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第10話
窓のない台所は火を使うと、サウナのように暑い。
こめかみを伝う汗を拭いながら、尊瑠は冷蔵庫から味噌を取り出した。一瞬、浴びる冷気が心地いい。
出汁をはった鍋に味噌を溶いてると、ふと思った。大和はニューヨークで日本食が恋しくないのかと。
去年の夏、本屋で大和と再会してから、もう一年。お互い、連絡はとってない。
何度もスマホに大和の名前を表示したけれど、ただの幼馴染を装ってメッセージすら打てなかった。考えることは、遠い国で生活をする大和のことばかりなのに。
あの日、バイト先に来たのはただ、用事があったついでに寄っただけ。ほんの一瞬、用事に自分も入ってないかと期待した。けれど、由香子の話を聞いて自分が馬鹿みたいにだと思った。
由香子と智代が一緒のとき、大和が帰ってきた。そして大和が口にした行き先が、たまたまバイト先の近くだった。
「本当に雨宿りだったのかもな」
独り言と一緒にため息を吐くと、尊瑠は火を止めた。
「光詞。今日、とんかつ作るんだけど、味噌汁は豆腐でいい?」
台所から声をかけたけれど、返事がない。
テレビでも見ているのかと部屋を覗くと、光詞はスマホをいじっていた。
暑いのにエアコンもかけず、下を向いたまま動かない。
遠慮がちに近づくと、光詞がぱっと顔を上げた。
「の、覗いてくんな! 盗み見なんてサイテーだな」
振り返って叫ぶその顔は、怒りというより、むきになっているように見えた。
「ごめ──あっ」
また、ごめんって言ってしまった。
思わず下を向いて、体をこわばらせた。けれど数秒待っても、いつもの怒りが飛んでこない。そっと顔を上げると、光詞が後頭部をガシガシと掻いている。心なしか、耳が赤く見えた。
「と、とんかつだろ。食って帰るから、さっさと作れば」
怒鳴り声にも迫力がない。それに、『帰る』と前もって言うなんて、初めてだった。
そういえば、大学二年の春ころから、こんな感じだった気がする。といっても、今でも一週間に一度は合鍵を使ってここに来ているけれど。
……最低だな、俺。光詞を邪魔者みたいに思うなんて。
光詞の言葉や振る舞いから、自分はずっと目を逸らし続けている。
気が済むまでそばにいて、食事を作って、一緒に食べる。そんなことで自分を誤魔化している。
台所に戻って、キャベツの葉を一枚一枚はがした。
光詞のことを好きになれたら、と何度も思った。けれど、心がそれを拒んでいた。
高三の三学期、光詞がゲイだとバレた。広めたのは徳元だった。
卒業まであと少しだったのに、光詞の心はそのとき壊れてしまった。
そんなぎりぎりの精神に追い打ちをかけたのは、自分だと今でも思っている。
学校を飛び出し、歩道を渡ろうとした光詞に、信号無視のバイクが突っ込んできた。ひかれそうになった光詞の腕を、咄嗟に引っ張った。
直接ぶつかることは避けられたけれど、光詞は膝に怪我を負った……
──医者に言われたんだ。靭帯もボロボロで、二度と歩けなくなるかもって。
ベッドで横になった光詞にそう言われた瞬間から、うまく笑えなくなった。
光詞が事故に遭ってから、申し訳なさは尽きなくても、親友以上には思えなかった。
自分もカムアウトしていれば、いじめの矛先は分散されたのかも、って。
……今更、か。
キャベツを刻んでいると、包丁の刃の下に自分の指があった。あ、と思ったけれど間に合わず、水でふやけた指先から血が滲んできた。
傷口をタオルで押さえながら部屋に行き、引き出しを漁っていると、「切ったのか」と背中に声がかかる。
「あ、うん。調子よく千切りしてたんだけどな」
はは、って笑ってみせると、光詞の口が真一文字になった。
怒らせた──咄嗟に身構えると、一段下の引き出しを開け、光詞が絆創膏を取り出した。
「そこに入ってたんだ。よく覚えてたな」
箱を受け取ろうとしたら、光詞が中から一枚を抜いて差し出してくれる。
「去年、ドラストで買ってただろ。念のためとか言って」
「そうだっけ? 覚えてないや」
「一緒に痛み止めやら湿布とか山ほど買い込んでたからな」
「そうだったかな……」
言いながら思い出した。
光詞用にあれこれ常備した気がする。効くかどうかもわからず、手当たり次第に。
あの事故から、自分の中で光詞を優先するのが当たり前になっていた。何をしてきたのか、細かいことはもう曖昧だけれど。
頭の中が色んな感情で渦巻いていると、剥がそうとしていた絆創膏を光詞に奪われた。
「かせ、貼ってやる」
そのまま手首を掴まれ、ソファに座らされる。
「い、いいよ。自分でやるから」
手首を引こうとしたら、力を込められて光詞の方へ引き寄せられる。
「先に消毒する。タオルで押さえて待ってろ」
自分の世話をしてくれる光詞を見ていると、あれ、と思った。
立ち上がるとき、光詞はいつだって何かを支えにしている。それが今、何も持たずにスッと立っていた。
消毒液を手に光詞が戻ると、さっきと同じようにあっさりとしゃがんでいる。
もう膝は痛くないのか──聞きたいけれど、聞けない。
尊瑠の戸惑いが伝わったのか、消毒液の蓋を外す目と合った。
テレビから聞こえるバラエティーの声と消毒の匂いがする中、自分の指に触れる手と視線だけに意識が奪われ、話しかけることができない。
黙ったままでいると、「あのさ」と、光詞が静かに口を開く。
思わず手がぴくっと動いてしまい、コットンが床に落ちた。
「ごめ──」
「お前さ、髪ってどこで切ってる?」
唐突な質問に固まっていると、「どこの店かって聞いてんの」と、催促が飛んできた。
「あ……っと、大学の近くにある、アウラって店だよ」
髪でも切りに行きたいのかと光詞を見ると、先週と髪の長さが違っていた。
それだけじゃない。よく見ると、デザインが微妙に違う。伸ばしていた横の髪には緩いウェーブがかかって、その下からツーブロックの刈り上げが見え隠れしていた。
去年、リハビリを終えて、このアパートに来るようになった光詞の格好は酷かった。
髪も髭も伸ばしっぱなしで、服もいつも同じようなものを着ていた。
それが今年になって、少しずつ変わっていた。でも、それすらも口にできなかった。
ちょっとした言葉でも、光詞を傷つけると思って、たくさんの言葉を飲み込んできた。
「もしかして、髪型変えた?」
緊張しながら言ってみた。
「まあな。少しデザインを変えただけ。……どう思う?」
毛先を摘みながら、ちらっとこっちを見てくる。
「に、似合ってるよ。大人っぽくてカッコいい」
だろ? と言って、頬を緩ませながら絆創膏を貼ってくれた。
「……ありがとう。じゃ、続き、やってくるよ」
立ち上がりかけた尊瑠のデニムを光詞の手が掴んだ。
「な……に?」
「なあ、ちょっと座ってくれないか」
落ち着いた声で言われた。さっきまで感じていた息苦しさは、ない。
なかなか話さない光詞を前に、また肩へ力が入る。
コーヒーでも淹れようかと思ったとき、目の前で光詞が急に立ち上がった。さっきみたいに、スムーズに。
「光詞、足……」
口にした途端、今度は屈伸運動をし始めた。
「ちょ、ちょっと。そんなことしたら、膝のボルトが──」
「入ってない」
一瞬、何を言っているかわからなかった。目を見開いていると、光詞が床に座った。
「あぐら……していいのか?」
注意深く聞くと、光詞が首を縦に振った。真正面から見たその顔は、重い荷物を下ろしたようにすっきりした表情をしていた。
「俺、お前に嘘ついてたんだ」
「嘘……」
呟くように言葉をなぞると、光詞がまた頷く。さっきよりも深く。
「足の怪我は普通の骨折で、ボルトなんか入れてない。リハビリも、松葉杖の使い方だけで、医者が言った話も全部、嘘だ」
頭の中で咄嗟に時系列を作った。けれど途中でドミノみたいに倒れて、ゴールが見えない。
嘘をつかれていたはずなのに、怒りより先に安堵が来る。そのことが、いちばん自分を混乱させた。
「ほ……んとに、足、平気なのか?」
自分でもわかるくらい、慎重な声が出た。
「平気だ。今まで痛いフリしてお前に甘えてたんだ。ごめん、本当に……ごめん」
あぐらを正座に変え、光詞が頭を下げている。
「やめろよ、そんなことするの!」
光詞の肩を掴んで顔を上げさせた。真っ直ぐ自分を見る瞳は、高校のときの親友そのものだった。
「ぶっちゃけ、俺と一緒にいるのしんどかったろ?」
自然と手がこぶしに変わる。本能が光詞を傷つけない言葉を探していた。
「そんなこと、ない──」
続きの言葉を涙と一緒に飲み込んだ。自分が泣けば、光詞が悲しむ。
「お前は何も悪くないのに、ずっと責任を感じてくれてた」
「違う! 俺が、俺が……」
「俺はマジでお前のことが好きだった。今だから言うけど、こっそり、『タケルのミコト』って呼んでたんだ。本名には敵わなかったけど」
「な、何だよ本名って。それに俺も光詞も誰のもんでもない、自分は自分のものだろ」
「けど、好きな人のものになれるのって嬉しいじゃん」
一瞬、大和の顔が浮かんだ。でも、その隣にいるのは自分じゃない。
「俺さ、美容師になるんだ」
思わず光詞を見た。
「美容師……って、あの、髪を切る──」
「他に何があるんだ」
口調はキツいのに、光詞の顔は笑っていた。我慢していた涙が一気に込み上がる。
「そ、そっか。で、でもなんで美容師?」
うわずる声で聞いた。久しぶりに聞く、前向きな光詞の言葉に胸が熱くなる。
「……実はさ、少し前に駅前でぷらぷらしてたら、カットモデルになってくれないかって声かけられたんだ」
「カットモデル! すごい」
「別にすごくなんかない。声かけてきた人はカリスマでもなんでもないし」
「でも、俺も、周りにも美容師さんに声をかけられて人はいないよ」
喜びが少しづつ光詞からこぼれてくる。その表情に、続きを聞きたいと思っている自分がいた。
「よっぽど俺の格好がひどかったんだろ。その証拠に『君の髪は切りがいがある』って言われてさ。かちんってきたから、切ればって言ってやったんだ」
投げやりな口調なのに、光詞の顔は輝いていた。笑っていることが心から嬉しい。
「それで、そんなカッコいい髪型なんだ」
まあな、ってセリフが聞こえてきそうに、光詞の口角が上がった。
「その美容師さんがさ、髪切りながら俺の話聞いてくれて。切り終えたとき、くさくさしていた気分も切ってくれたみたいに思えたんだ」
何日も降り続いた雨が霧になり、さぁっと静かに消えて虹が出た。今、自分の前で笑って話す光詞はそんな風に見えた。
「その美容師さん、すごくいい人そう」
光詞が大きく頷いた。
「めっちゃいい人。性格もいいし、それに顔もかっこいい──って、いや、ふ、普通だな」
慌てて言い直した顔を思わず覗き込んだ。心なしか、頬が赤い。
「こ、こっち見るな! そ、それで、その人と何度か会っているうちに、美容師を目指そうって思ったって話! それと……」
慌てて言ったかと思うと、ふっと声が沈んだ。
「光詞……?」
言葉を待っていると、俯いていた顔が勢いよく上がった。
「尊瑠を……解放してやらないとって思ったんだ」
「解放って、俺は別に……」
……尊瑠。久しぶりに名前を呼んでくれた。
怪我をしてから、光詞はずっと『お前』としか呼んでくれなかった。たったそれだけなのに、目の奥が熱くなってくる。
「尊瑠はずっと俺を心配してくれてた。けど俺は、悲劇ぶって。追いかけて来いって、俺をもっと気にかけろって。……そう、思ってたんだ」
光詞の言葉に、大きく首を左右に振った。
「違う。俺が卑怯だったんだ。好きな人が同性なのに、自分だけ逃げた。光詞と同じ目に合うのが怖くて、隣の教室なのに遠くて……会いにいけなかった」
「でも来てくれただろ。この部屋にも誘ってくれたし、合鍵も、貸してくれた」
思いもしなかった言葉が優しく降り注いでくる。泣きそうになって下を向くと、肩を撫でるように叩かれた。労わるようなそのリズムに涙がこぼれる。
「尊瑠が幼馴染を好きだって知ってた。知ってて一度、俺は無理やり尊瑠を抱こうとしただろ。でもそのとき、尊瑠は抵抗しなかったよな」
去年の夏、大和と歩道橋で偶然出会ったあと、光詞から迫られた。きっと自分の、大和への気持ちが隠せず、そんな空気が光詞を苛立たせたんだと思っていた。
「あのとき、尊瑠の顔を見てわかったんだ、尊瑠が俺を見ることはないって」
「それは、光詞のせいじゃない」
投げやりな気持ちと諦め、それから、体を差し出せば償いになるかもと、どこかで思っていたからだ。
「まだ、好きなんだろ?」
迫り上がってくる言葉を飲み込んで、口を開いた。
「……もういいんだ、大和のことは。諦めるって決めたから」
高校卒業の日、空港で会えたら伝えようと、縋っていた勝手な決意。でも会えなかった。だから大和への思いは空港に置いてきた。
「俺が言える立場じゃないけど、逃げんなよ。尊瑠には俺みたいになってほしくない。俺が好きだった、明るくて素直な『十河尊瑠』を貫いてほしい」
頬を伝う涙がぽたぽたと手の甲に落ちていく。きっと今、自分の顔は涙でぐちゃぐちゃだ。
見られたくなくて俯いたら、頭の上にそっと手が置かれた。
温もりがじわりと伝わって嗚咽を漏らした途端、髪を激しく乱された。
「ちょ、光詞──」
顔を上げた先に見えたのは、ローテーブルの上に鍵を置く光詞の姿だった。
「これ、返すな。今までありがとう」
自分に笑いかける顔が滲んで、よく見えない。
「もう俺は大丈夫だ。だから──だからって変だけど、お前もがんばれ。諦めんな」
「光詞……」
名前を呟いたと同時に光詞が立ち上がった。その姿は目を細めたくなるほど凛としていた。
「……そろそろ帰るわ。とんかつ、俺の分まで食って、気合い入れろよ」
人差し指だけを伸ばし、差し棒のように指先を向けられた。
玄関に向かう背中を見ていると、少しだけぎこちない足取りに胸が締め付けられた。
三和土に立って光詞が「またな」と笑う。
「うん、また」
と、自分も笑った。笑えたことに、また泣きそうになった。
ドアがゆっくり閉まりかけ、玄関がまた日陰になったように暗くなる。その陰を吹き飛ばすように、尊瑠はドアを思いっきり押し開けた。
「光詞! 美容師、がんばれ!」
廊下を歩く後ろ姿に声をかけると、光詞が振り返って手を振ってくれた。
その笑顔は夏の向日葵みたいで、そう思った自分がちょっと照れ臭かった。
光詞が見えなくなるまで見送ったあと、廊下から空を見上げた。
夏の夕暮れの風を受けながら、大和のいる、ニューヨークの空を想像した。
果てしなく続くこの空は、大和にもつながっている。そう思えた自分は、少しだけ前に進めたのかもしれない。
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