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第4-1話
図書館を出ると、待ち構えていたように冷気が襲ってくる。冷たい空気に肩をすくめながら、尊瑠はマフラーを巻いた。
リュックを背負い直すと、コートのポケットに手を突っ込む。中で指先が紙に触れ、そのまま掴むと、出てきたのは二つに折った小さなメモだった。
「あ、そっか」
──今日って、ふたご座流星群がたくさん流れるんですよ。
図書館に来たとき、スタッフの人が教えてくれたんだっけ。
「星掬台 ?」
初めて聞いた名前に首をかしげていたら、わざわざ地図も書いてくれた。
メモを開くと、図書館から公園までの簡単な道のりが書かれていた。隅には〝勾配キツい〟の文字と冷や汗を書いた絵文字。
「……そんなにキツいのか?」
メモを握り締めたまま、夜に沈みかけた坂の上を見上げた。
静かな気配に吸い寄せられるよう、つま先を坂道に乗せる。
流れ星を見たことがないこと。それと、何となく家に帰りたくなかった気分が尊瑠の足を動かした。
家へ帰れば、大和の部屋の明かりが目に入る。
昔はあの窓越しに、よく声をかけ合っていた。今はもう、それもできない。
大和へ向ける自分の気持ちが、幼馴染以上だと自覚したときからカーテンは開けてない。
いつしか、遅く帰る理由を探していた。
湾曲した坂道は覆い被さるような木々で、徐々に街の明かりを隠していく。
歩いている人の姿はなく、一人だけで夜の世界に生きているみたいだった。
自分の息遣いだけを聞きながら、くすんだ街灯を頼りに登り切る。
ようやく頂上までたどり着くと、左右に割れた木々の隙間から公園が見えた。
「はあー、やっと着いた」
肩を小さく上下させながら、ふう、と息を吐く。闇の中で、白い息だけが浮かび上がった。
重なり合う枝の隙間から見えた景色は、公園が空へ突き出たように見えて、一瞬、中へ入ることをためらう。
片足をそっと踏み込むと、砂利の音がやけに大きく響いた。
誰もいない夜の公園。期待と少しの怖さを抱えながら、見晴し台に向かって歩く。
「あれかな……」
暗闇の中、古びた街灯で薄っすらと手すりのようなものが見える。
スマホを見ると、十九時を回っていた。
「二十時あたりが見頃って言ってたよな」
独り言を言いながら近づき、手すりに手を乗せ、尊瑠は空を仰いだ。
「すご……」
遮るものが何もないベルベットのような夜空が、頭上を丸く覆っている。そこには、無数の星が散りばめられ、一瞬で別の世界に放り出されたみたいになった。
昼間の残像はどこにもなく、凍てつくほどの静寂と冬の空がそこにあった。
一度、瞬きをしただけで、星の数が増えたような気がする。
同じ空を見ているはずなのに、さっきまで自分がいた世界とはまるで違う。
瞬きをするのも惜しい。……そんな感覚も初めてだった。
「図書館の上に、こんな場所があったなんて」
星の名前なんてわからない。ただ、息を呑むほどに頭上の世界は美しかった。
寒さを忘れて夜空を眺めていたら、自然と大和の顔が浮かんだ。
「大和……」
唇から、会いたい人の名前がこぼれる。
叶わない恋なら、心の奥に閉じ込めておけばいい。ずっと、そう思っていた。それでも、顔を見れば抑えきれない。
声が聞きたい。名前を呼んで、ファインダー越しに自分だけを見てほしい……
立ち止まったままじゃ、何も変わらない。わかっているのに、勇気がなくて踏み出せない。
──恋人の家でもあるんじゃないのか。
光詞の声が、耳の奥をかすめる。
「彼女……か」
その言葉を口にした途端、曖昧だった存在が形を持つ。大和の隣に相応しい相手が、輪郭を帯びた。
吸い込まれそうな夜空にため息をこぼす。それを追い越すように、一筋の光が星の間を駆け抜けた。
「あ! あーあ。もう見えない」
消えていった光の軌跡を目で追っていると、後ろから砂利を踏む音が聞こえた。
誰かいる──
ドクンッと心臓が震えた。手すりを握る手に力がこもる。
振り返って確かめたい。それなのに体が動かない。
冷静な自分がふっと現れる。
こんな時間に、よく知らない場所に一人で来るんじゃなかった。
図書館の人は「星がきれいですよ」と笑っていた。なのに、公園へ来てから誰一人として人影を見ていない。
足音だけが段々と近づいてくる。冷えた空気の中に、確かな人の体温が混ざった。
手すりからそっと手を離し、スマホを取り出そうとポケットに手を入れた──そのとき、足音が止まった。
すぐ後ろで誰かの息がかすかに揺れる。
「……尊瑠?」
聞き馴染んだ声に、張り詰めていた息がほどけた。
ゆっくり振り返ると、白い息を吐きながら、大和がほっとしたように口元を緩めた。
「後ろ姿だけでわかるもんだな」
音のない世界に、大和の声が耳に届く。
「……なんで」
喉の奥が震えて続きの言葉が言えない。ポケットに手を突っ込んだまま動けずにいると、大和が横に並んだ。布越しに肩が触れ、懐かしい匂いが鼻をかすめる。
「写真を撮りに来たんだ。流星群の」
夜空を見上げながら、大和が手すりに寄りかかる。その手には、カメラがあった。
小さいころから学校へ行くとき以外、どこへ行くにも、何をしているときも、大和はカメラを手放さない。
いや、持っていなかった日が一度だけあった。あれは確か──
「まさか、尊瑠に会えるなんてな」
手繰り寄せかけた記憶は、大和の声で途切れた。
目が合うと、大和の眉がわずかに上がる。なんでここに? とでも言いたげに首をかしげている。
「……図書館の人に教えてもらったんだ、俺、流れ星って見たことなかったし」
「俺も」
夜空を見上げながら大和が言った。ただ、上を向いただけなのに、横顔から伸びた首のラインに、つい、目を奪われる。
視線の置き場に困り、手すりに肘を乗せて空を仰いだ。
さっきまで流れ星に心を奪われていたのに、今は右隣に全神経が集中している。
見るなと、頭のどこかで声がする。それでも気づけば、横顔をこっそり眺めていた。
夜空を見上げる大和が瞬きをするたび、シャッターを押しているように見える。
風に揺れた前髪が額で揺れ、そのたびに輪郭を少しだけ隠してしまう。
こんな近くで大和を見るのは、いつ以来だろう。
いつ気づかれるか、吊り橋を渡っているみたいに心臓がうるさい。
布越しに触れた肩だけが、まだ熱を持っている気がする。気持ちを冷ますように、尊瑠は流れ星を探した。
静かな夜に二人だけ。帰りたいような、帰りたくないような。こんな気持ちを、以前にも味わったことがある。
胸の奥に沈んでいた記憶が、冬の夜気 に触れるように浮かび上がった。
小六のころ、尊瑠は隣県に住む叔母の家に行った帰り、迷子になった。
乗り換えを間違え、自分が家とは反対に向かっていたことに気づいたときには夜になっていた。
泣きそうになりながらホームを移ると、今度は別の不安が尊瑠を襲った。
お金が足りるかわからない。
駅員に聞けばいいと頭ではわかっているのに、知らない大人に話しかける勇気が出なかった。
心細い気持ちに押しつぶされそうになりながら、瞬きもせず流れる景色を見ていた。
すると、見慣れた風景が目の前を掠め、最寄駅の文字が目に飛び込んできた。
急いでドアの近くまで移動したとき、ホームに立つ大和の姿が目に飛び込んできた。
ドア越しに目が合った瞬間、騒がしかった鼓動も、周りの音も一切聞こえなくなった。
大和が電車を追いかけるように、ホームを走っている。その姿に張りつめていたものが一気にほどけ、喉の奥から嗚咽がこみ上げた。
やがて電車が止まると、大和は何も言わず、まっすぐ両腕を広げて待っていてくれた。
ドアが開く。ホームの風が流れ込み、その風をかき分けるように飛び降りて、大和の胸へ飛び込んだ。
胸に顔を埋めると、大和の匂いがした。それだけで張りつめていた心がほどけ、泣きじゃくった。
行き交う人の視線なんか構わず、泣き続けていた。その間も大和は何も言わず、ずっと背中を撫でてくれていた。
涙がようやく収まると、滲んだ視界の向こうに、ほっとしたような顔の大和があった。思わずその頬に触れると、大和がにっこりと笑う。
駅の時計を見ると、てっきり夜中だと思っていたのに、まだ九時前だった。安堵した途端、また涙がこぼれる。
繋いだ手に、大和がそっと力を込めた。
──尊瑠には俺がいる。俺ら、二人で一つだろ。
大和の言葉が全身に沁み込んだ。涙で声が詰まり、返事の代わりに大和の肩に自分の頭を乗せた。頭を預けた大和の胸元には、いつも下げていたカメラがなかった。
不思議に思って見上げると、大和が指でフレームを作るようにして写真を撮るポーズをした。
泣き笑いのままピースを向けると、大和は満足そうに笑った。
駅からの帰り道、空を見上げると、二人の頭上には道標のような一等星が煌めいていた。
静かで優しくて、二人だけの世界。
あのころの自分たちは、お互いが全てだった。
なんて、な……
あのときカメラを持っていなかったのは、きっと慌てて家を飛び出してきたから。そんな、かけらのような自惚れが頭の隅に転がっていた。
遠い記憶を思い出していると、シャッター音が聞こえた。
横を見ると、自分の方にレンズを向けたまま、大和がファインダーを覗いている。
久しぶりに見る、カメラ越しの大和に息が止まりそうになった。
「な、何で俺を撮ってるんだよっ」
反射的に出たのは、気持ちとは真逆の言葉。
熱が顔に集まるのを感じて、咄嗟に腕で隠した。耳の奥で、シャッター音だけがまだ響いている。
ずっと欲しかった視線なのに、自分のためだけのシャッター音が心地よかったはずなのに、キツい言い方をしてしまった。
謝ろうと視線を向けると、カメラで半分顔が隠れたまま、大和は何も言わず、じっとこちらを見ていた。表情が見えなくて不安になる。
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