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第13話
明らかに普段着じゃない、高そうなセーターとスカート姿で由香子がリビングに飛び込んできた。
「すっごくきれいだったのよ! 母さん、グッズ買っちゃった」
夕食用に買ったのか、デパ地下惣菜をキッチンに置くと、バックから取り出したポストカードや栞をリビングのテーブルに並べている。
文彌の作品を眺めながら、どれを飾ろうかと鼻歌まで歌って。
大和の母、智代と一緒に文彌の個展から帰って早々、由香子のお喋りは止まらない。
「写真がマグネットになってる。すごいね」
手のひらサイズの空を眺めていると、ふと、視線を感じた。
「尊瑠は明日、行くのよね?」
先行発売された写真集をめくりながら、由香子が言う。
即答できず、唇を噛んでマグネットを手のひらの上で転がす。
「行かないの? 明日が最終日よ」
由香子が重ねて言う。それでも、返事ができない。
「大和君、個展中は近くのホテルに泊まるって。だから、お隣にはいないのよ」
いいの? と、睨むように言われた。
マグネットをテーブルに置くと、尊瑠はゆっくりと腰を上げた。
由香子の『いいの?』の言葉だけが耳の奥に残る。
まだ何か言いたげな由香子を残し、尊瑠は二階へ上がった。テーブルの上に広げられた、文彌の写真を横目にしながら。
階段を一段上がるごとに、これまでの自分を振り返ってみる。
中三のとき、大和に彼女が出来て初めてわかった。
大和の隣にいることができるのは幼馴染の自分で、それ以外の理由では居られない、ということが。
ニューヨークに旅立つ日、見送りに間に合わなかった瞬間、自分の恋を無理やり終わらせた。
次に会ったらこれまでと同じ、幼馴染に戻ればいいと言い聞かせて。
けれど、甘かった。
思った以上に自分は大和が好きで、それ以上に好きになれる相手がいない。そのことを、この歳になるまでちゃんとわかっていなかった。
部屋に入ると、自然と窓に目がいく。
カーテンを開ければ大和の笑顔と目が合う。窓を開ければ、声が聞ける。
そんな関係、自分にとっては宝物だった。
窓に歩み寄り、カーテンを掴んだ。開けようとするその手がためらう。
布から手を離すと、ベッドに転がった。両手を瞼の上に乗せて目を閉じる。
こうしているだけで、嫌な想像ばかりが頭に浮かぶ。
もしかしたら大和は日本には戻らず、ニューヨークで働くかもしれない。
それだけじゃない。文彌と一緒に暮らすかもしれない。そうなったら、二度と会えない。
もしかしたら、今回の帰国で会えるのが最後かもしれない。
起こってもないことばかり考えて、自分で自分の首を絞めている。
不意に、由香子たちの会話がよみがえった。
──二人揃って『ヤマトタケル』なのにね。
母たちが冗談で言った言葉は、幼い自分には絆のように思えた。
──尊瑠には俺がいる。俺ら、二人で一つだろ。
困ったときや悲しいとき、この言葉だけが支えだった。けれど、いつの間にか大和にとってその言葉は、親のネタに変わっていた。
目を覆っていた手を外すと、大和の部屋に視線を向けた。
窓越しに夜の気配が伝わってくる。明日へと、少しずつ近づいている。
尊瑠は抗うように寝返りを打って枕を抱えた。そのとき、すぐ目の前でスマホが鳴る。
画面を見ると、光詞からだった。
合鍵を返してもらってから、初めての電話だった。
『もしもし、尊瑠?』
通話ボタンを押した途端、飛び込んできた久しぶりの声。
『久しぶり。元気か?』
『元気、元気。尊瑠は?』
はつらつとした問いかけに、声が詰まる。それでも、元気だよと、返事をした。
『あのさ、俺。尊瑠に謝らないといけないこと、あるんだ……』
弾んでいた声のトーンが落ちる。続きの言葉も聞こえず、尊瑠が口を開きかけたとき、『ごめん』という声が、かすれて聞こえた。
『なんで光詞が謝るんだ。謝ることなんてない。それなら俺だって──』
『違うんだ! 俺……お前に、いや、お前の幼馴染にも、酷いこと、し、た……んだ」
予想もしない言葉が返ってきた。なぜ、今、大和のことを光詞が口にするのだろう。
『……去年のクリスマスに、尊瑠がバイトで遅くなった日、尊瑠の幼馴染がアパートに来たんだ』
光詞の言葉に耳を疑った。
大和がアパートに来てた……?
頭の中が真っ白になった。それなのに、自分のアパートの前に立つ、大和の姿が想像できてしまう。
『ごめん! 本当にごめんっ。俺、ムカついたんだ。大学に入って一度も会ってないし、連絡もしてないって言ってたのに、部屋に来たから。だから、腹が立って、俺、追い返したんだ』
スマホを持つ手に力が入らない。詳しく聞きたいのに声が出ない。何も……言えない。
『……追い返しただけじゃない。俺と尊瑠は同棲してるって、あいつに言ったんだ。毎日、毎日、セックスしてるって』
頭の中で、キーンと音が鳴った。
どこかで聞いたことある音だなと思ったら、ニューヨークへ旅立つ大和を追いかけたときに聞いた、飛行機のエンジン音に似ていた。
『それに……お前が風呂に入ってるとき、電話がかかってきたこともあった。着信が大和って出たから、俺は拒否のボタンを押して履歴を消した……」
怒りより混乱が先に立って言葉が出てこない。
悲しみだけが体の内側から滲み出て、こらえるために唇を噛んだ。
大和から離れたくなくて、ずっと展望デッキにいた自分がよみがえる。
『本当は鍵を返したときに話さないといけなかった。でも、俺、自分のことで浮かれてて忘れてたんだ。けど、明日クリスマスだなって気づいて、それで、……思い出したんだ』
電話の向こうで光詞が泣いている。小さな嗚咽を聞きながら、尊瑠は深く息を吐いた。
『あのときの俺は、世の中の不幸を、自分だけが背負っているような気分で。尊瑠も徳元も、幼馴染もみんな不幸になればいいって思ってた。だから、だから……』
震える声を聞きながら、高校生の自分たちを思い出した。
寒空の下、いつ来るかわからない自分を鼻の頭を赤くして待っていた光詞。好きだと言ってくれた顔。いじめにあって無言で耐えていた姿。膝にできた、手術の痕。
事故に遭ったあの日──いや、自分に思いを伝えてくれた日から、光詞も壊れそうな心を保つのに必死だったんだ。
『俺ら、セックスどころか、キスさえしなかっただろ? 恋人でもないのに、幼馴染が来たって知ったら、尊瑠、あいつんとこに行ってしまうって……』
光詞を責められない。でも、慰めることも許すこともできない。けれど、真っ直ぐに自分へ向き合ってくる姿はきっと眩しくて、臆病な自分より強いと思った。
中学のときから逃げてばかりの自分は、光詞を責める資格なんかない。
幼馴染なのに、勝手に卑屈になって距離を取って、そのせいで大和を悩ませている。
『本当は……ずっと黙ってようかと思ったんだ。でも一成 さん──美容師さんが、俺に言ったんだ、友達に嘘ついたままでいいのかって。それで俺……』
高い場所からボールがすとんっと落ち、それを胸で受け止めたような感覚が胸に広がる。
フィルムを巻き戻すみたいに、由香子と交わした会話が再生されていく。
──明日が最終日よ。
身体の内側からじわじわと熱が生まれ、スマホを持つ手に力がこもった。
『……話してくれてありがとう』
やっとまともな言葉を口にした、口にできた。
『怒らないのか……』
『怒ってる』
『だったらもっとちゃんと怒れ。怒鳴るとか喚くとか、殴りに、来るとか』
だんだんと尻すぼみになる光詞の声がおかしくて、笑った。
『なに笑ってるんだ。本気で怒れよ。もう、俺を甘やかすな』
泣き声が砕けた音に変わった。それが嬉しくて、また笑ってしまった。
『だから、笑うなって! 俺、なんでもするから。尊瑠のためなら』
『じゃ、光詞のお客一号は俺な』
一瞬、間が開いた。耳を澄ませていると、鼻を啜る音がした。その横で、微かに聞こえた、知らない男性の声。〝よかったな〟と、囁いたように聞こえた。
『……わかった。そのときが来たら絶対連絡する。首を洗って待ってろ』
『なにそれ。俺ら、戦うの?』
笑いながら言ったのに、光詞から返事がない。スマホを耳に押しつけると、光詞の声が聞こえた。
『戦うのは尊瑠と俺じゃない。尊瑠と尊瑠自身の心だ』
『え……』
電話の向こうから、一度飲み込んだ言葉を吐くようなため息が聞こえた。
『ずっとぐずぐずしたままでいるから、俺みたいなのに付きまとわれるんだ。さっさと告って、ひっつくなり玉砕するなりして来い』
清々しいまでの言葉に、自然と喉が鳴った。電話の向こうで、二人分の笑い声が聞こえる。
『……玉砕は、やだな』
『だろうな。けど、行ってこい。何もしなかったら前に進めないぞ。……経験者は語る、なんてな』
光詞の言葉は後退ばかりしていた身に沁みて、説明できない勇気が湧いた。
『玉砕したら、ずっと電話で泣き言言うけど、いい?』
問いかけに返ってきた声は、高校で初めて席が隣になったとき、声をかけてくれた声音に似ていた。
電話を切っても、尊瑠はずっとスマホを見つめていた。画面が眩しく感じて、そのとき初めて部屋の電気をつけていなかったことに気づく。
ベッドから腰を上げ、スイッチを入れる。部屋が明るくなって、大和の部屋がよく見えた。自然と窓際に近寄って、カーテンを開けていた。
大和の部屋は真っ暗で何も見えない。でもまたいつか。何年先か、何十年先か。窓越しに会話ができるかもしれない。そう思えた。
机の上を見ると、フォトフレームの中の小さな自分が無邪気に笑っていた。
幼いころから大和のカメラには、自分があふれていた。けれど、写真にも写らない想いが自分の中にはある。それを伝えることは、大和と永遠の別れだと思っていた。
胸の奥の奥の方。自分でも手が届かないように押し込めた想いを、そっと取り出す。
そこには、会いたいと思う気持ちだけがあった。
大和に会いたい。会って思いを伝えたい。
自分の気持ちを救えるのは自分だけだ。グリーンチーターはいない、いつまでも逃げてばかりじゃだめだ。
この先もずっと、自分のアルバムには大和が撮った写真だけを残したい。
それが友情からでも……
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