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第10話 熱
気づけば、ここでの生活にすっかり馴染んでしまっていた。
優秀な主君、有能な同僚。
それらが日常と化し、本来の任務を忘れそうになるほど穏やかな時間が流れていく。たとえそれが束の間であったとしても、この生活を悪くないと思い始めている自分を、もう否定できなかった。
だが忘れてはいけない。
所詮、桜都は暗殺するまでの仮初の主に過ぎない。相手に自分を信頼させ、隙を見せるように仕向け、懐に入り込む。それが与えられた役目だ。
菊正は勝日部から言い聞かせられた言葉を、一日として忘れたことはなかった。
「殿、お召し替えの準備ができました」
返事はなかった。
小袖に手を伸ばそうとした瞬間、桜都がするりと体を引いた。指先が虚しく空気を掠める。
「一人でやる。外に出ていろ」
「……かしこまりました」
相変わらず誰かに触れられるのは嫌なようだった。
「はぁ……」
廊下に出ると、外で待機していた他の家臣が「気にするな。殿は誰にでもああなんだ」と耳打ちしてきた。拒否されたことに落胆していたわけじゃないが、否定するのも面倒くさかったので何も言わなかった。
桜都が人を避けるのは、今に始まったことではない。常に人と一定の距離を保ち、他人が踏み込んでくるのを拒否している。
それでいて、その静けさがより一層人間離れした美貌を際立たせるのだから厄介だった。高嶺にただ一輪咲いた花に、目を奪われるなという方が無理だ。
触れてはいけない。
全身がそう警告するほどの孤高。
その静けさは、いつ何時も変わることはない。
────そう、信じ込んでいた。
城内がすっかり寝静まった頃。
微かな声によって、菊正は目を覚ました。
その声は耳を澄まさないと聞こえないほどに小さくはあったが、はっきりと耳に届いてきた。
誰かが苦しんでいるような声だった。
隣の家臣は帰省中で部屋を空けているはずだし、とするならば、廊下を挟んだ向かいの部屋から聞こえてくるものであった。
(あの桜都殿が、泣いている……?)
そう思ったが、頭の中で思い描く彼の姿と、聞こえてくる弱々しい声の主が、一緒だとは到底思えなかった。しかし耳を澄ませば澄ますほど、その声は紛れもなく向かいから聞こえてくるものだった。
碧瑠城にいた頃は、毎朝勝日部を起こすために寝床に控えていたが、美桜国に来て以来一度も彼の寝床に入ったことはなかった。桜都が誰かが入ってくることを、固く禁じているからだ。
(入るなと言われているし、それにこの声は殿じゃないかもしれない)
菊正はそう言い聞かせ、再び目をつぶって意識を手放した。
次の日。声がした。その次の日も。
またその次の日には、苦しむ声に加えすすり泣く声まで混じっていた。
一度意識してしまえば、その声は日に日に大きくなっていった。
(ああああ、もう我慢できない! 今夜また声がしてきたら、絶対に行ってやる)
菊正は布団にくるまったまま、ただじっと耳に意識を集中させた。そして意識が夢の淵に落ちかけたとき、
「く……っ、ひ……っく」
再びあの声が耳に届いた。
迷わず体を起こし、そっと部屋を抜け出す。
物音を立てないよう廊下を慎重に渡り、襖に手をかけた。
そこはほとんど何もない大きな空間だった。
城の主の寝床にしては異様なほどに殺風景で、部屋の中央に布団が一枚、孤立するようにぽつんと敷かれていた。
すり足で移動する。
灯りのない部屋でもその顔が見えた。
眉間には皺が寄り、額にびっしりと汗をかいている。薄く開いた唇からは、掠れた声が漏れていた。
「父、上……私は……」
桜都が震える手を宙に伸ばした。
袖がめくれ上がり、月明かりに白くて細い腕が浮かび上がる。その手は何かを求めるように、何もない空中を彷徨う。
(あの完璧な桜都が、こんなにも苦しんでいる……)
菊正は無意識のうちに手を掴んでいた。
桜都の汗ばんだ手のひらが、菊正の手をしっとりと濡らした。それを不快だとは微塵も思わなかった。むしろ、初めて触れた彼の温もりに、胸の奥底が熱を持った。
菊正は懐から手拭いを取り出すと、そっと桜都の額に押し当てた。割れ物に触れるように、傷つけてしまわないように。そうするとわずかに眉の力が抜け、桜都の表情が幾分か和らいだ。
ほっと息を吐く。
ずっと彼のことを何事も完璧にこなせる、人とは異なる何かだと思い込んでいた。感情を持たないような静けさと、人間離れした美貌をまとった姿は、まさに天から遣わされたように神々しい。
だが、それは大きな間違いだった。
彼もまた一人の青年だ。黒い波に呑まれた夢を見て、誰にも言えない痛みを抱える、ただの人間。
この人を守りたい────
その言葉が脳内に響いた瞬間。
菊正はその声を押しやるように、頭を左右に振った。
(僕は勝日部殿の家臣だ。この人を暗殺するために、この城に来た )
そう頭ではわかっている。
わかっているのに、脳裏に浮かぶのは桜都の澄んだ黒い瞳だった。
────ようこそ、美桜へ。
────この城がお主たちの支えになると、私は誓う。
────私と対戦してもらおうか。
────あ、ありがとう……
陶器のように傷ひとつない滑らかな手。
その手からほのかに感じる熱は、心の奥底に凍っていた名もない感情を、徐々に溶かしていく。
菊正はそっと手の甲に口づけをした。
(この瞬間だけは、この儚くて美しい人を守ってあげたい)
*
その夜を境に、声が聞こえてくるときは桜都の寝床へ向かうようになった。髪を撫で、手を握り、ただそっと隣に寄り添う。それだけだった。
昼間の桜都は相変わらず一切の隙も見せない完璧な主君で、夜中の姿など菊正以外には想像もできないほどだった。
しかし、日を追うごとに秘密の訪問は少しずつ減っていった。悪夢にうなされることなく眠れているのだと思うと嬉しい。その一方で、桜都のそばに行けなくなっていくことが、酷く悲しかった。
矛盾した感情に戸惑う日々が続いた末、その日は五日ぶりに声が耳に届いた。部屋に入ると、すでに泣き止んだ後なのか、涙の跡だけが頬に残っていた。
菊正はいつものように桜都の隣で正座をし、布団から出ている手をそっと握った。
「菊、正……?」
「……!」
反射的に手を離した。
寝ている間に名前を呼ばれることなど初めてだった。
桜都がうっすらと瞳を開いていた。
この秘密の訪問は一方的なものであったからこそ成立していた。気づかれてしまえば終わりだ。
「と、殿……! こ、これは、その……」
しどろもどろになった次の瞬間、桜都の腕が伸びてきた。気づいたときには彼の腕の中だった。
ふわりと香る、桜都の匂い。
首に回された腕は熱を帯びたように温かった。
(いや、僕が熱いのか……?)
菊正はその場に固まったまま、体を動かすことが出来ない。
(あれほど入るなと言われていたのに……きっと、ものすごく怒る。でも、あれ? なぜ今この人は僕のことをこんなに強く引き寄せている?)
「ずっと……待っていた」
声の輪郭が昼間とはまるで違った。
柔らかく、脆い。
(寝ぼけているのか? それとも誰かと間違えてる?)
それでも触れ合う肌を通して感じる熱は、本物だった。
「どうか……ずっと傍にいて」
耳にかかる吐息が熱かった。
それは菊正の抑え込んでいたものを一瞬にして溶かし、感情を丸裸にする。
背中を抱き返す手に、迷いはなかった。
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