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第2話

「連休のプレゼントな」  爽やかな笑顔で担任が言うと、一瞬、教室が深海のように静まった。  ドアが閉まった瞬間、あちこちで雄叫びが湧き上がる。  二十枚はありそうなプリントの束を、尊瑠はうんざりしながらリュックへ押し込んだ。  高三の秋は、誰もが受験一色だ。  配られたプリントを真剣に見返すやつもいれば、「もう専門でいいわ」とぼやきながらスマホゲームをしているやつもいる。  教室に満ちる受験ムードに押されるみたいに、尊瑠も息を吐いた。  友人からの誘いを笑って断って、足早に教室を出た。  学校を出て駅へ向かい、自宅の二駅手前で途中下車する。改札を抜けると、すぐ目の前には長い坂道。その坂を登った先、高台にある図書館へ向かうのが、高校に入ってからの尊瑠の日課だった。  坂を登るにつれて緑が増え、景色も開けていく。樹々に囲まれた図書館は秘密基地みたいで、初めて訪れたときから気に入っていた。  ここなら、誰にも会わない。その事実が、思った以上に救いになっていた。  勉強ははかどるし、読書にも集中できる。  何より、ここにいれば大和と、家の前で鉢合わせることもない。  高二のある日、部活もなく、気の抜けたまま家に帰ったことがあった。  玄関に入ろうとした背中に、後ろから声がかかって、心臓が一瞬だけ跳ねた。  反射的に、「トイレ我慢してて」と嘘をついて、そのまま家へ飛び込んだ。  意味の分からない言い訳を置き去りにして。  あのとき、大和が何か言ったかも知れないし、言わなかったかもしれない。それすら曖昧になるほど、自分は〝バッタリ〟に焦っていた。  そのあとも、玄関のドアにもたれたまま息を殺し、足音が遠ざかるまで動けなかった。  家が隣同士だと、こればかりは避けられない。だから物理的に合わない方法を考えた。  それが、図書館通いだった。  自習室の一番端の席に座り、もらったばかりのプリントを広げる。  夢や憧れというほどではないけれど、文字に触れる仕事がしたいと思っていた。  そのためには勉強をしなければ。そう思った矢先、問題を解く手が止まった。  ファインダーを覗く大和が、勝手に頭の中に浮かんでくる。  写真を撮ることが好きな少年は、今もその夢を追っている……  それより先を考えないよう、尊瑠は自分の時計の針を止めた。  シャーペンを指先で回しながら、ぼんやりと室内を眺める。  いつもと違い、勉強に身が入らない。  原因は……久しぶりに窓越しで会ったからだ。  ため息がこぼれると、斜め前に座っていた女性が振り返る。人差し指でメガネのフレームを上げ、迷惑そうな視線が飛んできた。思った以上に、ため息は大きかったらしい。  問題を目で追っても、数式はさらさらと流れて、それは解いているフリになっていた。  なんとかプリント半分終えたところで、閉館十分を知らせるアラームが鳴った。  両腕を思いっきり上に伸ばし、だらんっと一気に脱力させる。そのままの腕でリュックを取ろうと振り返ったそのとき、息を呑んだ。 「……や、まと」 「……おす」  軽く片手を上げ、そのままコートのポケットに突っ込んで、大和が近づいてくる。  喉がひくりと震え、気づけば胸元を掴んでいた。  何も言えないでいると、ふわっと汗に混じって大和の匂いが届く。小さいころからすぐそばにあった、安心できる匂いだ。  大和を見ると、額に薄っすらと汗をかいていた。  ……もしかして、自分に会うために走って来た? 「学校の帰りはいつも図書館に寄るって、おばさんに聞いたから」  その言葉で、身震いした。  全身の血が熱くなり、鼓動が忙しなく肌の下から打ちつけてくる。  大和の顔を見ると、目が合った。けれど次の瞬間、気まずそうに視線を逸らされる。その表情で、自分の中にあった期待が別の感情にすり替わった。  そうか。大和は口止めしに来たんだ。女子に抱きついているところを見た、自分を。  それしか考えられなかった。  大和がわざわざ自分に会いに来る理由なんて、ほかにあるはずがない。そもそも図書館に来たのだって、何かのついでかもしれないんだ。  こんなとこまで来なくても、誰にも言わないし、言いたくなんかないのに。  何も言わずに見返していると、大和が隣の席に腰を下ろしてきた。  ただ、座っただけなのに、空気が変わった気がした。 「勉強、頑張ってるんだな」  当たり障りのない短い口調だった。  もともと口下手だったけれど、成長するにつれ、言葉をどんどん切り詰めるようになった気がする。  小さなころは、隣で手を繋いでくれるだけで、互いの気持ちは伝わっていた。  それが当たり前だった。それだけで安心できた。大和はいつも、行動で気持ちを伝えるやつだったから。  けれど、今はそんなことは……できない。  大和は変わっていく。  立ち止まったままなのは、自分だけだ。逃げてばかりいて、中学生のころで止まったままだ。  リュックの蓋を開け、中に目を落とした。ペンケースのファスナーが閉じかけなのを、何となく見つめていた。  巡る思考は渋滞しているのに、口に出来ない。  俯いていると、視界にお茶のラベルが映った。顔を上げると、ペットボトルを差し出しながら大和が、顎をしゃくった。 「ありがと……」  受け取ろうと伸ばした指先が、大和の指に触れた。沸かしたての湯に触れたみたいに、指先が跳ねた。 「熱かったか」  少し首をかしげ、大和がペットボトルを頬に当てている。数秒後、「ほら」と、もう一度差し出された。  変わってないところを見つけた。……見つけてしまって、泣きそうになった。  猫舌な自分のために息を吹きかけ、ココアを冷ましてくれる横顔がすり抜けていく。 「ぶ、部活。引退したから、暇だよな」  咄嗟に、どうでもいいことを口にした。 「……そうだな」  プシュッとキャップを開ける音が横から聞こえた。なんでもない音でも、簡単に自分を過去につれていく。  ちらりと大和を見ると、コーラをうまそうに飲んでいる。季節なんか関係なく、選ぶのはいつも同じ。力任せにキツく蓋をするのも、変わってなかった。  他の人だと気まずい沈黙も、大和となら心地いい。でも、今はそれも薄れている。 「お、俺のいた文芸部ってさ──あ、文芸部って小説を書いたり読んだりする部活ね。週に二日しか活動しなかったけど、それでもないと、暇だ」  避けてきた時間を埋めるみたいに言葉をはめ込んでいく。昔は大和の分まで話すのは自然と出来たのに、気づけば次に話す言葉を探している。 「尊瑠は昔から本が好きだもんな」  覚えてくれていた……大和の中にまだ自分がいるみたいで、ほっとする。 「大和は登山部だろ? 写真撮りたくて入ったって。この間、おばさんがうちに来たとき教えてくれた」 「まあな。俺も引退したけど」 「カメラ、ずっと続けてたんだな。……仕事にもしたいって昔から言ってたし」  小さいころからの夢だったもんな──  心の中で続きを呟く。半分疎遠になった幼馴染が言えるのはここまでだ。 「よく覚えてるな」 「あ、当たり前だよ」  大和を見て言うと、シャッターを切るみたいに、一瞬だけ目を細めてこっちを見ていた。  考え事や困ったときにする、昔からの大和の癖だ。 「お、俺らの子どものときのビデオ、二人で見てたよ」  咄嗟に言って視線を逸らした。間近で見たさっきの表情は、心臓を落ち着かなくさせる。 「……うん、俺も聞いた」 「俺らがグリーンチーターを崇拝してたやつな」 「グリーンチーターか、懐かしいな」 「五人の中で一番、優しくて穏やかだったとこが、かっこよかった」  ようやく喉が馴染んできたのに返事がない。大和を見ると、下唇を噛んだまま、ペットボトルをペコペコさせている。  何となく、言葉にできないもどかしさが伝わって、尊瑠はまた言葉を探す。  大和はどこが好きだった?──そう尋ねようとしたとき、大和の唇がほどけた。 「……俺らより一個上の、図書委員の先輩。あの人がそんなタイプだったな」 「図書委員?」  突然飛び出した人物に首をかしげる。  記憶を手繰り寄せていると、一人の男子生徒が浮かんだ。  卒業式以来、一度も思い出さなかった名前だった。 「尊瑠、仲が良かったろ。その人に憧れてるって言ってたし」  同じ委員で、それなりに親しかった。でも、憧れていると言った覚えはない。それに、顔もろくに思い出せない相手を、仲が良かったと言えるのだろうか。 「確かに先輩は優しかったけど、なんで、グリーンチーターの話してただけなのに、先輩の話が出てくるんだよ」  声を放った瞬間、大和の瞳が揺れた。初めて見る顔に思わず身を引いてしまう。  距離を埋めるように、大和が椅子ごと詰め寄ってきた。 「な、なに」 「尊瑠。今日、俺がここに──」 「すいませーん。閉館の時間です」  ドアの開いた音と声に、びくっとなる。  スタッフが部屋に入ってくると、窓の施錠を確認し出した。 「すいません、すぐ出ます」  席を立ちながらコートを羽織り、視線で大和を急かした。  自習室を出ながら肩越しに後ろを見ると、同じように大和もついてくる。  勢いのまま図書館を出たのはいいが、言いかけた続きが気になった。  坂道を下りながら、尊瑠は右隣をちらりと見た。  鼻筋の通った横顔に、形のいい唇。顎のラインまで伸びた髪が風で揺れていて、どこを切り取っても大和は絵になる。  完璧な幼馴染に恋する人は、きっとたくさんいる。自分と同じように。  二人分の足音を聞きながら歩いていると、坂を下りきる手前で、大和の足が止まった。 「尊瑠……」  呼ばれて反射的に顔を見つめた。  坂の途中から見える夜景を背に、大和が難しい顔で自分を見下ろしてくる。 「……なに」  足を止め、視線を逸らしたまま大和に向き合う。坂道の途中では、うまく足に力が入らない。 「俺、本当は今日……」  言いかけて大和が口ごもる。  次に唇が開かれるまでのわずかな時間が、とてつもなく長く感じた。  諦めたはずの期待が、少しの隙を見つけて顔を出そうとする。 「何で……別の高校に行ったんだ?」  風と一緒に流れてきた言葉に、声が詰まる。 「なんで……って」 「図書委員の先輩と同じとこ行くのかと思ったけど、違ったし」  また、先輩の話。なんでそこを気にするのか、意味がわからない。 「俺、あの人が卒業してから一度も会ってないよ。それに高校は、志望大学に有利だと思ったからで、それ以外に理由は……ない」  ……嘘だ。  大和が誰かと付き合うところなんて、見たくなかったからだ。  彼女を紹介されても、笑って、よろしくって言う自信がないからだ。  中学のとき、彼女の隣で笑ってる大和を見たからだ……  自分には受け止められない。そう思って逃げた。物理的に離れたらそのうち忘れられる。そう、思って選んだ学校だった。 「じゃ、それをなんで言わなかった」  じりじりと大和が近づいてくる。心なしか、声が怒って聞こえた。  幼馴染で友達なのに、理由もなく急に避けられたら誰だって怒るに決まってる。 「それは……」 「あ、尊瑠いたっ!」  聞き覚えのある声が尊瑠の言葉を遮った。  駅の方を見下ろすと、坂の下から同じ制服姿の男子が大きく手を振っていた。 「え、光詞(みこと)?」  つま先を下に向け、尊瑠の足が一歩、踏み込む。一拍遅れて、大和も動く。  駅に向かって駆け出すと、大和の腕に自分の肩が触れた。  たったそれだけのことなのに、心臓が大きく脈打つ。反射的に振り返ろうとする気持ちを抑えながら、尊瑠は駅へと向かった。 「何でここに。光詞の家って逆方向じゃなかったか? 上着も着てないし、風邪ひくだろ」 「やっぱり図書館にいたか」  鼻を赤くし、重内光詞(しげうちみこと)が白い息を吐きながら笑った。センター分けのゆるパーマが風で少し乱れている。 「尊瑠と一緒に帰ろうと思ったら、お前、もう教室にいなかったから。で、絶対ここだと思ってね」 「それなら言えよ。図書館行くのやめたのに。なあ、もしかして雨降ってた? 髪が濡れてる」  光詞ご自慢の猫っ毛に触れると、毛先がしっとり濡れていた。 「雨じゃなくて雪。駅、降りたとき、一瞬な。それより、尊瑠に本を返さないとって思ってさ」  光詞が唇を窄めて、ふっと上に息を吹いた。ふわりと前髪が揺れる。 「本って小説? そんなの、いつでもいいのに」 「続きが早く読みたかったから、次を借りるついで」  赤くなった鼻を指で擦りながら、光詞が言う。高三になってから光詞の読書好きは、拍車がかかったように思う。 「言ってくれれば、学校に持ってくのに」  光詞から文庫本を受け取っていると、大和の視線を感じた。  奥二重の奥、瞳を見開き、光詞と自分を往復している。 「あ、大和。こいつ、高校の友達で重内光詞。で、こっちは坂部大和っていって、俺の──」 「わかった! イケメンの幼馴染だろ」  初対面なことを吹き飛ばす笑顔で、光詞が「よろしく」と手を出した。大和もつられて手を出す。 「なんで大和のこと知ってるんだ?」  二人が握手を交わすのを見ながら、尊瑠は聞いた。寒さで白くなった手に息を吹きかけながら、光詞がちらりと大和を見ている。 「徳元(とくもと)が言ってたんだ、尊瑠にはイケメンの幼馴染がいるって」 「あ、なるほど」  徳元とは中学が一緒だったけれど、一度も同じクラスになったことがない。それなのに、入学式のとき、いきなり呼び捨てにされた。  目立つ大和といつも一緒だったから、自分の名前はそれで覚えられていたのかもしれない。 「幼稚園からずっと一緒だったんだろ。高校で離れるなんて惜しいな」 「惜しいって。ただ志望校が違っただけだから」  大和に視線を向けると、こちらを見ようともせず、遠いところに意識を置いていた。  光詞との会話も耳に入っているのかわからない。  自分を映さない瞳が、頬を刺す風のように冷たい。尊瑠はコートの胸元を、そっとかき合わせた。 「ふーん。……あ、もう帰るんだろ、尊瑠の家に寄って続きを借りていいか」  手元に戻ったばかりの本を指差しながら、光詞が言う。 「いいよ。せっかくここまで来てくれたんだし」 「ラッキー」  光詞が改札口を通り、尊瑠もあとに続いた。大和も一緒の電車に乗ると思っていたのに、まだ改札口の向こう側にいる。  声をかけようとしたらポケットに手を突っ込んだまま、大和がこちらをじっと見ていた。 「大和?」  ほんの一瞬、大和の瞳が光詞へと移る。けれどすぐ伏せ目がちになり、大和の口から白い息がこぼれた。 「俺、寄るとこがあるから」  そう言って踵を返すと、駅を通り過ぎて、図書館とは反対の方へ歩いて行く。  大和が向かった先は住宅街で、学生が寄るような場所はなかったはず。なのに大和は迷うことなく、まっすぐどこかへ向かっていた。  遠ざかって行く背中を見つめていると、「電車来るぞ!」と、光詞の声ではっとする。  後ろを振り返りながら、尊瑠はホームまで走った。  電車に乗ってからも、夜に溶け込む大和の後ろ姿が頭から消えない。 「そんなに幼馴染君が気になるのか?」  ドアにもたれて外を眺めていたら、不意に光詞が言った。 「あ、いや、別に。……ただ、何の用事があったのかなって」 「さっきの駅に彼女の家でもあるんじゃないのか」  光詞の言葉で足元がぐらつく。  彼女──そうか、そういうことか。 「図書館はついで、か……」 「ん? 何か言ったか?」  ガラスに映る自分に光詞が聞いてくる。 「……別に。それより何分くらい待ってた? 寒かったろ」  自分より少し高い位置の肩に触れると、ヒヤッと冷たい。尊瑠はリュックから使い捨てカイロを取り出し、光詞に渡した。 「やった、カイロだ。用意がいいな」 「去年から入れっぱなしだったやつだけど、たぶん、使える」  リュックを背負い直し、流れる景色を見ていると、シャカシャカと音が聞こえた。  ガラス越しに光詞を見て、思わず笑った。鼻にカイロを当てたまま、気持ちよさそうに目を閉じてる。  学年一・二を争うイケメンは、カイロをそんな風に扱っても車内にいる女性の目を引く。 「黙ってれば光詞もカッコいいのに」  小さく呟くと、光詞が、なに? と言いたげに首をかしげる。  な・ん・で・も・な・い。  音のない声でガラス越しに言うと、尊瑠は電車の揺れに体を預けた。  光詞の明るさは、落ちかけた心を少しだけ和ませてくれた。けれど、頭の中は大和のことでいっぱいだった。  光詞の言う通り、彼女の家があると考えるのが自然だ。  大和が言いかけたことは、自分が図書館にいると知って、彼女のことを伝えたかったからかもしれない。中学のときみたいに。  もし、そうなら、一緒に帰らなくて正解だった。  電車の中で惚気なんか聞かされたら、それこそ笑って、よかったな、なんて言えない。  大和が抱き締めていた彼女の後ろ姿が、窓ガラスに浮かぶ。  景色に重なる長い髪から視線を逃がすと、尊瑠は頭をドアに預けて唇を噛んだ。

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