんだから周りと同じように苗字に先生を付けるようにと言われたのだ。だから、こうして学校の中で彼の名前を呼ぶのは特別な意味がある。  太河の意図はすぐに凪にも伝わったようだ。小さく溜息を零しながら腕時計を確認し、再び太河の顔を見る。 「生徒指導室でいいか?」 「うん」  二人は誰もいない生徒指導室へと入った。校舎は全館空調が効いているものの、締め切られた窓から入る西日が室温を上げており、じわりと制服の下に汗が滲んでいく。 「で、どうしたんだ?」 「……」  二人で話したい、とは言ったものの何を話せばいいのかはわからなかった。太河が言いたいことを全部言ったら、それは独占欲丸出しで、とてもかっこ悪く見えてしまうかもしれない。  なかなか言葉が出せずにいると、太河を見ながら凪は眼鏡を外した。それだけでなくネクタイも緩め始め、学校で凪がそんな風に服装を崩すところなんて今まで一度も見たことがなく、思わずドキリとしてしまう。同時に部屋の温度がまた少し上がったような気もした。 「太河、言いたいことがあるならはっきり言え。俺に関係していることか?」 「……う、ん」 「なら尚更だ。ここで言っとかないとお前また成績落とすだろ」 「……」  凪が言っていることは間違いではない。普段の太河は全教科の先生が認めるほどの成績優秀者だ。テストで満点を取ることも多く、それが当たり前だった。しかし、凪が担任になって約半年。昨年までは絶対にしないような凡ミスが増えていた。それも決まって凪関係で気がかりなことがあった時だ。  例えば、左波が凪にちょっかいをかけた時、凪が体調を崩した時、石水が凪を飲みに誘っているのを目撃してしまった時。大きく成績を落とすことはなかったが、太河はわかっていた。これは凪が関係しているからミスをしたんだと。そして、その小さなミスに太河本人だけでなく、凪も勘づいていたのだ。  昔から太河のことをよく見てきたうえに担任として生徒たちの成績チェックを細かくやっているのだから気付くのも不思議なことではない。 「……凪のことを狙ってるやつが大勢いる」 「なんだそれ? 暗殺か?」 「違う、恋愛的な意味で!」 「……はぁ……そういう話か……わざわざ男子校選んだのに……」  面倒くさそうにぼやいた凪は指先で目頭を軽く押さえた。その表情には少し疲れの色も見える。  いつもは賑やかな校舎内も放課後のこの時間はすでに人もほとんどおらず、二人以外の話し声は聞こえてこない。遠くのほうからは時折、野球部のボールがバットに当たるキーンッという音が響いていた。 「……凪は、なんでこの学校を選んだの? その……留学中もいろいろあったよね……」 「そうだな。けど、あれはイギリスでの話だ。可能性で考えたら男の教師と女の生徒でのトラブルのほうが日本ではありえるだろ。それで変な噂流されたりとか、とにかくトラブルになるようなことは避けたかったわけ。俺がやりたいのは純粋に生徒を教えることだったから、ここ選んだんだけど……入ってみたらお前もいるし、他にもいるなんて」 「俺を他のやつと一緒にしないで」 「ぷっ、はいはい。で、話を戻すけど、他のやつが俺のこと狙ってて不安になったって?」 「……うん」  窓際のほうへと歩いていく凪のことをオレンジ色の夕日が照らし出した。くるりと振り返った素顔の凪はいつも教壇で見るようなクールさはない。少し悪戯っぽく、年齢よりも若く見える笑顔を浮かべている。教師として黒に戻した髪の毛が今は夕日の色で明るく見え、それは大学生の頃の彼を思い出させた。  あの頃の凪がその場にいるような錯覚に、今すぐにでも彼の傍に駆け寄りたくなる。しかし、彼は太河に背中を向けてしまった。そして、外を見ながらも言葉は太河へと投げかけた。 「俺がこの学校選んだ理由、さっき言っただろ。つまり、お前が心配しているようなことにはならないよ」 「……先生とは?その……石水、先生とか……」 「ないない」  片手をひらひらと振りながら再び太河のほうへと振り向いた凪は相変わらず笑顔を見せていた。  何があっても大丈夫だと思わせてくれる笑顔。それは昔から変わらず、太河のことを安心させてくれる。 「他に心配事は?」 「あとは……襲われないように気を付けて」 「……ぷっ、ははっ、一体何聞いたんだよ」 「……眼鏡」  凪の手の中に収まる黒縁の眼鏡。知らない生徒が取ったと自慢気に言っていたもの。  その眼鏡をじっと見つめる太河の視線に気付き、凪も眼鏡へと視線を落とした。数秒考え、少し前にあったことを思い出したようだ。 「あぁ、補習中の話? あいつふざけてるよな。眼鏡取って何が楽しいんだ。それより補習受けないように勉強しろっての」  凪が生徒の文句を言っている。とても珍しいことだ。  眼鏡を取った生徒が相当怒られたと言っていたが、本当に怒ったのだろう。その証拠にまだぶつぶつと文句を言っており、つい笑いが込み上げてきてしまう。 「何笑ってるんだよ、太河」 「いや、珍しいから。凪がそんなに怒ってるの。不意打ちだったの?」 「当たり前だろ。そうじゃなきゃ俺がこんなヘマするわけない。格闘技なら負けないんだけどな……今度別の護身術も習おうかな」  まだ強くなるつもりなのか、と感心すると共に太河の不安は杞憂であることを思い出す。  他の生徒に、抱かれる側だ、可愛い存在だ、などと見られていたから太河も自然と凪を守るべき存在として見てしまっていたが、凪はそんな弱い存在じゃない。彼は自分で自分の身を守る術を知っているし、それこそ闇討ちにでも遭わない限り負けることはないだろう。  ……お酒を飲んでいる時は要注意だけど。  太河の顔色が良くなっていることに気付いた凪はフッと軽く息を零し、眼鏡をかけ直した。それは幼馴染から教師モードへと切り替える合図だ。 「保健室はもう必要ないな」 「……凪」 「ん?」 「トラブルにはしない。けど、俺は凪のこと絶対落とすから」  ネクタイを締め直していた凪の指先がぴくっと跳ね、一瞬動きを止める。しかし、すぐにいつも通りの平静な様子に戻りながら僅かに口角を上げた。それはまるで挑発するかのようにも見える表情だ。そして太河のほうへ一歩近づき、肩を軽く叩いた。 「まずは勉強だ。次も学年一位取るんだろ、佐伯」 「もちろんだよ、須藤先生」

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