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第4-2話
「やま……」
名前を呼びかけたとき、目の端に人影が映り込んだ。振り返ると、誰かがゆっくりこちらへ近づいて来る。
大和も気づいたのか、自分と同じ方向に視線を向けていた。
すっと腕を上げ、人影に向かって手を振っている。
「文彌ふみやさん、こっちです」
街灯の灯りで鮮明になった人影は、自分たちより少し年上に見える男性だった。
「ごめん、大和。遅くな──あれ、友達?」
丸いフレームを人差し指で押し上げ、薄赤色のレンズ越しに男性がこちらを見てくる。
さらさらの長い髪をハーフアップにしている姿は、ファッション雑誌から抜け出してきたみたいだった。
どこかアーティスティックな雰囲気に呑まれ、思わず一歩、後ろへ下がってしまった。
「そんなに待ってませんよ」
「そう? なあ、それより……」
男性が大和から視線を尊瑠へ移した。サングラス越しでは表情が読めない。
「あ、えっと尊瑠は、俺の幼馴染……で」
いつもの大和と違う、どこかよそよそしい声に引っかかりを覚える。
視線の置き場を探していたら、顔を覗き込むようにサングラスの彼が前屈みになった。
「君が噂の尊瑠君か。浅尾文彌あさおふみやです、よろしく」
噂? 咄嗟に大和を見ると、タイミングよく視線をかわされた。
「君が、『ヤマトタケル』の、タケルの方だろ?」
「ちょ、ちょっと文彌さん。そんなことまで言わなくても──」
「照れるなよ、大和」
「照れてません。子どものころの、親のネタぐらいで」
子どもの……親のネタ──。
その言葉で、忘れていた寒さが心を冷やしていく。
目の前では、文彌に肘で小突かれた大和が照れたように笑っていた。
彼らと自分との間に薄い壁を感じ、急に居心地が悪くなった。
リュックの紐を掴み、足の裏に力を込めた瞬間、大和と目が合う。
「尊瑠、こう見えても文彌さんは俺の写真の先生なんだ」
「こう見えてもってなんだよ。それに先生はやめろ。俺はしがない写真家だ」
文彌が耳元で揺れる髪を耳にかけ、こちらに向かって口角を上げた。サングラス越しの笑顔にはどこかゆとりがある。
文彌との軽いやり取りに、大人っぽく笑う顔。そんな大和を初めて見た。
それら全部は、自分の知らない時間の中で生まれた大和なんだと思うと、胸に細いナイフを差し込まれたようだった。
「そ、十河尊瑠です。高三生です」
二人の砕けた雰囲気に気を取られ、尊瑠は一拍遅れて頭を下げた。
「俺も少し前まで学生だったから気楽に話してよ。な、大和」
文彌はサングラスのフレームを指で下げ、大和に向かってウィンクした。その視線の延長線上にいる大和が、くすぐったそうに笑っている。
親しげな二人の姿に、胸に刺さったままのナイフがゆっくりと回転した。
「それより、そろそろじゃないですか」
「だな。もう八時すぎてるし。今日はシャッタースピードが命だぞ」
「わかってますよ。手ブレしない目安は1/125秒ですよね」
「その通り。プロでもシャッターを押す瞬間は手ブレを起こさないように、最大限の注意を払うからな」
文彌がファインダーを覗きながら、レンズを空に向けた。
「そう言えばさ、前、大和に話した古い一眼レフのカメラ。あれさぁ、巻き上げレバーが壊れてて、直してもらうのに五万は軽くかかるって言われた」
「あの、従兄弟さんの家から出てきた?」
「そうそう。廃盤だから部品もないし、修理するか悩むわ」
二人は手すりに寄りかかり、カメラを片手に共通の話題を交わしている。そんな二人を尊瑠は少し後ろから見ていた。
同じくらいの背丈で並ぶと、二人の後ろ姿は絵になる。
背が高い彼らに比べ、百六十をなんとか越える自分は、どうしても見劣りしてしまう。
……いや、きっと足りないのは、背丈だけじゃない。
「あ、きた!」
大和の弾んだ声に、思わず顔を上げた。
「シャッターチャンスだぞ、大和」
カメラを夜空に向ける二人の横に並び、尊瑠も見上げた。
「尊瑠、見てるか? すごくきれいだぞ」
大和の声に頷きながら、星空を見つめていた。
展望台の先から天頂まで、百八十度すべてが星空のスクリーンで吸い込まれそうになる。
「きれい……」
宇宙の破片が見せる一瞬の輝き。それを、大和と並んで見ている。小さいころのように。
それだけでいいと、尊瑠は思った。
ほんの少しだけでも、こうして一緒にいられるなら。
そっと大和を見る。流れる光の尾を写真に閉じ込めようと、真剣な眼差しでファインダーを覗いていた。
好きなことに向き合っている姿は、幼いころと変わっていない。
カメラを持つ横顔に目を奪われていたら、その奥にいる文彌の目と合った。
カメラも構えず、こちらを見ている。視線を逸らせないでいると、文彌が唇を開いた。
「大和。ニューヨークへ行く決心はついたか?」
ニューヨーク?
……今、ニューヨークって──
大和の視線が自分に降りてくる。目が合うと、シャッターを切るみたいに、ゆっくりと瞬きをして目を細めた。
自分だけが気づいている、大和のくせ。でも、もうそれも誰かに上書きされているかもしれない。そんな小さな棘の正体を確かめられず、ただ、大和の顔を見ていた。
「お前は何を迷ってる。入学審査は通ってるし、高校の成績も推薦状も問題ない。面接までやって英会話も勉強したんだ。それに親御さんからオッケーも出た。あとは大和の意思だけだ」
文彌が大和の肩に手を置き、自分の方へ向き直らせた。
「そう、ですけど……」
目の前にいる大和の背中が急に遠く感じた。
思わず大和の腕を掴みそうになる。でも、その手はリュックの紐に戻っていく。
「本気で写真を勉強したいなら行くべきだ。写真で食っていきたいんだろ?」
文彌の言葉に背中が頷いた。後ろ姿じゃ、今、大和がどんな顔をしたかわからない。
「だったらアメリカで学ぶべきだ。アパートも俺が住んでる隣が空いてるんだ、迷う理由はないだろ」
大和の夢を一番近くで見てきたけれど、それでも、この未来だけは見たくなかった。
「や、大和。ニューヨークに行く……の?」
呟くように聞いた。砂利を踏み締める音と一緒に、大和が振り返る。
「……ああ。でも──」
「す、すごいな。ニューヨークなんて、映画でしか見たことないし。やっぱ、ハンバーガーとか大きいのかな。あ、ピザとかも迫力ありそう。な、大和。楽しみだな」
震える声を、どうでもいい話で誤魔化す。足を踏ん張ってないと、泣き崩れそうだった。
大和を避けて距離を取ったのは自分だ。
いつか大和に大切な人ができて、それを見るのが怖かったから。でも、日本を離れたらさすがに諦めもつく……はず。
だめだ、泣きそうだ……
鼻を啜っていたら、目の前にティッシュが差し出された。
「尊瑠君、寒いのか?」
文彌が握らせてくれたのは、どこかの金融会社のティッシュだった。握り締めすぎて、見たことある女優の笑顔が手の中で歪んだ。
文彌は優しい。でも、もっと嫌な人だったらよかったのにと思う。
そうしたら、大和はニューヨークへ行こうなんて──
帰ろう……
本当はもっと一緒にいたい。……でも、今、この瞬間、自分は部外者だ。
もし、ここにいるのが大和だけだったら。もし、大和がニューヨークへ行ってしまうのなら、最後だと思って気持ちを伝えられたかもしれない。
そっと大和を見る。その肩越しに、文彌の姿が重なって見えた。
文彌がいる時点で、告白することもできない。
大和の未来には、自分の知らない場所も人もいる。その道を邪魔する存在にだけは、絶対になりたくない。
気持ちが限界に達し、尊瑠はわざと鼻を啜る音を大きく鳴らした。
「ティッシュ、ありがとうございます」
リュックを背負い直し、笑顔を作った。
大和は夢を叶えるために、前へ進もうとしている。自分の手の届かない場所に行って。
ただの幼馴染の自分にそれを引き止める権利は、ない。
「尊瑠……帰るのか」
「うん。流れ星見れたし、寒いし、一応受験生だから、風邪ひいたら困る」
「会えて嬉しかったよ。尊瑠君も受験、がんばって」
サングラスを外し、手を振ってくれる。素顔の文彌の笑顔は柔らかくて、敵わないと思った。
「ありがとうございます。じゃ、お先に」
足に力を込めて、二人に背を向けて歩き出す。
「尊瑠! 夜、窓で話せるか」
大和の声で足が止まった。
振り返って、いいよって返事すればいい。でも、できない。
こんな気持ちのまま窓越しに会えば、言ってしまうかもしれない。
好きだと一言、伝えてしまえば、もう幼馴染には戻れない。
ゆっくり振り返ると、尊瑠は息を深く吸い込んだ。
「ごめん! ちょっと寒気してきた。帰って薬飲んで寝るよ」
このまま大和のそばにいたら、心がもたない。
素直な自分でいたいのに、嘘ばかりついている。こんな自分、もう嫌だ……
遠目でも、大和が自分を心配しているのがわかって、ちくりと胸に棘が刺さった。
唇だけで『ごめん』と形を作ったとき、目の前を木枯らしが吹き抜けて尊瑠の視界を奪う。
大和の声が聞こえたけれど、木々のざわめきに飲み込まれてしまった。
確かめようと口を開けかけて、でも、唇は勝手に左右に引き結ぶ。
大和から引き剥がされるように、吹きつける風から顔を庇いながら、尊瑠は思いっきり手を振った。
「大和、がんばれ!」
ずっと応援してる。だから、がんばれ──
続きを心の中で呟きながら、両手で思いっきり手を振った。そんな自分を、大和はじっと見ていた気がする。
二人に背中を向けると、足を大きく踏み込み、逃げるように駆け出した。
ブランコが風で揺さぶられ、苦しそうに鎖が鳴いている。その音を聞きながら、公園を突っ切った。
途中、木の根っこに足が引っかかって転けそうになる。ふらつきながら耐えると、そのままの勢いで公園を出た。
坂道を転がるように下り、ぐちゃぐちゃな気持ちのまま、必死で走った。
なにが、がんばれ、だ。
自分なんかに言われなくても、頼れるかっこいい人がそばにいるんだ。大和は、ちゃんと夢を掴める。
息が切れ、涙で前がぼやける。足元も見えない恐怖より、大和の中から自分が消えることの方が怖かった。
止まったら振り返って、「行かないでくれ」と言ってしまう。そんな自分を振り切るように、夢中で坂を駆け下りた。
かかとがアスファルトを打つたび、呼吸が荒くなる。それでも、風を切って坂道を走った。
図書館を過ぎ、駅が見えるところまで一気に駆け降りた。
足を止めた瞬間、脇腹に痛みが走った。
膝に体を預けながら、肩越しに坂道を見上げた。
心臓が壊れそうに痛い。でもこれは、走ったせいだけじゃない。
大和のことを綴ったページは中学まで。そこから先は真っ白で、一文字も書けていない。それを思い知らされた。
ただ一行、書けるとしたら、自分以上に大和のことを文彌が知っているということ。
──ヤマトとタケル。二人で一つならずっと離れないな。
小さな大和の声が響いて、霧のように静かに消え尊瑠の耳にていった。
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