9 / 18
第8話
『あ、母さん、尊瑠。野菜とお米届いた、ありがと。うん、元気。勉強? やってるって。大学一年目でサボらないよ。……うん、夏休みのどっかで帰るよ。じゃ、また』
通話を切ると、スマホを持った手がだらりと下がる。口からはため息がこぼれた。
自分のアパートに帰るだけなのに、数メートル手前の電柱で、足が止まる。
そこから先に進むのに、毎回少しだけ勇気がいる。
スマホをポケットに入れようとして、その手を止めた。
画面を見ると、そこには肩を組むようなポーズで床に並べたサイズ違いの詰襟が二着、写っていた。
中学の入学前に、制服が嬉しくて大和とふざけて撮った写真だった。
尊瑠が初めて、大和のカメラを借りて撮ったもの。それをこっそりと待ち受けにしている。
画面を見たまま指が習慣のように動き、メッセージアプリを開いた。
トーク画面に、〝大和〟と打つ。でも、それをすぐに消した。
こんなことを何度もしている。いや、何年も……
最後のメッセージも、ずいぶん前の日付で終わっている。
〝今日、駅前の本屋にいた?〟
その文章に自分が返したのは、カメラを手にした柴犬のスタンプだけ。
そこで会話は終わっていた。
別々の高校に行き始めたころの、数少ないやり取りはそれきりだった。
家が隣で窓を開ければ顔を見て話せる。そんな自分たちにスマホは必要なかった。
その当たり前が今、自分を苦しめている。
大和以外となら普通に使えるアイテムでも、いざ、大和のアドレスを出すと指が止まってしまう。
スマホをため息と一緒に、トートバッグに沈めた。
足を一歩進め、また、立ち止まる。こんなことしても、なんの解決にもならない。
いっそのこと、地面がエスカレーターみたいに動けば、勝手にアパートに連れ帰ってくれるのに。
「……馬鹿か、俺」
本が好きで選んだはずの大学。それなのに合格しても、胸は少しも動かなかった。
大学だけじゃない。
誰かと話すことも、どこかへ行くことも。気づけば楽しいことは、無意識に遠ざけていた。
トートバッグを肩に掛け直していると、後ろからバイクの音が聞こえ、反射的に体がこわばった。歩道の端まで下がり、バイクが去ってから、またゆっくり歩き出した。
だんだんアパートが近づいてくると、窓が空いているか、つい確認してしまう。
自分の部屋なのにと、苦笑いした。
こんな気持ちになるのも、全部自分が蒔いた種だ。
……カーテン、揺れてる。
窓が開いている気配に、また足が止まってしまった。
ため息をつきかけ、その口を慌てて手で覆う。そのまま、両頬を軽く叩いた。
──尊瑠はすぐ顔に出る。
高校のとき、光詞に言われた言葉がよぎり、表情を引き締める。
外階段をゆっくり上がり、一番奥の部屋まで来ると、ドアの前で一呼吸置いた。
鍵を回し、ドアを開ける。見慣れた靴が三和土 に転がっていた。
「……ただいま。来てたんだ」
玄関に入ると、ベランダのカーテンが揺れるそばで、ソファにもたれている光詞が見えた。ちらりとこちらを見て、何も言わずに視線を外す。
短い廊下を抜け、部屋と台所を仕切る、すりガラスの引き戸を開けた。
板張りの台所に立つと、後ろから「おかえり」と声がした。
慌てて振り返り、引き戸に手をかけたまま部屋を覗いた。
「た、ただいま」
リモコンを画面に向けたままの背中に、もう一度言った。
今日は機嫌がいいように感じる。それだけで、少し肩の力が抜けた。
ふと視線を下げると、前に投げ出した光詞の足が目に留まった。
ハーフパンツから見える左の膝に、十センチほどの傷跡が走っている。ローテーブルの上には、サポーターが無造作に置いてあった。
尊瑠の視線を感じたのか、不意に光詞が顔を上げた。
「何だよ、ジロジロ見て。……ああ、この傷痕見て自分を責めてたのか」
「そんなんじゃ……ごめん、メシ、作るよ。食べるだろ?」
台所に戻ろうとした背中に、舌打ちが聞こえた。尊瑠はそれを聞こえていないフリをして、冷蔵庫からラップをかけたボールを取り出す。
まな板をシンクに置いたとき、背後でソファの軋む音がして、何かが崩れるように倒れた。
急いで戻ると、光詞が仰向けのままソファに沈み込んでいた。
「光詞! 大丈夫か」
触れようと手を差し出すと、その手を鋭く払われた。一瞬、事故の日が反射のようによぎる。
「触んなっ」
背中を丸め、胎児みたいに光詞が体を縮めた。傷痕が残る膝を抱え込んで、眉を歪めている。
「み、光詞……膝、痛いのか」
呼びかけても、返ってくるのは呻き声だけだった。
伸びた前髪が顔を隠し、光詞の苦しさが見えない。
「なあ、病院、行く? 俺、ついていくから。タクシーで行けば──」
「うるさい!」
起き上がった瞬間、光詞が叫んだ。伸びた前髪が目元を覆い、隙間からこっちを睨んでいる。
高校のときの光詞はおしゃれで、特に髪には気を使っていた。
センター分けにキメた前髪、整った顔。背が高いから、制服でもモデルみたいだった。それなのに今は、髪は伸び放題で、髭も一ヶ月はきっと剃ってない。
服装も、いつも同じ。毛玉のできたジャージだ。
「……ごめん」
この三文字しか出てこない。何を言っても、言い訳にしかならない気がした。
ソファを支えに光詞が立とうとする。咄嗟に手を出すと、肩を押されて今度は、尊瑠が尻もちをつくように倒れた。
一瞬、光詞の顔に後悔がよぎる。けれど、それもすぐ消え、無精髭の顔がすぐに怒りに歪む。
「ごめ……ん」
尻餅をついたまま、謝った。
「ごめん、ごめん、ごめんっ」
光詞が怒鳴ると、口元だけで笑った。
「お前、それしか言えねぇのかよ」
「ごめっ──あ……ごめん」
「いい加減ウザい。帰るわ」
また「ごめん」と言いかけて、慌てて口を押さえた。
ソファから起き上がり、左足を引きずるようにして歩く背中を追いかけた。
「待てよ、光詞。足、痛いんだろ。泊まってけよ。俺は──」
言いかけた言葉は、光詞の笑い声でさらわれた。
「無神経だな、尊瑠。一つしかベッドがないのに。お前、俺が告ったの、忘れたのか」
靴を履こうとした足を戻し、光詞が振り返って言う。その表情には、責めるような響きとは違う、どこか縋るような色が混じっていた。
「わ、忘れてなんか……ない。だから、俺は別のとこ泊まるし」
「へー。もう、男ができたのか。さすが、大学生にもなると違うな」
乾いた音で光詞が呟く。それを黙って聞くしかできなかった。
「大和君のことは、もういいわけ?」
皮肉めいた口調で、好きな人の名前が光詞の口から放たれた。それだけで、心にかけた麻酔がじわじわと切れていく。空港で、大和への想いを叫んだ自分がよみがえった。
また舌打ちが聞こえて顔を上げると、おぼつかない動きで靴を履こうとしている。
「て、手伝う」
しゃがもうとする肩を後ろへ倒され、へしゃげた声が出る。慌てて立ち上がろうとしたところを、冷たい目で光詞が見下ろしてきた。
「同情で優しくされても嬉しくない」
踵を踏みつけるように履き、お気に入りの靴が踏まれて歪になった。
「……俺なんかほっといて、幼馴染のとこに行けばいいだろ」
捨て台詞のように吐き捨て、光詞が出ていった。ドアの隙間から見える外の景色が、少しずつ細くなっていく。
蝶番がかすかに鳴ったあと、静かにドアが閉まった。冬の日陰みたいな寒さが、足元から這い上がってくる。
靴下のままゆっくり三和土に降りて、鍵をかける。ロックされた音が、狭い玄関に響いた。
部屋に戻って床に座りこむと、ローテーブルの上のサポーターが目に入る。尊瑠はそれを手に取ると、ぎゅっと握り締めた。
「ごめんな、光詞……」
光詞の足を不自由にしたのは自分だ。あのときから、全部変わってしまった。
高校のころみたいに光詞が笑えるようになるまで、自分に笑う資格なんてない気がした。
ともだちにシェアしよう!

