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第9話

 雨の匂いがする……  さっきまで遠くの景色は、溶けた飴のように歪んでいた。それがいつの間にか、空が紫がかった灰色になっている。  夕立が来る直前の、アスファルトから焼けるような匂いがした。 「どうした、十河君。手のひらなんかかざして。え、もしかして雨?」 「はい、たぶん」  尊瑠が言うと、店長の由根(よしね)が店の外に顔を出し、鼻をひくつかせた。黒縁メガネのフレームが一緒に動く。 「するね、夏の雨って感じの独特の匂い。悪いけど傘ポン出しといて。あ、場所わかる?」 「はい」  店内に戻ると、平積みされた本を整える由根を通り過ぎ、尊瑠はバックヤードに入った。  大学に通い始めて三ヶ月。このバイトにも、ようやく慣れてきたところだった。  電気をつけても薄暗い場所だけれど、夏はひんやりして涼しい。  埃っぽくなければ、居心地いいかもしれない。  ダンボールが積まれた奥から傘袋スタンドを出し、両手で抱えるとそのまま入り口まで運んだ。  出入りの邪魔にならない場所に置いた途端、地面を叩くような雨粒の音が響いた。 「うわ、降ってきた」  さっきの空より濃い灰色が頭上に広がり、その下を手で雨を避けながら走る人たち。 「雨宿りのお客、来そうだな」  軒先から雨垂れが落ちてくるの見届けたあと、尊瑠は店内に戻った。  レジ横の後ろに積んである新刊をブックカートに乗せ、文庫コーナーへ押して行く。  新刊を平積みしていると、ざわめきに混じって小さな音が耳に届いた。  ボタンかコインが床に跳ねた、そんな微かな音。  確かめようとした、そのとき。背中に、陽だまりのような温かさを感じた。  立ち上がって周りを見渡したけれど、特に何も変わった様子はない。  視線を流していると、特設コーナーのラティスに一瞬、影が横切った。  格子の一角、ポップが外されたままになっていて、そこだけぽっかりと抜けて見える。縁には、飾りの蔦や花だけが残っていた。 「あれ、ポップ外れたままだ……」  宣伝用のポスターでも貼ろうかと眺めていると、その隙間から小学生くらいの男の子がひょこっと顔を出し、誰かを探すように視線を巡らせている。その顔がぱっと明るくなったかと思うと、友達のもとへ駆けてい行った。  ……友達、探してたのか。  本を整理しながら、自分も同じように大和を探したことを思い出した。  公園、本屋、スーパー。どこへ行くのも一緒だった。大和が自分のそばにいるのが当たり前だと思っていた、遠いあのころ。  もう、何ヶ月、顔を見てないんだろう。  小さく息がこぼれる。それをごまかすように本棚へ手を伸ばした。  ……また、だ。  さっきと同じ視線を感じ、ゆっくり振り返って棚を端からたどっていく。  特設コーナーを目にした瞬間、思わず口を手で覆った。そうしないと大声を出しそうだった。 「……尊瑠」  呼ばれた瞬間、体が固まる。  変わらない声に息が止まりかける。呼吸の仕方がわからなくなった。 「やっ──」  指の隙間からこぼれた名前を、慌てて飲み込む。  一文字だけの声が漏れ、隣にいた客がちらりと見てきた。  特設コーナーの格子のすぐ横。  そこに立っていたのは、少し大人っぽくなった大和だった。 「……久しぶり」  そう言って笑う大和の髪から、雫が落ちた。次の一滴が落ちる前に尊瑠はもう、ハンカチで大和の髪を拭いていた。 「……傘、持ってなかったのか?」  大和の肩に手を置き、それを支えに背伸びをした。会わなかった間に、また背が伸びた気がする。 「急に、降ってきたから」  ピントを合わせるような視線が痛い。尊瑠は、髪を拭く手でそれを遮った。 「……日本に帰ってたんだな」 「ああ」  声がうわずりそうになる。指先から想いが伝わりそうだった。 「……どうしてここが──って、母さんか」 「ああ、おばさんに聞いた。母さんが入院してて、それで戻ってきたから」 「おばさんが! だ、大丈夫なのか」 「骨折しただけ。今は松葉杖」 「……そっか」  ほっとした瞬間、別の疑問が浮かぶ。  実家からここまでは、電車をいくつも乗り継ぐ距離だ。なのに、わざわざ時間をかけて来る理由を知りたいと思った。 「じゃ、なんでここに……」  思わずついて出た言葉に、大和の目が見開いた。  お前に会いに──なんて、ありもしない返事を期待してしまう。 「ちょっと、こっちに用事があって」  それだけ言って大和は黙った。口下手なのは相変わらずだ。  ふと思った。ニューヨークではどうなんだろう。英語でも口下手ってあるのか?   外国人を前に口ごもる大和を想像していたら、手にカメラを持っているのに気づく。  咄嗟に尊瑠は周りを見た。レジから由根がこちらを見ている。横にいたバイトに何かを話しかけていた。 「大和、カメラ、早くしまえ」  尊瑠の言葉に、ああ、と短く言って、大和がカメラに視線を落とす。握っていたレンズカバーをかちゃりとはめた。 「カメラ、ケースに入れろ──」 「十河君、どうした」  レジを離れた由根が近づきながら声をかけてきた。眉根を寄せた視線は、大和が手にしているカメラに向けられている。 「……いえ、なんでもありません」  カメラを持つ大和の右手を隠すようにして立つと、尊瑠は由根の正面に向きを変えた。 「十河君、その方が何か──」 「あ、あの、彼は俺の友達で、カメラ持ってるのも、さっき俺がカートでぶつけてしまったせいで。だから、壊れてなかったか見てただけです」  すいません、と頭を下げた。斜め後ろで大和も会釈したのが気配でわかる。  しどろもどろな言い訳は逆に不味かったかと、背中に冷や汗が浮き出てきそうだった。 「……そう、だったらいいけど」  まだ何かいいたりなさそうに、黒縁メガネを人差し指でズレを直し、由根がレジへと戻っていく。  ほっとして息を吐いたけれど、その瞬間も由根の視線はまだこちらにあった。  廊下に立たされたような気持ちを、尊瑠は笑顔で誤魔化した。  目の端で由根を観察していると、客がレジに並んで、見張るような視線はそこでようやく外れた。 「なあ、尊瑠──」 「大和、ちょっと待ってて。一分で戻ってくる」  名前を呼ばれても手で制止し、事務所まで走った。勢いよくドアを開けたものだから、休憩中だった新人バイトが目を丸くした。 「悪い」  謝りながら傘立てに手を伸ばした。そこから自分の傘を掴むと、事務所を飛び出した。  ドアがギィッ、とお化け屋敷のような音で閉まるのを聞きながら、急いで店内へと戻った。 「大和」  文庫コーナーで待つ大和に声をかけると、走ってきた勢いのまま傘を胸に押し付けた。  自分と傘を交互に見ながら、大和の瞳がゆっくりと、一度だけ瞬きをする。 「これ、使え」 「でも、これ尊瑠の──」 「俺より大和が濡れたら困る」  言ってすぐ、しまったと思った。咄嗟に「カメラがな」と付け足す。 「大和の大事なもの濡れたら困るだろ」  傘の柄を握ったまま目を細めて見つめてくる、いつもの大和のくせ。  自分だけが気づいているこの表情。それが変わってなかったことに、少しだけ心が浮かれた。 「それじゃ、尊瑠が濡れるだろ」  低い声が自分の前で落ちた。久しぶりに聞く真剣な声に視線の拠り所がなくなる。  邪な感情を払うように、大和のリュックに触れた。 「俺は店の傘がある。ほら、雨がひどくなる前に、もう帰れ」  リュックごと大和の背中をそっと押す。肩越しに振り返った目は、「なんで」と忙しなく瞬きした。 「店長、カメラとかスマホ、剥き出しで持ってると、うるさいんだ」  リュックに添えていた手に力を込め、自動ドアまで歩かせる。 「ケースに直したぞ」 「だめ。さっきの目は大和に照準を当ててた」 「でも──」  声の途中でセンサーが反応し、自動ドアが開く。ドームの歓声みたいな雨音が大和の声をかき消した。 「ほら、めちゃくちゃ降ってる。風もキツいからビニール傘だと一瞬でゴミ箱行きだ。天気予報、当たってたな」  自分の中に生まれた甘い期待を追い出すよう、次々と言葉を埋めていく。  空を見上げると、上空はアスファルトと同じ灰色に染まっていた。  重い雲で埋め尽くされた景色は、大和と会えて嬉しい気持ちごと、覆い隠していく。 「It’s raining cats and dogs……」  大和の声で滑らかな英語が聴こえてきた。 「今、猫と犬が降ってきたって言った?」 「言った。今の、どしゃ降りって意味な」  煙るような雨を見ていた大和の視線が、尊瑠に戻ってくる。 「なんで猫と犬が降って、それがどしゃ降りになるんだよ」  気づいたら、大和の腕を掴んでいた。  目が合うと、ふっと大和の口元がほころぶ。優しげな眼差しに耳がじわりと熱くなった。  大好きな笑顔が久しぶりすぎて、思わず視線を逸らした。すると、自分の手が大和の腕を掴んだままだったことに気づく。  慌てて離すと、熱を帯びたその手を背中に隠した。 「古いフランス語とか英語の変形らしい」  こっちの動揺など知らずに、呑気に意味を教えてくれる。  背中に置いた指先が、まだ大和を恋しいと求めて疼いた。 「わかったか?」  見下ろすように確かめられても、意味なんて考える余裕はない。  短く瞬きを二度して、首を傾げてみせた。  何を言っていいか迷っていると、スッと腕が伸びてくる。長い指が頬に触れかけて、そこで止まった。その指先を見つめているうちに、大和の手はゆっくりと握られ、こぶしに変わっていった。 「そ、そんなことまで勉強するんだな」  差し出された手の意味がわからず、適当なことを言った。けれど、何かで自分の気持ちを隠したかった。 「同じアパートメントに住むおじいちゃんが教えてくれた」 「へえ……おじいちゃん、か」  ふと、流星群を見た日のことがよぎった。  あのとき、ニューヨーク行きの話をしていたとき、文彌が言った言葉。  ──俺の部屋の隣も空いてるんだ。  映画で見るような古い建物が頭に浮かんだ。互いの部屋を行き来している光景まで。  そのとき、タイヤが水溜りにはまり、すぐ前で水飛沫が上がって我に返った。  波が橋桁(はしげた)にぶつかるような音に気を取られていると、突風が雨と一緒に二人の髪を乱した。 「うわ、風、すごっ。大和、これ以上ひどくなる前に、早く帰った方がいい」 「……なあ、尊瑠。バイト、何時まで?」  その問いの意味を考えるより先に、答えていた。 「今日はラストまでだから、十時だけど」 「そうか……」  切れ長の瞳に影が差したような気がしたけれど、それはきっと天気のせいだと思う。 「大和、用事があるんだろ」  濡れた髪を乱暴に振りながら、言ってみせる。  こうやって物理的に遠ざける方法しか、自分は知らない。それしかできない。  前髪を整えるフリをしながら大和を見た。  雨が落ちてくる先を見上げているその横顔が、たまらなく愛おしい。 「気をつけて帰れよ。あ、おばさんにお大事にって」  大和の視線が自分に落ちてくる。何か言いかけた唇はリセットするみたいに引き結ばれ、ゆっくりと笑顔の形になった。 「わかった、伝えるよ。傘、ありがと」 「気にすんなって」  じゃあなと言って手を上げると、大和が傘を開いた。通りに出た足を止めて、振り返った。  何か言葉をかけないと──咄嗟に、そう思った。 「た、楽しそうに過ごしてるみたいで安心したよ、あっちに戻ってもがんばれ」  笑えているかどうか自分ではわからない。でも、満面の笑顔で言ったつもりだ。一緒に手も大きく振った。でも、傘の縁から滝のように流れ落ちる雨が遮って、大和の顔がよく見えない。 「またな」と言うみたいに、傘が少し上に持ち上がった。それだけで、少し救われた気がした。  空と地面の境界線が混ざる景色に、大和の後ろ姿が塗りつぶされていく。 「口下手どころか、完璧な発音だったな……」  ニューヨークからメッセージが届いたことはない。写真だって、一枚も。  それが何を意味するのか、いい加減わからないといけない。  大和は前に進んでいる。自分だけが一ミリも進めてないだけだ。  胸に降り続ける雨はやまない。  尊瑠は激しく降る雨に背を向けると、ゆっくりと店に戻った。

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