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第5話
真冬の屋上に好き好んで来る生徒はいない。今日は風もきついから、なおさらだ。
それでも尊瑠が足を運んだのは、一人になりたかったから。
物置部屋の影に座ると、弁当の蓋も開けず、空を見上げた。
流星群を見た夜以来、ニューヨーク行きの話が頭の中で流れ続けている。
「アメリカって、宇宙よりは近いよな……」
当たり前のことで自分を慰めていると、飛行機雲が線を描くように空を横切った。
そっと手を伸ばし、飛行機を手のひらで見えなくする。
隠したところで飛行機が消えるわけじゃない。それでも見えなくしていたかった。
この世に飛行機がなくなればいいのに……
どんよりした空を見ながら、大和の言葉を思い出した。
「大和、何の話があったんだろう」
口にした自分の言葉に笑いそうになった。
公園から逃げたくせに。窓で話そうと言ってくれたのを断ったくせに。
あれから一週間、ずっと窓の向こうにいる大和から隠れるように自分の部屋で過ごした。
カーテンも開けず、電気をつけることもせず、ひっそりと息を潜めるように。
一度、窓越しに名前を呼ばれた。
うっかり部屋の電気をつけたせいで、部屋にいるのがバレた。
窓に手をかけ、開けようとした。けれど、大和の顔を見るのが怖くてできなかった。
「大和のこと言えないな……虫嫌いのくせにって」
ため息を風の音に紛れこませたとき、ドアが開く音が聞こえた。
壁から顔を出すと、菓子パンを両手に持った光詞がこっちにやって来る。
「尊瑠、発見!」
肩をすくめながら走ってくると、寒さを逃れるように、光詞が隣に座ってきた。
「寒がりなのに風邪ひくぞ。今日はカイロ持ってないからな」
「なんだよ、その言い方。俺がひ弱みたいじゃん」
強がりを口にしながら、寒い、寒いと言って、光詞が擦り寄ってくる。
「ほら、やっぱり寒いくせに。……光詞、もっと離れろよ」
「……無理、俺はくっつくわ」
せっかくの長身が台無しになるくらい、光詞は子どもみたいに背中を丸めていた。
風でなびく、ふわふわ猫っ毛が尊瑠の頬に触れ、その毛先まで冷たい。
「寒いなら教室で食えば? わざわざ屋上に来なくて──」
「尊瑠と一緒に食いたかったんだ」
光詞がパンの袋を指先でいじったまま、しばらく黙っていた。
いつも人懐っこいのに、今日はどことなく重い。
「最近さ、お前、どっか遠くにいる気がする」
「え?」
光詞の顔を覗き込んだとき、ドアの閉まる重い音が響き、びくっと肩が跳ねた。
「……悪い。ドア、開けっぱなしだった」
風に乱れた前髪をかき上げ、光詞はそのままこちらを見た。
「お前さ……俺と話してても、なんか、別のこと考えてるだろ」
上げた腕の隙間から、こちらを見て光詞が言う。
「そんなこと……」
「それとも俺はだめで、幼馴染だったらいいのか」
腕を下ろした光詞と目が合う。
ふざける気配なんてどこにもない。その真顔に、息が止まりそうになった。
「大和は関係ないだろ」
そう言った瞬間、肩に触れていた光詞の体がわずかに揺れた。
「……違うだろ」
初めて聞く低い声が肩越しに響く。
「違うって、なにが」
光詞の手の中で、菓子パンの袋がぐしゃりと潰れた。
「あいつとは、図書館一緒に行ってたくせに。俺が何回も行きたいって言っても、尊瑠は断ってばっかだった。どうせ冬休みも一緒に行ってたんだろ」
いつも明るく優しい光詞が静かに怒っている。
「冬休みは冬期講習があったから、図書館には行ってない。それに光詞の家、図書館と逆方向だろ。電車賃もかかるし、それに一緒にいたら絶対、話してばっかになるか……ら」
光詞の眉が吊り上がってくる。反対に自分の声は萎んでいった。
「誤魔化すなよ」
光詞の言葉が、心の奥に深く食い込んだ。
あの日、大和と一緒にいたのはたまたまなんだ──そう言えばいいだけなのに、大和への気持ちを見透かされている気がして声が出ない。
「図星だろ。黙ってるのが証拠だ」
隣を見るのが怖い。さっきから、弁当箱の蓋しか見てない。
「それに尊瑠はすぐ一人になりたがるよな。今みたいにさ」
その言葉で心臓が止まりそうになった。
昼休み、そっと教室を出る自分を、光詞は見ていたのだろうか。
「それってあいつと連絡取るためだろ。それならそうって正直に言えよ」
「そんなこと──」
言いかけて口を閉ざした。光詞の言うとおりだった。
大和に会いたくて、声が聞きたくてどうしようもなくなったとき、一人になって写真を眺めていた。行き場のない気持ちを必死で押さえて、この恋を忘れる努力をしていた。
「言い返して来ないのが証拠だな。俺のこと、適当に扱ってたってことだ」
「違う、そんなつもりじゃない! 光詞は高校で初めてできた友達なんだ、大切に決まってる。さっきの言い方がキツく感じたなら謝る、ごめん。なあ、機嫌直せって。一緒にメシ食おう」
「友達、ね。いい、やっぱ教室戻るわ」
尊瑠の声をねじ伏せるよう、光詞が立ち上がった。立ち去ろうとする手を咄嗟に掴む。
「待てよ、光詞。俺、考えごとしてて、素っ気ない態度だった。悪かったよ。教室戻るなら俺も一緒に──」
「考えごとって、幼馴染のことか」
背中越しに言われた言葉に、「違うっ」と反射的に返していた。
振り返った光詞と目が合う。その目は、尊瑠の心を射抜くように睨んでいた。
「ご、ごめん。でも、俺は別に大和のことなんか──」
「尊瑠はすぐ顔に出るな。そんなんだから俺は……」
光詞がこぼした声が自分にぶつかって、遠くへ散っていく。
前髪を掻きむしるように掴み、光詞が視線を落とした。センター分けの境目がなくなっている。
「一人になってたのは本を読んでたからで……図書館もマジで勉強に集中したかっただけなんだ。それに、大和と一緒だったのも偶然でっ」
光詞に届くよう、声を張り上げた。その瞬間、鞭がしなるような風が二人の間を駆け抜け、思わず目を閉じる。顔を腕で庇いながら、片目だけをなんとか開いて光詞を探した。
目に入ったのは、ズボンのポケットに手を突っ込み、ネクタイを風に揺らす光詞の姿。
風でなびく前髪に遮られて、その表情は見えない。
光詞が何か言いかけて口を閉じ、肩が小さく上下する。長く息を吐くと、飲み込んでいた言葉を手放すように呟いた。
「……もう、どうとでもなれ」
絞り出すような声が聞こえて、尊瑠は目の前の親友を見つめた。
「俺は……尊瑠が好きだ。初めて会ったときからずっと」
一瞬の風のやみ間。光詞の声が落ちるように響いた。揺れていたネクタイが、ゆっくりと胸元に戻っていく。
「もうすぐ卒業だろ。大学も離れるし、だからその前に、お前に告っときたかったんだ」
吹き荒ぶ風がおとなしくなって、光詞の顔がはっきり見えた。
熱のこもった瞳で見つめられ、何を言えばいいかわからなくなった。それなのに尊瑠の足は一歩、光詞の方へと踏み出していた。
「みこと……」
自分の気持ちは決まっているのに、名前を呼んでしまった。
光詞と視線が絡んだその瞬間、空気の塊が波のように押し寄せ、突風に煽られる。
「……風、すげぇな」
光詞が呟く。その言葉を追いかけるように、何かが壁にぶつかる音がした。
鳥の鳴き声のように、金属が軋む音が混ざって耳に届く。
反射的に入口へ目を向けた瞬間、肺の空気が一気に凍りついた。
動けないでいると、光詞がゆっくりと振り返って尊瑠の視線の先をたどった。
「あ、いや。ごめん。聞くつもりなかったんだけど風が強くて、ドアが開いて……」
徳元が、開ききった鉄製のドアを全身で押さえている。
気まずそうに笑いながらも、その視線は二人の間を行き来していた。
光詞の肩が、風に煽られてわずかに揺れる。
尊瑠は息を詰めたまま、その場から動けなかった。
「……えっと」
徳元が言葉を探すように視線をさまよわせる。けれどそれは一瞬で、流行りのゲームを攻略したように、その目が見開いた。
逃げろ、と頭の奥で警報が鳴る。
徳元の手がドアから離れ、風圧で勢いよくドアが閉まった。
屋上の空気が完全に切り離され、三人の呼吸だけが残った。
徳元は少し間を置いてから、光詞と尊瑠を見比べるように視線を動かす。
「あーっと……」
いつものように笑う。けれど、その目だけは笑っていなかった。
「そっか。そういう感じか」
空気の重さに似合わない軽さで、肩をすくめている。
「てっきり俺は、尊瑠の方がそっちかなって思ってたわ」
意外そうに言いながらも、その視線は何度も二人の間を行き来する。
……どうしよう。
ぐるぐると頭の中を、言い訳の言葉が駆け巡る。
「しかも光詞が尊瑠のこと好きってことか。そりゃびっくりするわな」
自然と光詞の後ろ姿を見た。見えないその表情を想像することすら怖い。
それがわかっているのに、自分の足は一歩も動けずにいた。
「なあ、尊瑠」
呼ばれて、喉が詰まる。
「い、いや……俺は別に──」
言い返すべきなのに、言葉が出ない。
徳元は戯けたように首をかしげたまま、続ける。
「まぁ、そういうのって別に今どき普通だろ。気にしすぎなくてもいいんじゃね」
軽く言ったその声が、やけに遠く響いた。
尊瑠の胸の奥に、言葉にならないざらつきだけが残る。
どう受け止めればいいのか分からないまま、視線だけが宙をさまよう。
徳元の顔を見れば見るほど、余計に考えが散らばっていく気がした。
けれど、自分も同じだ。
光詞を庇うこともできず、ただ足が震えている。
「心配すんな、光詞。俺も尊瑠も誰にも言わないから」
その言葉で、一瞬、ほっとする。なのに、軽くなったはずの胸の奥には、まだ重さが残っていた。
自分も光詞と同じなんだ──早く、そう言うんだ。じゃないと、光詞だけがつらい。
卒業まであと三ヶ月。
不意に、その数字が頭をかすめた。
たった三ヶ月だと、弱い自分が勝手にカウントを始める。
「そうだ、英語の小テストのこと尊瑠に聞きたかったんだわ。光詞のことでぶっ飛んでた。昼休みも終わるし、早く戻って教えてくれよ」
「あ、うん……」
返事はしたものの、背を向けたままの光詞と、徳元の視線が気になって足が動かない。
見かねたのか、徳元がドアから離れた。光詞の横を通りながら、ちらりと視線を送る。
そばに来た徳元に腕を掴まれ、地面から引き剥がされるように体が引っ張られる。
光詞のそばを通った瞬間、繋がれていない方の手に、ほんの一瞬だけ冷たい指先が触れた。
引き止めるような指は空中で行き場を失い、やがてこぶしに変わる。
まるで何かを握り潰すように。
……光詞。
声をかけたつもりだった。でも、それは音にならず、光詞には届かない。
徳元がノブに手をかけようとしたとき、突風が思い出したように巻き起こる。
「うわ。なんだ、この風」
重くなったドアを徳元が押し開ける横で、尊瑠は振り返った。
風の中に光詞が立っている。
風でネクタイが流れ、前髪が掻き乱されている。その隙間から覗く目と視線がぶつかった。
その目は、ただ尊瑠を見ていた。呼び止めるでもなく、責めるでもなく。
咄嗟に、光詞に背を向けてしまった。
光詞を一人にするな──頭の中で叫んでいるのに、振り返れない。
ズボンの生地を掴み、爪を食い込ませ、踵を返そうとした。
「開いたぞ。早く入れ、また風でドアが閉まる」
引き返そうとした体は、徳元の声に押されるように、足が階段へと導かれていく。
肩越しにドアを見ると、隙間から光詞の姿が消えていく。バンッと乾いた音が耳を裂いて、風が光詞を閉じ込めてしまった。
薄暗い踊り場の、ドア一枚向こう。
そこに残された光詞を想像できても、尊瑠はドアを開けることができなかった。
また逃げた。
大和からも、光詞からも。そして、自分自身からも……
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