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第10話 大人の事情

 おかしい。 「ここの漢文についてはー……」  凪の凛とした声が教室内に響く。それはいつもと変わらぬ光景。だが、拭えない違和感に太河は眉間に皺を寄せた。 「じゃあ、左波答えてみろ」 「はい! 先生、恋人できましたか?」 「ばかなこと言ってないで質問に答えるんだ。宿題増やすぞ」  呆れながらも微笑を浮かべる凪に教室内には笑いが沸き起こる。だが、太河だけは笑えずにいた。やっぱりおかしいからだ。  ……凪と目が合わない。  こういう質問をされた時、周りは気づいていないだろうが凪は太河のことを見るのが癖になっていた。そうでなくても授業中には何度も目が合っていたのだが、どういうわけか一週間ほど前から全くと言っていいほど目が合わなくなったのだ。  何か彼の気に障るようなことでもしてしまったのだろうか。しかし、思い当たる節が何もない。あるとすれば、一週間前の不良グループとの遭遇くらいだろうか。だが、凪は気にするな、と言っていたし、放課後になるまでも彼は普通だった。  その後の職員会議で何かあったのか……?  正解を出すことができないまま授業終了のチャイムが鳴り響き、凪はすぐに教室を出て行ってしまった。 「……」  この行動も目が合わなくなったのと同じ時からだ。少し前までだったら授業の質問を受けるために凪は教室に数分間は残っていた。太河もそれを狙って話しかけにいったことが何度もあるし、その度に「お前は別に必要ないだろ」と言いながらも話を聞いてくれた。  クラスメイトたちは特に気にしていないようだが、やはり気になる。いっそのこと放課後、職員室に行ってみようか。相談したいことがあると言えば彼はきっと二人きりで話せる場所に連れて行ってくれるはず。だが、太河の目論見は見事に外れてしまった。 「えっ、須藤先生いないんですか?」 「あぁ、今はD組の補習行ってるよ。何か急ぎの用か?」 「いえ、急ぎでは……」  ここなら確実に凪と話せると思ったのに。  内心で深い溜息を吐き、がっくし肩を落とす。すると近くにいた教師たちの会話が耳に飛び込んできた。 「それにしても須藤先生、最近頑張りすぎですよね。毎日いろんなクラスの補習して、夜も一番遅くまで残ってて」 「そうですね、倒れないか心配……って、須藤先生意外と体力ありましたね。体育祭でのあれすごかったですし」  体育祭のあれ、とはきっと太河を助けたことを言っているのだろう。やはり細身に見える凪が太河を背負ったことは教師の間でも話題になっていたようだ。しかし、それよりも補習と夜遅くまで残っているということのほうが気になった。どうして凪はそこまでしているんだ。しかも、自分のクラスではなく、別のクラスで。  確かに、太河のクラスは凪の補習を一番受けているおかげか、クラス全体を見ても国語の成績がかなり上がっている。それで補習をもうしなくていいというのも納得はできるが……。  目が合わない、教室からも早く出ていく、もちろん会話もない。まるで凪が太河のことを避けているように思えてきてしまう。  モヤモヤしながら太河の足は凪が補習をやっているという教室へと向かっていた。  話せるかはわからない。だけど、前みたいに補習中の生徒が真面目に受けていなかったら一時的にでも外に出てくる可能性はある。  とりあえず様子見だけでも、と後方扉の窓からチラッと中を覗くと職員室で言っていた通り凪は補習をしていた。それ自体は別に問題ない。問題なのは補習を受けている生徒たちだ。 「なんで……あいつらっ……」  ギリッと握りしめる拳に力が入る。そこにいたのは一週間前に鉢合わせた不良グループ。  授業もまともに受けないあいつらがどうして補習なんて。  彼らが自ら受けに来たのか、それとも凪が受けさせたのかはわからない。しかし、教室という狭い空間にあのグループと凪が一緒にいるということに危機感が募っていく。  今は大人しく椅子に座っているようだが、もしも、あいつらが凪に手を出そうとしたら……殴りに行くしかない。  瞬きすら忘れて中の様子をじっと見つめていると生徒の一人が凪に話しかける声が聞こえてきた。 「凪ちゃん、眼鏡取ってよ」 「名前呼び禁止。ちゃん付け禁止。眼鏡も取らない」 「俺らこんなに真面目に受けてるのにさぁ、ご褒美くらいあっても良いんじゃない? 眼鏡だけじゃなくてもっと激しいことしても良いよ」  やっぱりこいつらは危険だ。凪もどうしてわざわざこんな奴らのために補習なんてしているんだ。  太河の立っている場所からでは凪の表情は確認できず、彼が今どんな感情を持っているのかはわからない。  バクバクと心臓の音が耳の奥から響き、手のひらにはじっとりと汗が浮かんでいく。  やっぱり、何かあってからでは遅い……今すぐ飛び込むべきか?  扉に片手をかけ、ごくりと唾を飲み込む。すると、太河の行動を制止するように凪の落ち着く声が聞こえてきた。 「じゃあ、条件出してやる」 「おっ、ヤる気満々? なになに?」 「テストで学年一位取ったら言うこと聞いてやるよ」  ……学年一位。  それはいつも太河がいる位置。  少し点数を落とすことがあってもこの学校に入ってからその位置を揺るがしたことはない。 「うえっ、佐伯に勝たなきゃってこと? あ、けど佐伯に勝ったら好きにして良いの?」 「あぁ。けど、手は出すなよ。ちゃんと勉強で勝たなきゃ無効だからな」 「きっつー、あいつはチートだよ。出来が違うから俺たちには勝てないってー。それにしても凪ちゃん、佐伯のこと信じすぎー」 「フッ……チートなんかじゃない。あいつはずっと努力してる。だから信じられるんだよ。ほら、無駄話してないで目の前のこと片付けろ」  扉を掴んでいた手からフッと力が抜け、無意識に止めていた息を吐きだす。瞼を閉じて思考を落ち着けてから教室内をもう一度見るとちょうど凪の横顔が見えた。真面目な顔をした彼は生徒のノートを指差しながら解説をしている。そして、生徒の納得したような声が聞こえると僅かに口角を上げた。  凪は教師だ。  今、彼がやっていることは普通のこと。  あいつらは危ないかもしれないけど、凪はしっかりしている。それに、凪は太河のことを信じていると言ってくれた。それなら、自分も凪のことを信じなければ。 「……よし」  今、太河がやれることは暴力に訴えることじゃない。成績を落とさず、彼の期待に応えることだ。  軽くなった足取りでその場から離れると静かな廊下に生徒の声が響いた。しかし、その内容ははっきりとは聞き取れず、太河は特に気にすることなく帰路へとついたのだった。 「凪ちゃん、廊下のほうずっと見てるけど何かいたの?」 「……いや」  それから更に一週間が経った。変わらず凪のことは信じている。しかし、それとこれとは話が別だ。本当に目を合わせてもらえない。  授業中ずっと見つめ続けても彼は視線を合わせようとしないし、授業で太河のことを呼ぶ時も教科書や黒板を見ながらなど、とにかく目を合わせてくれない。  どうにか話す機会を見つけてみようと塾帰りに凪のアパートに行ってみたりもしたのだが、職員室で先生たちが話していたように夜遅い時間にも関わらず凪は帰っていなかった。もちろん他クラスでの補習も継続中だ。  教室で毎日のように会っているのに、二人きりで話すのがこんなにも難しいなんて。  放課後もダメ、夜もダメ。  こうなったら……呼び出すしかない。 「失礼します。須藤先生、いらっしゃいますか?」 「あぁ、佐伯か。須藤先生なら学年主任と話してるぞ。どうした?」  ひと先ず職員室に来てみたが、やはり凪は一発では捕まえることはできなかった。まぁ、これは想定内だ。 「受験する大学のことで相談があって……できれば今日時間取ってもらいたいですけど」 「あぁ、なるほど。ちょうど生徒指導室空いてるし、そっちで待ってろ。須藤先生戻って来たら伝えておくから」 「ありがとうございます」  ようやく凪と二人きりで話すことができる。さすがにこれで逃げられることはないだろう。  生徒指導室に入ると窓からはオレンジ色の夕日が差し込んでいた。体育祭のあとからずっと不安定な天気が続いていたが、今日は久方ぶりに雲のない空が広がっている。  そういえば、以前、凪とここに二人で来た時は冷房を使っているような夏の暑さが残る日だった。気付けば窓から見える木々の葉は茶色くなり、日が暮れる時間もずっと早くなっている。  一年は長いと思った。しかし、凪と一緒にこの学校で過ごす時間もあと少ししかないんだ。  徐々に濃紺色に変わっていく空を眺めていると背後からガラッと扉の開く音が響いた。息を吐きだし、ゆっくり振り返るとそこにはずっと待っていた人物。いつもと変わらない教師の顔。だけど、なんとなく気まずそうにも見える。 「佐伯、どうし」 「ねぇ、なんで目合わせてくれないの?」 「……」  凪の視線が下へと落ちる。  やっぱり、目を合わせてくれない。 「凪……」  一歩、凪へと近付く。すると、彼は逃げるように一歩後ろへと下がってしまった。すぐ後ろには扉があり、逃げようと思えばいつでも逃げられる。 「……」  少し、強引かもしれない。けど、今はこれしかない。  太河は一気に凪との間合いを詰めた。そして、彼の顔を包み込むようにして眼鏡のつるに触れる。 「っ!?」 「凪、ちょっとだけ、時間ちょうだい」  カチャッと彼の眼鏡を外す。その下から現れたのは動揺を浮かべる彼の瞳。久しぶりに絡み合う視線。  大きく開いた瞳は僅かに潤み、白い頬がほんのりと赤くなっていく。 「やっと、目が合った」 「……ばか太河」  再び凪の視線が落ちそうになり、片手で顎をくいっと支える。動きを防がれてしまった凪は左右に視線を彷徨わせたあと、仕方なく太河のことを見つめた。その瞳の潤みは先ほどよりも増しており、今にも雫が零れ落ちそうだ。 「泣かないで」 「泣いてない」  彼の黒く長い睫毛はしっとりと濡れ、細く吐き出す息も微かに震えが混じっている。ずっと我慢していたものが決壊してしまいそうな、そんな姿にも見えた。  凪は一体、何を耐えているんだ。こんな風になるまで、一人で何を抱えているんだ。  聞きたいことはいろいろある。ありすぎて言葉が出てこない。子どもの頃ならもっと単純だったのに。  ただじっと互いを見つめ合い、カチカチと時計の針の音だけが室内に響いている。太河が口を開こうとしたが、それより先に凪の小さな声がこの時間の終わりを告げた。 「……太河、時間切れ」  凪はちらりと上方を見た。そこには小型の監視カメラが設置されており、扉近くにいる二人がしっかり映っているのかは微妙なところだったが、凪は不安気に眉尻を下げた。  あまり長いことこうしていたら確かに怪しまれてしまうかもしれない。  太河はさっとポケットからハンカチを取り出し、湿り気を帯びた凪の目尻を優しく拭った。 「何か言われたら目にゴミが入ったってことにしよう」 「……学校で変なことするな……眼鏡返せ」  絞り出すような声に、その場で彼を抱きしめたくなる。しかし、今そんなことをしたら怒られるのは目に見えていた。  衝動をぐっと堪え、太河は手に持っていた眼鏡を彼に戻した。  レンズの奥に見える目と目尻にはまだ少し赤みと雫が残っているが、黒縁の眼鏡が上手いことそれを隠している。 「凪、何かあったの? それとも俺が何かした?」 「別に、お前は何もしてない……大人の事情だ」  凪は再び視線を下へと落とした。それはまるで何かを隠しているようであり、自信がないようにも見える。  全部話して、と言いたい。凪の抱えている悩みも教えて、と言いたい。だけど、『大人の事情』で済ませた彼は絶対太河には話してくれない。少なくとも、今は教えてくれない。  それは今までの経験で学んだ。それなら、今は生徒としての特権を使って凪を元気付けるしかない。 「須藤先生」 「え……?」  凪がパッと顔を上げた。レンズの奥で目をぱちぱちと瞬かせ、心底驚いた、という顔をしている。  呼び方を変えただけでここまで驚く凪を見たことは今まで一度もない。それに、どういうわけか凪の瞳が再び潤んできているようにも見える。もう少し近付いてみようとしたが、彼はふいっと顔を下に向けてしまった。 「また、泣きそう?」 「……違う」  その短い否定の言葉にはやはり少しだけ震えが交じっている。必死に隠そうとする彼にずきりと胸が痛み、もどかしい気持ちが募るが、太河が今できることは話題を変えることぐらいだ。 「じゃあ、生徒の佐伯から須藤先生にお願いがあるんだ。入試対策の問題作ってほしくって」  これは太河の作戦だ。正直、入試対策は塾でもできる。しかし、どうにかして凪との関わりを深くするきっかけが欲しかった。  太河個人として『凪』にお願いをしたら断られたり、逃げられたりすることもある。しかし、教師の『須藤先生』として頼れば凪は断ることができないはずだ。 「入試、対策……」 「うん。ダメ?」  凪もまさかこんなお願いをされるとは思っていなかったのか、珍しくその場で固まっている。  これで断られたら本当に太河との関わりを絶ちたいということになってしまうが、幸い、凪はそれを望んでいるわけではないようだ。 「あぁ……そういうことなら良いけど」 「やった。須藤先生が担任で良かった」  太河が笑顔を見せるとずっと強張っていた凪の表情がフッと緩んだ。ずっと詰めていた息を吐きだし、いつもの調子を取り戻すように背筋を伸ばした。 「大量に作ってやるから覚悟しとけ」 「もちろん。どれだけ来ても全部こなすから」  トンッと太河の胸を軽く叩いた凪の顔には悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。それは幼馴染の凪と、教師の須藤先生としての両方を思わせるような笑みだった。

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