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第9話 夢
「父上!」
「桜都か。どうした」
「母上が髪を結ってくれたんです!見てくだ……」
「その女の話はするなと言っただろう」
これは夢だ。昔の、遠い夢。
まだ十の頃の幼い記憶。
場面が霞むようにまた切り替わる。
「おぉ、これが噂の若君か。目を見張るほどのべっぴんさんだなぁ……本当に男か?」
男の口が三日月のように弧を描く。
気持ち悪いほどのねっとりとした笑みに、背筋がぞくりと粟立った。卑しい手が、こちらへとゆっくり伸びてくる。
「や、やめてください……っ」
幼い桜都は後ずさるように足を引いた。
「怖がることはない。ただ確認するだけ……」
ぬるりとした指先が、小袖の合わせをこじ開けるようにして入り込んでくる。声を出して助けを求めたいのに、喉が凍り付いて呼吸すらまともに出来ない。
(助けて、助けて……!)
そのとき。けたたましい音とともに襖が左右に開いた。
「……っ!」
そこには、形相を変えた奥方が立っていた。燃え立つような瞳が二人を捉えるなり、彼女は引きはがすように桜都の腕を掴んだ。
「い、痛い……っ!」
「人の旦那をたぶらかして、なんてことを!」
「ち、違います! この人が勝手に……」
「勝手に……?勝手に何だって言うんです?」
殺気を帯びた顔に、また声が出なくなった。
彼女の唇が薄く、凶悪に吊り上がった。
「これだから下劣な血を引く子供は……」
吐き捨てるような声が、桜都の心の奥に突き刺さる。
「二度と近づかないでください。次に何かあったら、お前の息の根を止めてやる……ッ!!」
かは……っ!
喉の奥から引き裂かれるような音が響いて、桜都は弾かれたように身を起こした。
呼吸は浅く速く、肩が波を打つように上下している。乱れた長い髪が頬に貼り付いて、それをかき上げる指先がかすかに震えていた。
「夢、か……」
しん、と静まり返った城内。
昼間の活気とは対照的に、今は物音ひとつ聞こえない。
まるで世界にたった一人取り残されたような感覚の中で、広い部屋の真ん中に座ったまま、ぶるりと体を震わせた。
暗闇の向こうから、夢の中の人間たちがこちらをじっと見つめているような気がする。その黒い波に呑まれる前に、桜都は膝を胸元に引き寄せ、目を強く閉じた。
────お前のその美貌には、利用価値がある
────一緒に遊ぼうか。心配はいらない。痛いことはしないよ……
────下劣な血を引く子供めっ!
(来るな……私に、触るな……ッ!)
耳の奥で繰り返し響く声。
ぐわんぐわんと頭が揺れる。脳の内側をぐちゃぐちゃと何かで引っ搔き回されているようだった。
桜都はすぐさま枕元の薬に手を伸ばし、唇に運んだ。じわりと口内に広がる苦み。それは喉の奥、気管へと抜けていき、ようやく夢の残像を消し去ってくれた。
「ふう……」
ほっと息を吐いた時、指先に何かが触れた。
視線を落とすと、そこには小さな袋があった。何色もの糸が組み合わさって、鮮やかな模様を描き出している。
────殿へ、贈り物です
その袋をそっと指先でなぞる。
そこにあったはずの体温を確かめるように、求めるように、表面をゆっくりと撫でた。
桜都はそのお香袋に向かって薄く微笑むと、大きく深呼吸をした。すっかり目は冴えており、このまま布団に戻っても寝られそうにない。
小袖を緩く着直すと、静かに立ち上がった。他の者たちを起こさないよう、すり足で廊下を進んでいく。
明かりのない真夜中でも、今日はいつも以上に城内が見えた。ふと空を見上げる。
(満月……)
夜空に登ったまん丸の光。
その月明かりのおかげで、普段なら塀や建物が影を落とす場所も、今日は歩くには困らない程度に見えている。
桜都は迷うことなく廊下を渡り、塀の陰に隠れている木戸をそっと押した。
ギギィ────
甲高い音が響いた。
あたりに人の気配がないことを確かめてから、さくさくと軽やかに草を踏んで進む。規則正しい足音がだんだんとゆっくりになり、止まった。
ザァ────
聞こえるのは夜風に揺れる草音と、月夜の下で咲き誇る桜の花音だけ。
桜都は頭を空っぽにして、ただ美しい桜を見つめ続ける。光に透けて白く輝く花びらが、そよ風が吹くたびに一枚、また一枚と舞った。
「栗色の、柔らかい髪……」
桜都の目が遠い場所を見るように、わずかに細められた。
一粒の涙が、すうっと頬を伝って地面へ流れ落ちる。
「ずっと、ずっと待ってたんだ……どうか、一緒に........」
小さな心の叫びは、風に乗って誰の耳にも届くことなく、高い高い夜空の彼方へと飛散していった。
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