12 / 18

第11話

 ニューヨークの学校に、夏休みはあるのだろうか。  映画とかで学校の風景は見たことあるけれど、夏休み情報までは描かれてなかった。  もし、あったとしても、大和が日本に帰ってくるかはわからない。  どっちにしたって大和の家を訪ねるか、自分の部屋のカーテンを開けない限り、本人に会うことはない。こんなこと、冗談抜きで毎日考えている。いい加減、こんな自分に嫌気がさす。  それに比べて、光詞は多分順調だ。その証拠に、合鍵が返ってきてから一ヶ月が経つけれど、あの日以来、光詞から連絡はない。それを嬉しいと思う反面、心配もあった。  もしまた、高三のときみたいにつらい思いをしていたら── 「いや、大丈夫!」  思わず声に出して、周りから視線を浴びてしまった。  肩をすくめた拍子に、『図書館はお静かに』の注意書きが目に入る。  夏休みも中盤の平日。尊瑠は涼しさを求めて図書館に来ていた。  バイト先の本屋とアパートの間にある図書館は冷暖房完備で、一人暮らしの学生にはありがたい。  建物の隣には公園があって、人工の小さな川が流れている。近所の子どもに人気なのか、微かに聞こえてくる、はしゃぐ声も心地いい。  快適な環境のおかげで、課題も読書もはかどる。いつの間にか、ここは地元の図書館の次に好きな場所になっていた。  ……もう、こんな時間か。  自習室の時計の針が、六時を指そうとしている。  机の上に広げた教科書やペンケースをトートバッグに入れ、尊瑠は席を立った。  受付に座る眼鏡のお姉さんに会釈をして、建物を出る。 「うわっ。むっとしてる」  夏の夕方は空気に昼の熱を残したままで、さらっとしていた肌を一気にベタつかせてくる。  歩道を歩いていると、走行車が風を巻き起こし、尊瑠の髪を乱す。排気ガスが混じって、思わず腕で鼻を覆った。  地元の図書館は高台にあった。  坂を登るたびに街の音が遠のいていく。そんな静かな場所は、高校生のときの避難場所だった。  上り坂はキツかったけれど、緑に囲まれた建物は呼吸をしているように思えた。何より、図書館のさらに上にある展望台は、登った疲労を吹き飛ばしてくれるほどの見晴らしだった。 「あの流星群は格別だったもんな」  そう思えるのは、大和と一緒に見たからだ。  二人っきりの静かな冬の夜。濃紺の空に流れる星と、右隣からこぼれてくる白い息。シャッターを切る音が懐かしくて。  でも──それは、文彌が現れたことで、あっという間に終わってしまったけれど。 「ニューヨークでもずっと、文彌さんと一緒にいるのかな」  独り言が足元に落ちたとき、歩道橋に差し掛かった。  アパートに帰る途中、この歩道橋を渡るのは尊瑠の決まりごとだった。  真ん中まで進んで、一旦そこで止まる。遮るものがないこの場所は、空に浮かんでいるようで、景色を独り占めした気分になる。  季節ごとに色や空気が変わり、それを感じるたびに、そのとき抱えている気持ちを受け止める。といっても、思うのはいつも同じ。大和のことだけれど。  夏の空は、オレンジから藍色に移り変わる瞬間がきれいで、大和の真似ごとをスマホでしたこともあった。  行き交う足音や気配も、さらりと流れて行く中、果てのない空を見ていつも思う。  大和もこうやって、毎日写真を撮っているのだろうか……と。  手すりに手を置き、少しだけ冷えた風を浴びていると、そばに人の気配を感じた。  何気なく横を見た瞬間、目を疑った。 「やま……と」 「よお……」  夏の景色に溶け込むような声が、耳へ流れ込んでくる。  目の前にいる大和に焦点を合わせるよう、ゆっくり瞬きをして見つめた。  ……なんでここに?  いつ、日本に帰ってきたんだ。どうして、自分がいる場所に何度も現れるんだ。  こんな出来すぎた偶然を何度も重ねられたら、期待するなって方が無理だ。  それを面と向かって聞けない。大和へ向けるたくさんの言葉がせめぎ合って、声が喉に絡まる。 「本屋行ったら、今日シフト入ってないって」 「え、店に行ったのか」 「ああ。会えてよかった」  大和の言葉に心が震える。  もしかして自分を探してた? でも、それならなんでスマホを使わないんだ。  まさか連絡くれてたのかも……そう思い、尻のポケットに手をやる。スマホを取り出しかけて、やめた。  家が隣同士の自分たちに、道具は必要なかった。その習慣なのか、お互い、スマホで連絡を取り合うことに慣れていない。高校が別になってからも、大和が日本を離れた今も。  言葉を探していると、大和が先に口を開いた。 「今度、文彌さんが東京で個展を開くんだ。その準備で、一緒に帰ってきた」  形のいい唇が紡ぐ名前を聞き、胸元をぎゅっと掴んだ。  恥ずかしい。  何が、自分を探してた、だ。思い上がるにも程がある。  同じ道を歩む二人が一緒に日本に帰って来た。自分に会いに来たのは、そのついでだ。  流星群の夜、文彌から向けられた視線が、胸を抉った。 「そ、そうか。個展……か。すごいな。きっと、きれいな写真ばっかなんだろうな」  吐き出した言葉はつぎはぎだらけだった。二の句が告げず、誤魔化すように尊瑠は視線を空に投げた。 「東京も、夕方の空はきれいだな」  大和が横に並んで、空を見つめている。  夕焼けで輝く髪や、蜂蜜色に染まった瞳。高校生のときより、去年の夏より、ずっと大人っぽい横顔は、輝く未来を見据えているように見えた。 「……アメリカはもっときれいなんだろうな。大和が撮る写真も、文彌さんの写真も、きっと美しいんだろうな」  見てみたい、とは言えなかった。言いたくなかった。  言えば、きっと大和は見せてくれる。けれど、文彌の写真を、大和と一緒に見たくない。 「田舎の風景はきれいだから、写真も撮り甲斐がある。でも文彌さんの写真には敵わないよ。あの人は本当に凄いんだ」  自分のことのように文彌のことを嬉しそうに話す顔は、夕日のせいで眩しいんじゃない。  子どものころから積み重ねてきた時間さえ、文彌に簡単に追い越された気がした。  何より、さっきから大和の口数が多い。それに気づいてしまう自分が、つらい。 「大和も夢に近づいてるんだな」  強がりを言った。心は痛いと叫んでいるのに。 「だったらそれは、文彌さんのおかげだ」  一段と深く胸に穴が開いた。そこに冷たい風が吹き抜ける。 「そう……か」 「尊瑠、流星群を見た展望台覚えてるか。あそこで俺は初めて文彌さんと出会ったんだ。あの人との出会いが今の俺の道を作ったんだ」  鼻の奥がツンッと痛くなった。目の奥も熱くなってくる。  流星群を見た自分の大切な場所は、大和の形のない夢に輪郭を作った人と出会った場所だった。  ちっぽけな自分が夜の闇に吸い込まれていく。  大和が文彌に恋愛感情があるとは思わない。それは大和には彼女がいたから。でも、文彌はどうなんだろうか。  もし文彌が大和を好きだったら。尊敬している相手だからこそ、大和はその想いを受け入れるかもしれない。  人の気持ちはちょっとしたきっかけで、変わることを、最近知ったから。  光詞が美容師さんと出会ったみたいに。    こんなことを考えてしまうのは、あの日、文彌が自分へ向けた視線のせいだ。  探るような、射すくめるような瞳を見てしまったから。 「そ、そっか。それであの日、展望台で会う約束してたんだ」 「ああ、一緒に写真撮る約束してた。あの人の家、展望台の近くなんだ。でも、まさか尊瑠に会えるなんてな」  そう言って大和がこっちを見た。  西日が大和の顔を照らし、遠い場所から微笑まれた気がした。 「そっか」  さっきから、そっか、しか言ってない。でも、長く話せば話すほど、自分が惨めになっていく気がした。 「まだ公表はしてないけど、文彌さん、色覚異常なんだよ。それで、一度は写真を撮ることを諦めた人なんだ。それを個展の初日に発売する写真集で伝えるんだ」 「色覚異常……それって、色がわかりにくくなる症状のこと?」 「そう。赤と緑、青と紫の色の判別ができないらしい。でも、夢を捨てきれなかったんだって」 「その症状で写真を撮るって、どうなるの?」  世界中にあふれている色が、違って見える。その世界が想像できない。 「それは俺もわからない。けど、あの人は、その色を無視して構図だけに集中してみようって思ったんだ。それを強みにして、自分にしか撮れない写真を撮ってるんだ」  手すりに置いてあった大和の手が離れると、両手を使って熱く語っている。反対に自分は、段々寒くなってきた。きっと、日が翳ってきたせいだ…… 「文彌さんの話を聞いたとき、俺は将来のことで悩んでたから勇気をもらったんだ。尊瑠にそれを知ってほしかった。だから今日、話せてよかったよ」 「すごいな、文彌さんって。大和が尊敬するの、わかるよ」  本当に……すごい。口下手な大和にここまで語らせるのは。 「尊瑠はそう言ってくれると思ってた」  噛み締めるみたいに大和が言う。その声音が風に乗って体に触れ、思わず身震いした。  これまで何度も想像してきた、大和の隣に立つ人。それは、顔も知らない女の子だった。けれど、そうじゃないのかもとさえ思えるほど、文彌の話をする大和は輝いている。 「よかったな、大和。……いい人に出会えて」  自分の言葉に泣きそうだ。でも、まだ、泣けない。太陽はまだそこにあって、泣き顔を闇では隠せない。 「ああ。だから尊瑠にも個展を見に来てほしいんだ」 「文彌さんの個展に?」  次の言葉が続かない。  行きたくない。その言葉しか浮かばなかった。でも、そんなことは言えない。絶対に。 「個展はまだ先で、今年のクリスマスなんだけど」 「クリスマス……」 「まだ暑いのに、冬の話なんて想像も予定もつかないだろうけど、来てくれないか」  手すりに手を添え、真っ直ぐ自分を見てくる視線が悲しい。  箱の中からくじを掴むみたいに、尊瑠は相応しい返事を引き当てようとした。 「大学の友達にも、宣伝するよ……」  必ず行くよ──とは言えなかった。これが限界だった。 「あ、ああ。それは文彌さんも喜ぶけど、俺は──」 「あ、もうこんな時間だ。大和はこのまま実家に帰るのか?」  わざとらしくスマホを見て言った。 「いや、これから文彌さんと個展の打ち合わせがてら、晩めし食うんだ。尊瑠は?」  日本に戻っても、大和の優先順位は彼なんだ…… 「お、俺は……」  思わず大和から視線を逸らした。さっきまでオレンジだった空が、濃紺に染まっている。  少し濃くなった空を見上げると、一等星がかろうじて見えた。  あの星のように自分も輝いていたら、大和に見てもらえたのかもしれない。 「俺はえっと、バ、バイトなんだ」 「バイト? でも、シフト入ってないって……」 「本屋じゃない。その、カテキョ。そう、臨時で家庭教師のバイト頼まれたんだ」  早く、もっと駆け足で夜が来てほしい。じゃないと、泣き顔が見つかる。 「掛け持ちしてるのか。体、平気か?」 「平気、平気。俺、小さいけど頑丈だから。大和と違って、牛乳飲んでるし」 「その割には背、伸びてないけど」 「うるさい。大和は特別──じゃなくて、特異体質なんだ」 「人を宇宙人みたいに言うなよ」  大和が肩を震わせて笑っている。その姿にほっとしていると、「なあ」と、真面目な声が聞こえてきた。 「俺、尊瑠に確かめたいことがあるんだ」  大和の足が一歩、近づく。尊瑠の喉がこくりと動いて、トートバッグの紐を掴み直した。  確かめたいこと……その中身が読めなくて、代わりに臆病な自分がスマホを取り出す 「あ、ヤバい! 時間に遅れる。ごめん、タイムリミットだ。大和は駅に行くんだろ? 俺は徒歩圏だから。じゃあな。個展、がんばれよ」  一気に言い終えると、大和の横を走り抜けた。 「待て、尊瑠!」  反射的に足が止まる。でも、振り返れない。  大和と話すことが怖いなんて、子どものころは考えたこともなかった。なのに、大人に近づくごとに先読みして、耳を塞ごうとする自分がいる。 「尊瑠、教えてくれ。お前は誰かと一緒に──」  その言葉を振り切るみたいに、足が勝手に動いた。思いっきり踏み出すと、数歩も行かないうちに手首を掴まれた。ぐいと引くような強さはない。ただ、そこから離れることを許さないような、静かで切実な拘束が肌を伝って足を引き止めてきた。 「……待てって」  熱を持った声が引き止める。肩越しに振り返ると、怒っているのか悲しんでいるのかわからない瞳で大和が見ていた。  指先が食い込むほどの力で握られている。なのに、その指は震えていた。 「お前が今、何を思ってるのか……それが聞きたい」  何を思ってるかって? ……そんなの言えるわけない。言えば、幼馴染の関係さえなくしてしまう。  鼓動が掻き立てられ、尊瑠は首を激しく左右に振った。 「尊瑠! なんで俺から離れるんだ。俺ら、幼馴染で──」 「幼馴染なんかでいられないからだよ!」  思わず叫んでいた。  大和の目が見開いた瞬間、掴まれていた手を振り払うと、背を向けて地面を蹴った。  加速がついたまま、反対側の階段を駆け降りていく。  後ろから名前を呼ばれた気がしたけれど、振り返る勇気がない。  歩道橋を降りても、尊瑠は走り続けた。  言ってしまった。口にしてしまった。あんなの、好きだって言ったようなものだ。  もう、戻れない。幼馴染にも、親友にも、顔を見ることも、もうできない……  子どものときみたいに、「また明日な」の言葉を積み重ねていけば、永遠の約束になると信じていた。  でももう、あのころとは違う。  自分と大和は、肩を並べて同じ道を帰ることは二度とない。  虚しさがあふれてくる。完璧な幼馴染に徹することさえ、手放してしまった。  息が苦しくても、胸が痛くても、歩道橋から離れてしまっても、尊瑠は走り続けた。  行き先なんてどこにもないのに……

ともだちにシェアしよう!