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第9話 消えない痛み
体育祭の翌日、太河の怪我は大したことがなかったものの痛みは完全には引いておらず、まだ少し歩き方に違和感があった。とはいえ、松葉杖をつくほどでもなく、一人で歩くのも問題ない程度だ。
ひょこっひょこっと片足を微かに跳ねさせながら歩いていると階段のところで偶然にも凪と鉢合わせた。
昨日のTシャツ姿とは違い、今日はいつも通りのスーツ姿に戻っている。態度もいつも通りのクールなもの、かと思ったが、珍しく凪のほうから太河の傍へと近寄ってきた。
「足、平気か?」
「うん、まだちょっと痛いけど、だいじょ……あっ」
「ん?」
太河が何かを思いついたかのように階段のほうを見てから笑みを浮かべた。そして、身長差のほとんどない凪の肩へと長い腕を回し、僅かに体重をかけてくる。
「おい、なんだよ」
「須藤先生、お願い。階段手伝って」
確かに廊下とは違い、怪我をしている足での段差の上り下りは大変だし危険だ。学校内でこんな密着するなんて……と凪は一瞬躊躇ったが、無理して転がり落ちでもしたらそれこそ大事件になってしまう。
軽く溜め息を吐きながら凪は太河の腰へと自身の腕を回し、その身体をしっかりと支えた。
「気を付けろよ」
「やった。ありがと、先生。あれ、なんかいつもと違う匂いがする。シャンプーでも替えた?」
「犬かよ。けど、正解」
くんくんと首筋付近の匂いを嗅いでくる太河の行動は本当に犬のようで思わず笑ってしまう。
以前までは警戒して距離を取るようにしていたが、こんな何気ないやり取りが今は心地よく感じ、もう少しこの時間が続けば良いのに、とすら思えた。しかし、たった1階分の階段はすぐに終わりが見えてしまった。
あと数段で終わり。そう思っていると上階の廊下から数人の生徒の話し声が聞こえてきた。それは、この学校でも一番タチの悪い不良グループ。凪のクラスにいる左波なんて可愛いものだ。今、目の前に現れたグループは全員が校則を無視して派手な髪色にし、ピアスを開け、服装も乱している。
一般の生徒は極力関わり合いになりたくない部類であり、太河もその一人だ。だが、運の悪いことにリーダー格の人物が階段を上がってくる太河と凪に気付いて話しかけてきた。
「よぉ、太河、やけに須藤先生と仲良いな」
「……怪我したから手伝ってもらってるだけだ」
「ふぅん……そういえば須藤先生、眼鏡取ると可愛い顔してるらしいじゃないですか。俺も見てみたいなぁ……取ってくれません?」
まさか補習中に眼鏡を取られたことが噂になっていたなんて。しかも教え子たちから可愛い顔、だなんて心外すぎる。
実際は眼鏡を取ることなんて大したことではないし、取ったところで別に面白くもなんともないはずだ。しかし、そう思っている凪の横で太河の様子が明らかにおかしくなっていた。
先ほどまでリラックスしていた身体には異常に力が入っており、そのおかしさは肩を貸している凪にも伝わってくるほどだった。
「……意味もなく取るわけないだろ。ほら、早く教室戻れ。チャイム鳴るぞ」
「えー残念。前の先生は優しくしてくれたのになぁ……なぁ、太河」
「……」
凪がちらりと横を見ると太河の顔色は更に悪くなっていた。唇を噛みしめ、足の怪我がなければ今すぐにでも目の前の男を殴りにいきそうにすら見える。
太河がここまであからさまに嫌悪感を露にすることはそうそうない。それくらいまずい状況だと言うこと。とにかく、今は太河を落ち着かせることが最優先だ。
腰に回していた手を上げ、男たちには見えないところで太河の背中をトントンと手のひらで優しく叩く。すると、太河も凪の行動にすぐに気付き、小さくこくっと頷いた。
「前の先生のことは知らないけど、俺はそんな優しくないからな。これ以上無駄口叩くとお前のクラスの宿題増やすぞ」
「うわっ、須藤先生横暴~。じゃあ、もう行きますよ」
彼らはへらへらとしながらその場から立ち去った。しかし、教室に入っていく様子はなく、何処かサボりにでも行ったようだ。
最後の一人の後ろ姿も見えなくなり、強張っていた太河の身体からようやく力が抜けたのが凪にも伝わってくる。
「……あいつらと何かあったのか?」
「俺が直接何かあったわけじゃないけど……前の担任が辞めたの、あいつらのせいかも……」
以前話していた前任の噂。何処かのグループと関係していたかもしれないというもの。あの時は左波のグループを疑っていたが、先ほどの生徒たちは確実に何かを知っているような口ぶりだった。
別のクラスの生徒が自分のクラスの担任を辞めさせていたかもしれない。しかも、今度は凪のことを狙っている。そうなったら太河にとっては不安にしかならないだろう。
凪は、はぁ……と一つ息を吐いてから太河の額を指先でぺちっと叩いた。
「痛っ」
「お前はそのことに関わってないし詳しく知らないんだろ。憶測でものを言わないこと。今は忘れろ」
「……うん」
放課後、太河には忘れろ、などと言ったが、凪自身も気になって仕方がなかった。噂話なんていつもならば気にしない。しかし、今回は太河が異常なほどに警戒しており、もしこれ以上厄介なことに巻き込まれたらまた成績に影響する恐れもあるからだ。
大学受験までもう残り少ない。そんな時に心配事を増やしたくなかった。
「あの、石水先生……ちょっと良いですか? 前任のことについて知っていたら聞きたいのですが……」
生徒が知らないことでも先生なら知っているはず。彼なら嘘をついたり隠し事をすることもないし、凪が話しかければいつも元気に答えてくれる。だから、今回もいつもの調子で石水は返事をしてくれるだろうと思った。しかし、彼は一瞬黙り込み、職員室内をぐるりと見渡した。室内には先生が数人と先生と話している生徒の姿がある。それを確認してからまるで誰かに聞かれたら不味いかのように声のトーンを落とした。
「生徒指導室で話しましょう」
「えっ……はい……」
生徒指導室に入るとひんやりとした風が吹き込み、外ではごろごろと雷が鳴っていた。昨日の快晴の体育祭からは一変、今にも大雨が降りそうな空模様だ。
そんな外の空気も合わさり、嫌な予感がピリピリと増していく。
「須藤先生の前任の話ですよね。あの方が辞めた……いや、辞めさせられたのは……所謂、不貞行為というやつです」
「えっ」
「しかも生徒との」
外に眩い光が走り、雷の激しい音が鳴り響いた。ぽつぽつと雨が窓を打ち付けていたが、それはすぐにザーザーと本降りの雨に変わり、窓から見える景色を真っ白に変えていく。
「生徒との……不貞行為……」
信じられない言葉が自身の口からも零れ落ち、脳内で何度も繰り返される。
それは生徒を教育する立場の教師として絶対に許されないものだ。
「……あの方も自分から望んでやったわけではないみたいなんですよ。けど、世間的にね……」
石水は所々ぼかしながらも何があったのかを教えてくれた。
この件が明るみになった時、前任も弁解していたそうだ。不貞行為と言っても生徒側に強要され、自分にそんなつもりはなかったと。だが、複数回に渡る行為は監視カメラに残っており、音声データのない映像だけでは正確な判断ができなかった。
強要されたからと言ってそれを止めるのが教師の役目だという結論の元、前任は解雇処分。生徒側の強要の真相はわからないままだったが、未成年の子どもを処罰するわけにもいかず、生徒側は厳重注意だけとなった。
そして担任が不在となったタイミングで後任として選ばれたのが凪だ。
「須藤先生は面接での受け答えもしっかりしていましたし、格闘技経験もあるということで何かあっても上手くやってけるんじゃないかって入ってくる前からみんな期待してたんですよ。前任のことがあったばかりで若い先生はどうなんだって声も多少はありましたけどね。今は須藤先生で良かったってみんな言ってます」
石水の言葉に呆然としながらも小さく頷く。
確かに、三年生を受け持つと言われた時に疑問を抱いた。普通ならば新任教師は一年生から、と言われていたから。けれど、当時はそこまで深く考えていなかった。前任も何か事情があって自分から辞めたのだろう、くらいの認識でいたから。
まさか、そんなことがあって辞めさせられていたなんて。太河が心配していたことはほぼ当たっていたのだ。きっと生徒たちの間でも詳細はわからずともそれらしい噂が回っているのだろう。それか不良グループともなれば裏では自慢話のように語っていたのかもしれない。教師と関係を持って辞めさせた、と。
「驚いたかもしれませんけど、まぁ今の須藤先生のクラスに該当の生徒がいるわけではないので。そんなに考えすぎないでください。もし何かあったら助けに入りますから言ってくださいね」
「……はい」
「あ、そろそろ職員会議の時間ですね。戻りましょう」
「はい……ちょっとお手洗いに寄ってから戻りますね」
外の雨はますます激しさを増しており、学校全体もどんよりと暗く沈んでいるように見えた。
トイレ内に他に人がいないことを確認し、気持ちをリセットするように洗面台で顔を洗い流す。やけに冷たく感じる水を滴らせながら顔を上げると鏡には暗い顔をした自分が映っていた。
ぽたっ、ぽたっ、と雫が垂れていき、白いシャツに水の跡を残していく。
石水に教えてもらった真相が頭の中をぐるぐると巡っていた。そして、次に浮かんできたのは太河のこと。
自分は教師。彼は自分の教え子。
「教師は……生徒を教育する立場……」
それは当たり前のこと。ずっとその信念を大切にやってきた。
関係を持ってはいけない相手だとわかっている。わかっているはずなのに……。
「……ははっ……どうしようも、ないな……」
乾いた笑いと共に頬を伝った雫は胸元に落ち、染みを広げていった。
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