12 / 13
第12話 先生から卒業
凪が赴任してからの月日はあっという間に過ぎた。
受験前日を迎えた今、外ではちらちらと雪が降り、厚い雲が空を覆っている。教室に残っているのは太河と凪の二人きりだ。
この教室で向き合って勉強を教えてもらえるのは今日がきっと最後。受験前の最終チェックをしていると再会してからの日々が脳裏を駆け巡っていく。
最初は避けられた。そのあと距離が縮まった。少しぎくしゃくした時もあったけど、凪は逃げないでいてくれた。そして今、こうして先生と生徒として見守ってくれている。凪がいなくなってしまった直後の太河だったらこの状況だけでも満足していたかもしれない。だけど、やっぱり、今はそれ以上を望みたい。
「ねぇ、凪」
「ん?」
「大学、合格したら付き合って」
高校受験のときは言えなかった言葉。
体育祭の騎馬戦前には言ったけど失敗に終わった言葉。
今回は絶対に失敗しないという自信がある。凪のことを本気で口説くと宣言した四月から彼がなびく様子はまだ見せてくれていないが、それでもここで言っておきたかった。
「……」
ノートにペンを走らせていた凪の指がぴたっと止まる。視線もノートの上に止まったまま、ペンを握りしめる指にだけ僅かに力が入ったように見えた。
部活動をする生徒もいない学校内はシンと静まり返り、外の木からぱさっと雪が落ちる音が響いた。
「凪?」
「……考えるよ」
「え?」
「いつもみたいに失敗したら許さないからな」
凪の指が再びノートに文字を書いていく。先ほどと変わらないように見えるが、彼の耳は赤くなり、いつもは一切乱れない文字が少しだけ傾いていた。
その様子に、彼に言われた言葉が脳内で反芻する。
『考える』。
凪が、考えると言ったのだ。
いつもは考える余地すら与えず断ってきた彼が。
自分の聞いた言葉がもしかしたら幻聴や夢なのではないかと思ってしまう。なんならもう一度言ってほしい。お願いしたらもう一度言ってくれるだろうか。
喜びを表すように凪の手を握りしめようとしたのだが、太河の手には凪の手、ではなく別のものが置かれた。
「これ……」
渡されたのは赤いお守りだ。『合格祈願』の文字と共に書かれているのは少し遠い場所にある神社の名前。この辺りでは有名な学問の神様の神社であるが、辺鄙な場所にあるということでも有名である。
一体いつ買ってきてくれたんだ。平日は朝から晩まで学校にいて、休日も暇なわけではなかっただろう。それなのに凪は太河のためにわざわざこの神社まで行って、合格を祈り、お守りを買ってきてくれたのだ。
じわじわと顔が熱くなり、いつ行ったのか、どうして買ってきてくれたのか、といろいろと聞きたくなったが、それを止めるように一本の指が太河の唇の前に立てられた。
「余計な詮索はするな。お前は明日の試験のことだけ考えろ」
口調はいたって冷静。しかし、凪の耳と頬はわかりやすいほどに赤くなっている。
本当ならここで喜びのままに叫んで抱きしめたい。しかし、その気持ちをぐっと押さえつけ、太河は笑みを浮かべて貰ったお守りを握りしめた。
「凪、ありがとう」
「……学校では先生って呼べ」
「はい。須藤先生」
降り続いていた雪はいつの間にか止んでいた。
明日は本番。天気予報は快晴だ。
◆
「失礼します! 須藤先生!」
ガラッと勢いよく職員室の扉を開け、凪の姿を探す。だが、いつも座っている場所に彼の姿はない。トイレにでも行っているのかと見渡しているとすぐ近くに座っていた副担任が話しかけてきた。
「佐伯、職員室に入るときはもっと静かにしろ。あと、須藤先生は休みだぞ」
「あ、すみませ……休み?」
「あぁ、なんでも体調不良とかで今朝連絡があってな」
「えっ……」
凪がいない。そんな、おかしい。
先ほどまでの高揚していた気分から一転、額には嫌な汗が浮かび上がり、バクバクと心臓の音が大きく、早くなっていく。そして、悪い予感が脳裏を過った。
また凪がいなくなってしまう。今度は二度と見つけることができないかもしれない。
そう思った瞬間、太河は学校を飛び出し凪の家へと向かっていた。足がもつれそうになりながらも走り続けていると、ごろごろと頭上から嫌な音が鳴り響く。それはまるで高校の不合格を凪に知らせに行ったあの日のようだ。あの時も凪の家に向かう途中で雨に降られた。
絶望的な気分で雨に濡れたあの日。
今の状況は似ているけど、あの日とは違うんだ。
「はぁっ……はぁ、っ……凪……」
ぽつぽつと雨粒がアパートの手すりを打つ音が響く。
雨は少しずつ強さを増していたが、太河の髪は濡れていなかった。間一髪のところで降られる前にアパートの軒下に飛び込み、息も整わないまま凪の部屋のチャイムを鳴らしていた。
一秒、二秒、五秒、十秒……。
いつもと時間の進み方は同じはずなのにその一秒一秒が果てしなく長く感じる。心臓も呼吸も煩く、額を流れる汗は走ったせいなのか、凪が出てこなかったらどうしようという不安からなのかはわからないが、止まらなくなっていた。
あの時のようにこの扉が閉じたままだったら。そんな気持ちに押しつぶされそうな中、待ち望んでいたガチャッという鍵の開く音。そして、大好きなあの人の姿が目に飛び込んでくる。
「凪……!」
「太河……お前、すごい汗」
焦る太河とは対照的に凪は余裕のある笑みを浮かべていた。その姿は体調を崩しているようには見えず、むしろいつもより元気そうにすら見える。そう見えるのは眼鏡もスーツもなく、Tシャツにジーンズというラフな格好をしているからだろうか。
「……えっと……体調、平気?」
「ん? あぁ、大丈夫……結果、どうだった?」
結果。凪が言っているのは受験の結果だ。今日は合格発表の日だったから。だからこそ、凪が学校にいないことがおかしいと思ったのだ。彼なら何があろうと学校で真っ先に結果報告に来る太河を待っていると思っていたから。
一度ごくっと息を飲み込み、しっかりと凪の瞳を見つめる。
高校受験の合格発表の日、この部屋で不合格だと告げた。そして、疎遠になり、再び出会った。
凪のために何かをしようとすると必ず失敗するというジンクス。ずっと負け続けてきた。一時期は神に見放され、凪から離れるように言われているのかと思った。しかし、凪は見放さなかった。いつでも見守ってくれていたのは凪だ。
「合格、してたよ」
太河の声が凪の耳にしっかりと届く。
高校受験の時に見た『不合格』ではない。彼の口からしっかりと告げられた『合格』。
凪は小さく頷いたあと、太河の手首をそっと引っ張り、玄関の中へと導いた。
「凪?」
「……太河」
どくん、どくん、と凪の鼓動が早くなっていく。手のひらから伝わる少し汗ばんだ太河の熱につられるように、凪の手のひらにもじわっと汗が浮かぶような気がした。
乾いた喉をこくっと上下させ、再会した時よりも少し位置が高くなった太河の瞳を見つめる。
「あのさ……」
男同士じゃ堂々とできないけど良いのか。年の差もあるから上手くいかないこともでてくるかもしれない。将来のことももっと考えたほうが良いんじゃないのか。
何より……本当に俺で良いのか。
太河がここに来るまでにいろいろと話し合うことを考えていたし、話し合わないといけないということもわかっている。だけど……。
だめ、だな……。
目頭がどんどん熱くなっていき、言葉を続けようとしたが上手く声が出せそうにない。
凪の手は掴んでいた太河の手首を引き寄せ、そのまま彼の身体を強く抱きしめた。彼の落ち着く香りと驚きの声が耳元から聞こえてくる。
「っ!? 先生!?」
ばか太河。さっきまで『凪』呼びだったくせに抱きしめただけで驚きすぎだ。
少し前は太河に『先生』と呼ばれただけで頭が真っ白になってしまうくらいに不安だった。だけど、今はこうやって呼ばれても不安はない。ちゃんと向き合える。
凪は一度息を吐きだし、太河の耳元で囁いた。
「太河、今日は先生じゃない。それにお前もあと少しで俺の生徒じゃなくなる。この意味、わかるか?」
ずっと、自分は教師だから太河とは向き合えないと言い聞かせてきた。それが太河のためであると。しかし、それは向き合わないことの逃げだった。
こんなことで休むなんて他の先生たちには怒られてしまうかもしれない。だけど、今日だけは『先生』としてではなく、『須藤凪』として太河の合格を聞きたかった。
きっと、教師人生の中でたった一日だけのわがままだ。
太河にも凪の意図が伝わったのか、凪の背中に回った彼の腕に力が入っていくのを感じる。
「……凪、ずるい」
「今日は特別な日だからな……ってお前、力強すぎ。苦しい」
「ごめん、嬉しくて」
「ふっ……俺はもう逃げないよ」
微笑を浮かべると抱きしめていた太河の手が緩み、両手で両頬を包み込まれた。まるで大事な宝物を扱うかのように触れられ、なんともくすぐったい気持ちが湧きあがってくる。
「凪……キス、して良い?」
真正面から見つめられ、じわじわと頬が熱くなっていく。
この雰囲気に飲まれてこくりと頷きそうになったが、寸でのところで凪は首を横にふるふると振った。
「だめ?」
おねだりをする犬のように首を傾げる太河に対し、ダメだという意味を込めてこくっと頷く。
屋上で警告されたということもある。今日一日だけのわがままということもある。
何より一番の理由は、太河のキスはまだ少し怖いということ。
快感に流されてしまった数年前。同じようなことになるかは自分でもわからないが、またあの時の状態に今なってしまったら……あまりにも恥ずかしい。それこそ、教師として見せたくない姿だ。あと数日はちゃんと彼の『先生』をしなければ。
「……卒業式終わったら」
「ぷっ、今日は先生じゃないんでしょ?」
「今日だけだから。お前はまだ学生、俺はお前の先生。卒業するまではダメ」
「はぁい、我慢します、先生。じゃあ卒業式終わったら改めて告白とキス、させてね。約束だから」
「はいはい」
数日後に言われるであろう太河からの告白の言葉。一体彼はどんな言葉で告白してくるんだろうか。またいつもみたいに『付き合って』と言ってくるんだろうか。そんな想像をしながら、凪は太河の肩口に顔を埋め、笑みを浮かべた。
三月、太河は高校を卒業する。そして、凪との関係性も一つが終わり、また別の一つが新たに始まる。
その時は自分からも太河にこの言葉を返してあげよう。
好きだよ、太河。
ともだちにシェアしよう!

