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第8話 願掛け

 十月後半、朝晩は肌寒くなる日も増え、秋の気配が日に日に増していく中、一年の中でもメインイベントといえる体育祭が開催された。  高校最後ということもあり、太河のクラスも非常に盛り上がっている。大学受験を控える生徒にとっては良い息抜き、就職を控える生徒にとっては最後のバカ騒ぎだ。それは他のクラスにとっても同様であり、競技が進むにつれて全員がヒートアップしていた。 「須藤先生のクラス、かなり点数稼いでますね」 「ええ、みんなやけに気合い入ってるみたいで。そういう石水先生のクラスもすごいじゃないですか」 「うちのクラスの子たちには体育教師として競技のノウハウをたっぷり仕込んでおきましたからね。あれ? あっちから走ってくるの先生のクラスの佐伯じゃないですか?」  晴天の空の下、眩しいくらいの笑顔を見せながら太河が凪に向かって走ってきていた。きっとここが共学だったらその姿を見ただけで周りの女子たちは悲鳴を上げていただろう。だが、ここは男子校。太河がどれほどイケメンであっても黄色い悲鳴は聞こえてこず、みんな競技に夢中だ。  他の生徒に止められることなく凪の元へ辿り着いた太河は殊更嬉しそうな笑みを見せ、凪のTシャツの裾をくいっと引っ張った。 「ちょっとだけ良い?」 「ん?」  周りは下級生の競技を応援する声で溢れ、生徒も教師も視線は全てグラウンドに集まっている。  内緒話をするように太河は両手で凪の耳を覆い、そっと唇を寄せた。手で閉じられた空間の中に太河の小さな息遣いが反響し、唇が触れそうなほどの距離に凪の両耳がじんわりと赤く染まっていく。だが、それに気づいている者は誰もいない。そして、太河は凪にだけ聞こえる声で囁いた。 「最後の種目、勝ったら付き合って」  太河の最後の種目は騎馬戦。しかも騎手を任されている。優勝の鍵を握っていると言っても過言ではない大一番だ。  試合に勝って、凪とも付き合う。  それはまるで願掛けのようでもあった。  そんな太河の思いを知ってか知らずか、凪は眼鏡の奥で一瞬だけ目を見開いたが、すぐに冷静な視線に戻り、太河の額を指の関節でこつっと叩いた。ついでに近くなり過ぎた距離を離すように彼の胸を軽く手で押しのける。 「付き合うわけないだろ」 「ちぇっ、けど、勝ったら少しは考えて」 「はいはい、頑張れよ」  シッシッと追い払うと太河は来た時と同じように走って戻っていった。彼の向かう先ではクラスメイトたちが騎馬戦に備えて準備をしており、太河が戻ってくるのをみんなが待っている。  時間のない中でわざわざあれを言いにきた太河の後ろ姿を見ながら、凪は思わず苦笑いを浮かべた。すると、隣から突然声をかけられ、ハッとする。石水の存在を完全に忘れていたのだ。 「須藤先生、佐伯のやつ、俺のこと眼中になかったですよね。ところで、付き合うとかなんとかって……もしかして告白でもされました?」 「……いえ、プロレスの誘いです」      がやがやとする騎馬戦の待機場所で太河がクラスメイトと話していると何処からか聞き覚えのある声が耳に飛び込んできた。良い印象ではない。そう、この声は……いつかの放課後、凪のことを狙っているという話をしていた声だ。  バッと声のしたほうへと振り向くとその人物は騎馬戦の相手チームの中にいた。太河よりも体格が良く、一言で言えばチャラい見た目をしている。その見た目通りの目立ちたがり、というべきなのか、どうやら騎馬ではなく騎手として戦うようだ。  凪に手を出したやつ。凪のことを狙っている。こいつにだけは絶対に負けられない。  ギリッと握りしめる手に力が入り、視線は無意識に凪のことを探していた。先ほど話しかけた時と同じ場所にいる凪は石水と並んで雑談をしているようだったが、ふっとグラウンドの中央に視線を向けた。二人の視線が数十mの距離を挟んで交じり合う。  太河がじっと凪のことを見つめ、凪もそれに応えるように太河を見つめ返す。言葉はもちろんない。凪の表情もはっきりとは見えていない。しかし、少しだけ、彼が悪戯っぽく笑ったように見えた。教師の時には見せない笑みだ。  ずっとその顔を見続けていたかったが、クラスメイトの声によって太河の視線は強制的に目の前の競技へと引き戻された。 「太河、そろそろ行くぞ」 「……おう」  再び凪のほうをチラッと見ると彼はすでに太河のことは見ておらず、石水との雑談に戻っていた。何を話しているのかも気になるが、競技が始まればきっと凪は応援してくれるはずだ。  勝って良いところを見せる。今やることはそれだけだ。 「よしっ! 絶対、勝つぞ」 「なんだ、やる気満々じゃん。まぁこのクラスの勝利はお前にかかってるようなもんだからな。頼んだぞ、エース様」 「任せとけ」    パンッと騎馬戦の開始を告げるピストルの音が鳴り響いた。  チーム戦での激しい攻防が繰り広げられ、一つ、二つと騎馬の数が減っていく。そして、制限時間が迫る中、まるで運命であるかのように両チーム一騎ずつが残った。その相手は凪のことを狙っているあの生徒の騎馬だ。  相手は勝利を確信しているかのように挑発的な笑みを浮かべている。  こんなやつに絶対負けられない。 「行くぞ!」  ここまでの指示も連携も完璧だ。倒した騎馬の数で言えば太河が圧倒的一番。だから、このタイミングも間違っているはずがない、そう思った。だが、次に聞こえてきたのは終わりを告げるような言葉だった。 「やばいっ! 太河待て!」  騎馬役の生徒の焦る声が聞こえ、どうにか体勢を持ち直そうとする。しかし、身体はすでに傾き、重力に逆らうことができなくなっていた。 「ッ……!?」  手が虚空を掴む。ここで、相手のハチマキを掴むはずだった。しかし、手の中には何もなく、騎馬全体のバランスが崩れ、高い位置にあった視点が一気に落下していく。  周りに鳴り響く派手な音、舞い上がる砂埃、足首に走る激痛。そして目の前を赤いハチマキが通過した。  それは太河の額にあったもの。  握っているのは、あいつの手。目に映ったのは勝ち誇った笑み。  ……あぁ、負けたんだ。  願うと失敗する。ずっと付き纏ってきたジンクス。今回こそ勝てると思った。だけど、また負けた。しかもこんな無様に。  もしかしたら、凪への告白は一生成功しないかもしれない。ここぞという時にいつも失敗する。凪と一緒になることは許されていない、そういう運命なんだ。  そう思ったら、砂埃が去ったあとの青空がやけに清々しく見えた。 「……負けた」  ぽつりと呟いた瞬間、瞼がじわっと熱くなり、喉が締め付けられるような感覚がした。  身体もおかしなくらいに重く感じ、もうこのまま動けなくなるんじゃないかと錯覚する。だが、それを遮る人物が現れた。 「な、ぎ……?」 「何やってんだ、バカ。早く保健室行くぞ」  どうして……?  なんで凪がこんなところに?  何が起こっているのか理解が追い付かないうちに凪は有無を言わさず太河のことを引き起こした。そして、あっという間にその身を背中に担ぎ、難なくその場に立ち上がる。  これには太河だけでなくクラスメイト、なんなら全校生徒と教師陣ですら驚いた。傍目から見たらそこまで力のあるように見えない凪が体格の良い太河のことを持ち上げたのだから。それ以前に、太河が騎馬から崩れ落ちたあとの行動も誰よりも早かった。自分のクラスの生徒だからと言ってもそこまで素早く動ける先生はそうそういないだろう。 「佐伯以外に動けないやつはいないか?」 「須藤先生……すごいっすね……えっと、他のみんなはかすり傷くらいです」 「そうか。なら、良かった。こいつのこと保健室連れて行くから、怪我したやつは傷口洗っとけよ」  クラスメイトへの指示を出し終えた凪は太河を背負ったまま保健室のほうに向かって歩き出した。周りの生徒たちが何か言っているが、その言葉は頭には入ってこず、凪の背中から伝わる体温だけを鮮明に感じる。  グラウンドから校舎へ向かって行くと生徒の姿は見えなくなり、太河はようやく現実に戻ってきたかのようにぽつりと呟いた。 「かっこいいとこ、見せるはずだったんだけどな」 「ばか太河、怪我したら意味ないだろ……はぁ、お前は本当昔から変わらないな」  そんな風に呆れながらも凪は真っ先に助けにきてくれた。放っておいてもクラスメイトだけでどうにかできるところを周りの目も気にせずグラウンドに飛び込んできた。  太河に変わってないなんて言ったけど、凪も昔と変わってない。 「また凪におんぶしてもらえるなんて思わなかった」 「昔は軽かったのにな。今は重すぎだ」 「降りようか?」 「怪我したやつが何言ってんだ。大人しくしてろ」  凪よりも身長が高くなった。きっと体重も凪より重い。だけど、彼はぶっきらぼうな言い方をしていても決して太河のことを降ろそうとはしない。  足首はズキズキと痛むが、今のこの時間がずっと続けば良いのに、と思ってしまうのは仕方のないことだ。   「うわっ……人多すぎ……しょうがない、ちょっと待ってろ」  保健室に着いたものの怪我人と体調不良者が多く、保健室の先生は手が回っていない状態だった。仕方なく湿布と包帯をもらって人気のない木陰のベンチへと行き、凪は太河の足の様子を見始めた。  白くて長い指が足を滑っていく様子に太河の鼓動はドキドキと音を早めていた。  凪の指先はひんやりとしているが、それとは対照的に首筋には薄っすらと汗が浮かんでいる。いつもは白い頬も僅かに赤くなり、改めて、太河をここまで運んで来るのは容易ではなかったのだと実感する。だが、凪はそのことを一切見せようとはせず、淡々と足首を確認していた。 「折れてはなさそうだな……腫れもそこまでひどくないから多分大丈夫だろうけど、一応あとで病院行っとけよ」  砂で汚れた足が丁寧に拭かれ、そこに湿布と包帯が巻かれていく。よくよく見てみると騎馬戦前に話しかけた時は白かったはずの凪のTシャツは太河を背負ったことによって汚れていた。それだけでなく、今も自分が汚れることは気にせず、手当てをしてくれている。 「……」  ジンクスに心が折れそうになった。いっそのこと、あの瞬間に凪が放っておいてくれたら諦められたかもしれない。  だけど、彼は来てくれた。助けてくれた。  諦められるわけない。 「……凪」 「ん?」 「好きだ」  ザァッと落ち葉が擦れる音がやけに大きく聞こえた。そして、その中でもはっきりと聞こえた太河の真剣な声。  凪が顔を上げると、声と同じように真剣な瞳をした幼なじみと視線が絡む。  遠くのほうで聞こえる生徒たちの応援の声や風で揺れる木々の音が耳元を通り過ぎ、次いでどくん、どくん、と心臓の音が大きくなっていく。  目の前にいるのは自分の生徒、幼なじみ、それ以上、何にもなってはいけない。だけど、この見つめ合う時間がもっと長く続けば良いのに、と一瞬だけ思ってしまう。しかし、遠くのほうでパンッと鳴ったピストルの音が意識を現実へと引き戻した。  フッと笑みを見せた凪は視線を落とし、太河の足を軽くぺちっと叩いた。 「痛っ!」 「ほら、戻るぞ」 「……はぁい」  裸足のままの太河のことを凪は再び背負った。太河の心臓の音が背中越しに伝わり、逆の立場じゃなくて良かったと心の中だけで安堵のため息を吐く。 「さっきの、ちょっとはときめいた?」 「一つ、俺がお前と同い年。二つ、俺が女だったら。この二つの条件があったら可能性があったかもしれないな」 「えー」  背後で頬を膨らませている気配を感じながら凪は口角を少し上げた。  太河は、深く刻まれてしまっていた二人の溝を数か月であっという間に埋めてきた。そして、教師という名で壁を作ってきた凪の中に確実に入り込もうとしている。 「凪」 「ん?」 「呼びたかっただけ」 「……ばか太河」

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