8 / 18
第7話
「尊瑠、卒業おめでとう。また、学校でね」
玄関で靴を履いていたら、由香子が後ろからやって来た。
「うん、わかった」
立ち上がってつま先を床に打ち付けていると、頭にそっと手が乗った。そのまま、くしゃりと撫でられる。
「今日くらいは病院に寄らず、真っ直ぐ帰ってきてね。心配なのはわかるけど……」
由香子の眉が少しだけ歪んだ。
高校最後の日まで親に心配かけたくない。尊瑠は笑顔を作って見せた。
「帰ってくるよ。じゃ、行ってきます」
思いっきり笑って言ったつもりだけれど母親なんだ、きっとお見通しだったと思う。
ドアを閉めたあと、大和の部屋を見上げる、いつものくせ。
少しでも気配がしたら隠れてしまうのに、つい、見てしまう。
流星群を一緒に見たあの夜以来、大和とまともに会っていない。
卒業やニューヨーク行きの準備できっと忙しい。そう、自分に言い訳して逃げていた。
それに、自分も……それどころじゃなかった。
昔から必要なときは窓越しで済ませ、わざわざ連絡を取り合う習慣はお互いなかった。そのせいもある。でも、これも言い訳だ。
家に帰って来たタイミングで何度か顔を合わせた。そのときも窓で話せないかと言ってくれたけれど、全部、適当な言い訳で断った。
ニューヨーク行きの話を聞きたくなかったのと、光詞の顔がチラついたからだ。
光詞は気づいている。自分が大和に向けている気持ちを。
それなのに、今、苦しんでいる光詞を放って大和に会うことはできなかった。
大和の家に背を向け、駅までの道のりを歩いていると、昨日降った雪が道に残っていた。
朝日を浴びて輝いている雪とは反対に、建物の影に見えたのは、土のついた雪。
汚れて固く凍ったまま、日陰にひっそり残る雪は自分のようで、思わず目を背けた。
自分が教室に行ったせいで、光詞はあんな怪我をした。
あの日から一度も登校できず、光詞は病院のベッドで卒業を迎える。それなのに、自分だけが学校に行って、志望大学にも合格してしまった。
昨日、光詞に会いに行ったとき、白いベッドから『おめでとう』と言われた。
重く、心にのしかかる声だった。
卒業式が始まり、厳かな雰囲気の中で卒業証書授与が進んでいく。
順番に名前が呼ばれ、光詞のクラスの番になったとき、光詞の名前が飛ばされた。
その瞬間、思わず目を固く閉じて唇を噛んだ。
淡々と進んでいく高校最後の日。けれど、会場の中に光詞だけがいない。心にぽっかりと穴が空いて、友達の会話も笑顔も全部そこから落ちていく。
由香子が帰ったあと、打ち上げに誘われたけれど、適当な言い訳で断った。
門を出る前、徳元と目が合ったけれど、自分の世界に徳元という人間はもう、いない。
遠くに聞こえる、ざわめきを背に、尊瑠は空を見上げながら駅に向かった。
「桜、まだ咲いてない……な」
春の匂いを含んだ風で揺れる葉の下を、一人分の足音をさせて歩く。
式が終わってから何回か、ポケットの中でスマホが震えていたけれど、底に沈めたままにしていた。
靴底を引きずるように歩いていると、ポケットから長い振動が布越しに伝わってきた。
スマホを取り出すと、光詞からだった。
小さく深呼吸をして通話ボタンを押す。
『よお、式、終わったんだろ。なら、いつもより早く来れるよな』
断れない。そう思った瞬間、由香子の言葉がよぎる。
『あ、うん。行くよ……』
『なんだよ、嫌なのか!』
一瞬、迷ってできた空白が光詞を苛立たせる。
『ち、違う。そんなんじゃ──』
『じゃ、今から来い!』
『でも、まだ面会時間じゃ……』
『別にいい。俺が中庭まで出る』
『でも、寒いよ。光詞、寒がりだし、風邪でもひいたら──』
『俺がいいって言ってんだろ! いいから来い。な、来てくれよ……』
命令のあとに、甘える声になる。入院してから光詞が身につけた『くせ』だ。
「わかった。行く──って、切れたか」
駅はもう見えている。なのに、足は動かない。微かに聞こえる踏切の警報音が、さっきの光詞の声と重なる。
「行かないと……」
地面から足を引き剥がすように、一歩を踏み出した。
歩きながら大和のことを考えていた。
光詞との電話のあとなのに、自分はなんて薄情なんだろう。
それでもどうしても想像してしまう。
式が終わって友達と別れを惜しむ姿や、女子から写真をせがまれて照れる顔。全部、自分の妄想なのに、心臓が握りつぶされるように痛む。
高校の三年間、大和はどんな風に学校で過ごしたんだろう。
夢を叶えるために、どれだけシャッターを切ったのか。何度、大切な人をファインダー越しに見つめたんだろう。
自分を追い詰めるだけなのに、どうしても大和の隣にいる誰かを考えてしまう。
でも、それを許さないというように、道路に倒れた光詞で上書きされる。
……大和に会いたい。自分にだけ笑いかけて欲しい。
叶わないとわかっていても、顔が見たい。
どれだけゆっくり歩いても、病院には着いてしまう。
中庭で待つ車椅子姿の光詞に会って、彼が満足するまでそばにいる。
何を話すわけでもなく、時間を刻々と拘束され続ける。事故に遭った日からの自分の日常だった。
ようやく解放されて家に着いた途端、由香子が慌てた様子で玄関に走って来た。
「尊瑠! こんな時間までどこ行ってたの? 何度も連絡したのに!」
光詞といる間はスマホの電源を切る約束だから、入れずにそのままだった。
「ごめ──」
「大和君、今日の夜の便でニューヨークに行っちゃうのよ。智代が出発前に寄ってくれたのに、あなた帰って来ないんだもん。ねえ、もしかして病院に行って──」
「きょ、今日! ほ、ほんとに!」
「そうよ。大和君から聞いてないの? てっきり本人から聞いて知ってると思ってたのに。ねえ、あなたたち本当にどうしちゃったのよ。あんなに仲よかったのに」
由香子の腕を掴んだ。
「母さん! く、空港って羽田だよな! 飛行機って何時!」
「え、えっと、確か十九時四十五分だったかしら……」
家から東京駅まで一時間くらい。そこから羽田空港までうまくバスに乗れても五十分はかかる。もうすぐ十六時だからギリギリ間に合う。
頭の中で必死に組み立てると、もうドアの取手に手をかけていた。
「もしかして今から行くの? それなら車を出すけど、間に合わないかもしれないわよ」
「いいっ、ありがとっ!」
行ってくる、の声と同時に家を飛び出し、軒下に止めてある自転車に跨った。
全速力で漕ぎながら、頭の中で何度も自分を罵った。
一漕ぎごとに、何やってるんだと頭の中で叫ぶ。
馬鹿だ……何でちゃんと大和の話を聞かなかったんだ。
流星群を一緒に見た日から、大和は何か話したそうだった。
勝手に後ろ向きなことばかり考えて、大和の言葉を聞きたくなくて、あの場から逃げ出した。それからは光詞のことで頭がいっぱいになった。
……いや、違う。
光詞のせいにするな。現実を知るのが怖くて何度も逃げた自分が悪い。
今日、見送りに行かないと後悔する。今日、大和を笑顔で見送らないと前に進めない。
駅に着いて自転車を止めると、一直線に改札へ向かった。運よく東京駅方面の電車が到着し、飛び乗ると駅に着くまで必死で祈った。
神様、どうか最後に一目だけでも大和に会わせてください。
言えなかった思いをちゃんと伝えさせてください。お願い、お願いします。
駅に到着してバスを待つ間も、バスに乗ってからも、心臓の速度は落ちない。
空港までは、出発ロビーに直行できるリムジンバスに乗った。ここまでは順調だった。
あとはバスが予定の時間に到着さえすれば、間に合う。
両手を組み、眉間を押さえつけて固く目を閉じていると、さっきまで体に感じていた速度が遅くなる。窓から外を見ると、隣を走る車のスピードが落ちている。
通路に身を乗り出して前方を見ると、前の車もノロノロ運転をしていた。
渋滞……
心臓が一瞬、止まった気がした。冷や汗がうなじを滑って背中へと落ちていく。
時間を見ると、もう、十九時の少し前。
あと、一時間もない……
尊瑠の期待を裏切るよう、渋滞は空港近くまで続いた。
運転手に睨まれながらも、停車を待ちきれずドアの前へ移動し、バスの扉が開いた瞬間に飛び降りた。
保安検査場を見つけると、転げるように駆け込んだ。けれど、そこには誰もいない。
「もう、会えない……」
崩れそうな思いで周りを見渡していると、清掃道具のワゴンを押すスタッフを見つけた。
「あの、すいません。そこから見送れなかったら、どこに行ったら会えますか」
震える指先で保安検査場を指すと、スタッフが困ったような笑顔になる。
「お見送りの方はここまでなんです」
「本当にここまでですか! 他に見送れる場所ってありませんか」
大声に周りの視線を感じる。けれど今はそれどころじゃない。するとスタッフが、尊瑠の後方にある吹き抜けを指差した。
「あのエレベーターで六階まで行くと展望デッキがあって、飛行機なら見えます」
「そこって、滑走路を見る場所ですよね。乗った人は見えないですよね……」
わかりきっていることを泣きそうな声で聞いた。
「航空機の離着陸を間近で見ることができるんです」
見送りは出来ない──彼の言葉はそう言っているように聞こえた。
尊瑠はスタッフに礼を言うと、エレベーターに乗り込んだ。
スマホを取り出し、画面の数字に目の奥が熱くなる。
離陸の時間だった……
六階に着くと、扉が開いた途端、冷たい空気が尊瑠を包む。
空はすっかり藍色に染まり、展望デッキの床には星を散りばめたようにLEDライトが瞬いていた。
春といってもまだ夜は冷える。そのせいか、人はまばらにしかいない。
駐機場に目を向けると、ブリキのおもちゃのように飛行機が並んでいた。
まだ、間に合うかもしれない。
そう思った瞬間、自分でそれを否定した。
尊瑠はゆっくりフェンスに近づくと、縋るように手すりを掴んだ。
目を凝らし、機体を一つひとつ目で追っていくと、一機の飛行機に視線が止まった。
手すりを握る手に力がこもり、見慣れた航空会社のロゴを食い入るように見つめた。
本当に大和が乗っているのか、まだ信じたくない自分がいる。
手すりを持つ手に力を込め、窓の向こうを探した。見つめる景色の輪郭が歪んで……滲む。
立っていられず、尊瑠はデッキに膝をついた。
フェンスに縋るよう、うなだれると、大和の笑った顔や、怒った顔が次々と浮かぶ。
虫が嫌いで逃げ回る大和。鼻を摘んで牛乳を飲む姿をからかうと、ちょっと拗ねて、でもすぐ肩を組んだ。喧嘩をしても、気づけばまた隣にいた。
そんな当たり前が、ずっと続くと思っていた。
数えきれない思い出があふれて、息ができない。
鳴り響く無機質な音に、体が強張った。夜を揺らしながら機体が動きだす。
轟音 とともに浮き上がり、鉄の塊が大和を遠いところへ連れていってしまう。
「やまと……」
堪えきれず、名前がこぼれた。
「やまと、やまとぉーっ! 俺、お前が、好きだっ──!」
心の奥に隠していた想いを叫んだ。
「ずっと、ずっと好きだったっ」
行かないでくれ──その言葉を叫んだときには、もう遅かった。
飛行機は遥か上空を飛び、日本から遠ざかっていく。
「大和っ、大和、やまと……大和……」
何度も何度も名前を呼んだ。けれど、もう、届かない……
手すりから手が離れ、ぽとりと床へ落ちた。一緒に涙も落下する。
力が抜けたまま、その場にへたり込んで空を見上げた。
飛行機のライトが点になって消えるまで、尊瑠はずっと空を見上げていた。
ともだちにシェアしよう!

