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第7話 頼まれごと

「現状、わかっているのはこれくらいか」 菊正は筆を置き、書き終えたばかりの文をもう一度読み返す。城の構造や兵の配置、そして桜都のことについて詳細に書かれている。それでもまだこの城について謎は多く、わからないことだらけだ。 「菊正殿、今よろしいですか?」 壬芽(みと)の声だ。 「今行く」 菊正は文を素早く畳むと、人目につかない場所へ滑り込ませた。それから静かに戸を開けた。廊下には壬芽ともう一人、桜都(おと)が立っていた。 無意識に視線を外す。 だが桜都はその素振りなど意に介した様子もなく、すぐに紙を差し出した。 「これは?」 「地図だ。この間商人たちが城門で暴れただろう。その発端となっている跡地に行ってきてほしい」 「しかし殿、菊正殿一人では……」 「菊正なら大丈夫だ」 言い切る声に一切の迷いはない。 (おいおい、その自信はどこから沸いてくるんだ……) 半分感心し半分呆れながら、菊正は地図に目を落とした。手描きの簡素な地図が描かれている。美桜城が下の方に描かれており、そこから曲がるべき場所ごとに目印となる店や、特徴が書き添えられていた。 「その町に香を売っている老人がいる。いつまで経っても退去命令を聞かないのでな。説得してきてほしい」 「なるほど」 ここに来て初めての単独任務だった。 (つまりは僕の実力を試す、ということか) 「頼んだぞ」 桜都は菊正の返事を待つことなく、そそくさと歩き去った。 * 壬芽が「一人で行くのは危ない」と言ったとき、菊正はその理由をいまいち理解していなかった。だが左右に広がる廃れた町を見て、なるほどと頷かざるを得ない。 完全に崩れ落ち、今や鼠や狸たちの住処になっている家々。空き家を寝床にする放浪者。主家を失い、目的もなく流浪する者たち。お世辞にも治安がいいとはいえない。 背中へ視線を感じるような不快感が走り、菊正は一瞬背後を振り返った。人影らしきものは見えなかったが、警戒を緩めることなく、地図に従って人一人がやっと通れるほどの細い路地を進んでいく。 迷路のように入り組んだ道を右、左と進むこと半刻。不意に、鼻腔を甘い香りがくすぐった。 甘い。けれどただの甘さではない。 香りの奥に柑橘系の爽やかな匂いが混じっており、廃墟と化した淀んだ空気の中で、それだけが妙に際立っていた。 「ここだ……」 看板には「香」の一文字。 しかしその字はほとんど消えかかっており、目を凝らさなければ読めないほどだ。 菊正は戸を開け、中に入った。 「誰か、いらっしゃいませんか」 物音一つしない店内に、声が虚しく響いた。 人の気配はない。 だが人に忘れ去られたような外の景色とは違い、店内は塵一つなかった。木の棚や小さな引き出しが左右にずらりと並んでおり、香木や薬種が丁寧にしまわれている。 それを見るだけで、この店の主人がいかにこの場所を大切にしているのか伝わってきた。 刹那、奥の戸が音もなく開き、背を丸めた老人が幽霊でも見たかのような表情で立っていた。 元々は上等な生地であったであろう着物は、今では色褪せほつれている。だが長年使い込まれたそれには、微かに白檀の香りが染みついていた。 「誰だ」 「桜都殿の家臣を務めております、菊正と申します」 「……武家の者か」 老人の声には警戒心が滲んでいる。 「退去命令なら、聞くつもりはない」 意志の固い声に、菊正は内心これは骨が折れそうだと思った。一歩踏み出し、視線を店内へ向ける。 「香の匂いが、まだ残ってる」 菊正の声に老人は眉をひそめた。 「棚の奥、乾ききっていない香木がありますね。最近も調合を? 」 そんな指摘をされると思っていなかったのか、老人は瞬きを数回繰り返す。わずかな沈黙の後、静かな声が返ってきた。 「……客などもう来ない」 「それでも、手入れは続けているんですね」 菊正は近くにあった香木に視線をやった。 「少し見ても?」 「好きにしろ」 まだ警戒心を含んだ声だったが、完全に拒絶しているわけでもなさそうだ。 菊正は棚の前に立ち、香木を手に取った。木を軽く持ち上げると、重さを確かめるように上下に動かす。木口を見たあと、鼻に近づけ、香りを嗅いだ。 「沈香だ」 確信のこもった声に、老人は目を見開いた。 「わ、わかるのか」 「しかもこれ、伽羅(きゃら)じゃないですか。その希少性から金に等しいと言われている、高級香木だ」 老人はただ菊正を見つめる。 「若いのに、大した鼻だ」 ふっと、口元がわずかに緩んだ。 「これは、女房が好きな香りだった」 「香りに芯があります。それでいて甘さが尖りすぎない。長く火にかけても飽きが来ない香りですね」 菊正の言葉に、老人が短く笑った。 今日初めて見せた笑みだった。 「……客に褒められたのは、何年ぶりかな」 菊正は再び店内を見回すと、匂い袋を手に取って差し出した。 手のひらにすっぽりと収まる小さな袋だ。 黒色の布に金やピンク、白などの様々な色の糸を使い、繊細な桜の模様を描き出している。 老人は驚いたように顔を上げた。 「買うのか」 「えぇ」 即答だった。 菊正は懐から銭を取り出し、迷わず机の上に置く。 老人はしばらく呆気にとられたように菊正を見つめてから、おずおずと匂い袋に手を伸ばし、慣れた手つきで包み始めた。 その様子を見つめながら、何気ないふうを装って続ける。 「昔は繫盛してたんじゃないですか?」 「昔は、な。今は見る影もない」 菊正は視線を落とした。 「道中、焼け落ちた木材や崩れた瓦礫を見ました。火事の跡ですよね」 「……あぁ」 ほんの一瞬、老人の動きが止まる。 それを菊正は見逃さなかった。 「香りは記憶を呼び起こさせる。そう聞いたことがあります」 「何が言いたい」 「この店を続けている理由は、何か守りたい記憶が?」 「……余計な詮索だ」 老人の言葉はまだ冷たかったが、先ほどよりも拒否の色は薄かった。菊正はそこで初めて、踏み込んだ。 「仮住居への移動は、なさらないんですか?」 再び、老人の手が止まった。 鋭い視線が菊正に向けられる。 ゆっくりと包みを置き、正面から菊正を見た。その眼差しには怒りとも悲しみとも取れない、複雑な光が宿っていた。 「やはり、追い出しに来たのか」 違うとも言い切れず、ただ沈黙するしかなかった。 多くのことを映してきた瞳が、ゆっくりと値踏みをするように菊正を捉える。その視線から逃げることはしない。ただ、じっと見つめ返した。 「はぁ……」 やがて老人は深く息をついた。 疲れたような、諦めたような、何かを手放すような息だった。 「時々、ここにお前さんのようなお偉いさんが来るんだ。この地はそろそろ新たな町を作るために、もう一度焼いて更地にすると言ってな。当然、そんなこと受け入れられるはずがない。ここは女房と六十年以上連れ添った大切な地だ。簡単に渡せるものか」 熱がこもりかけた声を、老人は小さく息を吐いて落ち着かせた。 「二年前、ここで大きな火事があった。火はあっという間に町全体を呑み込んで……辛うじて全焼をまぬがれたのは、この家とあとは片手で数えられるくらいだ。来る道中で見ただろう? あれはあのときの残骸だ」 菊正は静かに頷いた。 焼け落ちた木材、崩れた瓦礫、荒れ果てた家々。 それらが脳裏に映し出される。 「その火事で、私は女房を失った」 老人の声が、わずかに震えた。 「恋愛結婚だった。周りから反対されていたが、それに構わず二人で逃げるようにしてこの地に流れ着いた。一からお香屋を始め、嬉しいことに多くの客で賑わうまでになった。幸せだったよ……」 当時の光景を思い出すかのように、老人は店内をゆっくりと見渡す。 「でも火事の時、女房は見知らぬ小さい子を助けようと、家の中に飛び込んだ。そして、そのまま……」 そこで口を閉じた。 続きの言葉がなくとも、察しはついた。 「この地で一生を共にしようと誓ったのに、私だけこの地から逃げることなど、できるわけがない」 火事の後、この地は修復不可能なほどの被害を受け、奉行も治安維持活動を放棄したのだという。今ここに来るのは、もう流浪者と動物しかいない。 この老人がなぜこのような無法地帯に住み続けているのか。それはこの地が彼にとって、愛する人との最期の場所だからなのだろう。 「他の商人が何度も城へ行って交渉しようとしたが、聞く耳すら持ってくれなかったそうだよ。その商人も、今はどこか遠くへ引っ越してしまった。この国は、終わってるよ」 諦めたように吐き捨てる姿が、この間の商人たちと重なった。やはり、この国の人たちは主君という存在に一切希望を感じていない。 ────違う。 喉元まで出かかった言葉を、菊正は寸前のところで飲み込んだ。商人の間に立ち、高らかに宣言したあの日に、「説得してきてほしい」とだけ告げた今朝。あれは民を切り捨てるための命令ではなかった。 「桜都殿は……」 言いかけて、口をつぐむ。 彼は暗殺対象だ。それ以上でもそれ以下でもないはず。庇う理由などどこにもない。 それなのに、老人の乾いた声が耳の奥でまだ響いている。 ────この国は、終わってるよ その言葉が、なぜか胸の奥で棘のように刺さって抜けなかった。 「桜都殿は、違います」 気づけば、口が動いていた。 「桜都殿はそんなことしない。この地のことを考えてくれている」 「桜都殿、ね。はっ、何を馬鹿な」 「本当です!」 とっさに強くなった声に、老人は肩を揺らして菊正を見た。だがその言葉に一番驚いたのは、菊正自身だった。それでもその感情とは裏腹に、言葉は止まらない。 「殿は、民のことを一番に考えています。どうか、彼を信じて下さい」 「ふん。やれるものならやってみればいいさ。とにかく、私はこの町を離れるつもりはない。わかったらさっさと帰れ。ここはお前さんのような高貴なご身分の方が来るような場所じゃないよ」 それだけ言うと、奥の戸へ戻っていく。 小さな背中が消えると、店内はまた静けさに包まれた。 菊正はお香を懐へ丁寧にしまい、店を出た。 ────彼を信じて下さい。 (なぜ、あんな言葉を……) 彼は暗殺対象であり、それ以上でも以下でもないはずだった。疑問に思う思考を遮るように、明るい光が菊正の顔を照らした。とっさに手のひらで光を遮る。 城を出たときは昇り始めたばかりだった太陽が、今はもう真上まで来ている。急いで帰らなければ、と足を速めた。 来た道を頭の中で辿りながら、迷路のように入り組んだ細い道を進んでいく。しばらくすると、開けた道に出た。 そこで、菊正の足が止まった。 十間ほど先。そこに人影が見える。 薄汚れた袴に、腰には刀を佩いている。流浪者だ、と判断するのに一瞬もいらなかった。 このまま道をまっすぐ進めば鉢合わせる。 今は戦っている暇などない。 幸い、相手はこちらに気付いていないようだった。菊正は視線を動かし、裏道はないものかと辺りを見回した。運よく正面に繋がっていそうな路地を見つけ、身を隠すようにして進む。 しかし、その先にもまた別の流浪者が立っていた。 (くそ、引き返すしかない) 踵を返した、その瞬間。 「よぉ、お前が菊正か?」 背後から、ねっとりとした耳障りの悪い声が聞こえてきた。 そっと、後ろを振り返る。 「えらいイケメンさんじゃねーか。こりゃあ、顔を傷つけるのは忍びねぇなぁ」 背後にいた流浪者は手を顎に当て、舐めるようにして下から上へと菊正を見つめた。 「……誰だ、お前たち」 菊正の低い声が周囲に響いた。 「ほう。気が強いのも悪くねぇ」 男が口端を吊り上げる。 「それじゃあ、俺たち三人と遊ぼうか」 いつの間にか、背後には先ほど見た二人の流浪者が刀を構えて立っていた。 逃げ道は、ない。 菊正はゆっくりと刀の柄へ手を伸ばしながら、静かに息を整えた。 「いいだろう」 薄く笑う。 「遊んでやる」

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