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第11話 触れる

サラサラと擦れる紙の音が、部屋の中に響く。 「殿、こちらはいかがいたしますか」 焼け野原になった町の建設に向け、ようやく概算予算が決まった。その細かな内訳を記した書類を、菊正は桜都へと差し出した。 「こちらに渡せ」 その手が伸びてきた瞬間。 「……っ」 指先に温かさが触れた。 たった一瞬触れ合っただけ。それなのに、否応なくあの夜の熱が思い起こされ、菊正の全身は凍り付いたように動けなくなった。支えを失った書類が、ひらひらと地面に落ちていく。 我に返り、菊正は慌てて膝をついた。 「あっ、申し訳ありません! すぐに拾います」 散らばった紙を集める間も、なぜか触れ合った場所だけが熱い。ちらりと視線を上げると、桜都が訝しげにこちらを見ていた。反射的に顔をそむけてしまい、しまったと思ったときには遅かった。 「なんだ。何か話したいことでもあるのか」 桜都の声が耳に届き、ゆっくりと向き直った。 相変わらず氷のように涼しい顔がこちらを見ていた。しかし菊正は知ってしまった。その奥に永久凍土を溶かしてしまうほどの熱さを持っていることに。 その熱の記憶が、菊正の奥底に閉じ込められていた何かを少しずつ、でも確かに侵食してくる。 「……なんでもありません」 声は明らかに動揺と躊躇を含んでいた。 それに桜都も気づいたはずだが、それ以上何も尋ねてくることはなかった。ただ書類を受け取り、視線を落とした。その横顔の冷たさが、どういうわけか今日は痛かった。 * 夕餉のあと、いつものように典医が桜都の体調を確認していた。 「そういえば殿、最近夜に薬を頼まなくなりましたね」 「ああ」 桜都は何かを逡巡するように、わずかに目を細めた。 「なぜか悪い夢を見なくなったし、寝つきも以前よりだいぶ良くなった」 「ぶほ……っ、こほっ、こほっ」 菊正は飲んでいた茶を危うく吹き出しそうになった。 「どうした、大丈夫か」 「は、はい。ご心配なく……」 冷や汗が背中を流れる。 「ずっと、誰かが傍で見守ってくれている気がするのだ」 桜都の声は淡々としていた。 だがその響きの中に、ほんのわずかに柔らかさが含まれているような気がした。 「まぁ、そんなことありえないがな。家臣たちには固く部屋には入るなと言いつけてある。薬の調合でも変えたのか?」 「いえ。前と同じでございます」 「そうか」 潮時だと菊正は思った。 彼が悪夢にうなされることはなくなったのだから、自分が隣にいる理由はもうない。 そもそも、桜都はあのとき寝ぼけていたから、ばれずに済んだのだ。次はそうとも限らないし、もし正気の目で見つかれば、この城を追われることになりかねない。 本来の目的を、見失ってはいけない。 しかし覚悟を決めた数刻後、必死の決意は早々に砕け散った。 「ん……っ、やだ……っ」 城内が寝静まった真夜中、廊下の向こうから聞こえてきたあの声。相変わらずその声はとても小さく、耳をそばだてなければ聞こえないような微かな声だった。 菊正は布団の中で目を開けたまま、じっと息をひそめた。 聞こえないふりをしようとした。だが、一度聞こえてしまったら、意識せずにはいられない。聞こえないと思い込もうとすればするほど、その声は頭の中でこだまして、消えなくなっていった。 一度だけ、最後の一度だけ。 そう自分に言い訳を重ねながら、気づけば布団から出ていた。 襖を開け、そっと近づいていく。 部屋の中は薄暗く、月明かりがわずかに差し込んでいるだけだった。 だが、いつもと何かが違う。 部屋の中央に横たわる人物が、胸を上下に揺らしていた。はぁ、はぁ、という乱れた呼吸が静かな空間を揺らす。 菊正はじっと目を凝らした。 次の瞬間、全身の血が一気に逆流するような感覚を覚えた。 はだけた小袖がかろうじて体を覆っているだけで、細い体の輪郭がくっきりと浮かび上がっている。苦しげに目をつぶり、形の良い唇からは甘い吐息が漏れている。そして右手は下帯の内側へと伸びており、規則正しい速度で動いていた。 「うわ……っ!」 菊正は足がもつれ、思わず尻もちをついた。 まさか、そんな。 いつも高潔で高嶺の花のような人物が、こんなことをしているなど、想像もしていなかった。 「え……?」 桜都がうっすらと目を開け、菊正を捉えた。 最初は何が起こっているのかわからないようだった。ただ茫然と菊正の姿を眺めている。その状況を理解するにつれ、表情がだんだんと移り変わっていく。 当惑の混じった羞恥の顔から、燃えたぎるような憤怒へ。 そして、聞いたこともない焦りと憤りを含んだ声が、静けさを切り裂いた。 「な……なぜここにいる……! 入るなとあれほど言ったはずだ……!!」 「も、申し訳ありません! うめき声が聞こえてきたので、様子を見に……」 桜都は唇をわなわなと震わせていた。何かを言おうとして、口を開けては閉じてを繰り返す。しかし出てくる言葉がなかったのか、口を静かに閉じた。 「……汚らわしい声を聞かせてしまったことについては謝る。だが、無断でこの部屋に立ち入ったこととは話が別だ。今夜のところはとりあえず出ていけ。この件については、また改めて話をする」 そう言うなり、乱れた服を整え始めた。 平常心を保ったような動きだったが、その指先が微かに震えているのを菊正は見逃さなかった。 「まだ途中じゃ……」 「いい。どうせ果てることなどできない。こんな汚らわしい行為など、反吐が出る」 最後の言葉が震えていた。 菊正への苛立ちも含まれているのだろう。しかし、その奥にある苦悶の色を隠すことは出来ていなかった。 (この人は、何を抱えている?) 触れたい。確かめたい。 誰も知らない彼を見てみたい。 好奇心に似た衝動は、考えるより先に言葉となった。 「放っておけない……あなたの家臣として、守らせてください」 そして菊正は一歩踏み出し、桜都へ手を伸ばした。 「阿呆! 触るな……っ!」 桜都はその手から逃れようと身を引くが、それは抵抗しているというよりも、必死に自分を保とうとしているように見えた。 菊正は後ろへ回り込むと、後ろから両腕でそっと抱きしめた。桜都の身長が低いわけではないのに、菊正の腕の中に包み込まれると、まるで最初からそこにあるべきだったようにぴったりと収まった。 「離せ……!」 「殿ははなぜ人の手を拒むんですか。人の肌って、触れ合うととても気持ちいいんですよ」 「んぁ……っ、やめ……」 下帯に隠れているものに触れた瞬間、桜都の体がビクンと跳ねた。甘い声が耳の奥に直接響き、脳を痺れさせる。 「この、愚か者め……っ!」 桜都は腕の中から逃れようと必死に体をよじらせるが、体格差に分がある菊正からは逃れることができない。最初こそ抵抗していたが、そのことに気づくと桜都はおとなしくなった。与えられる快感に呑み込まれないよう、ただ必死に声を抑えている。 両手で口を押さえ、瞳をぎゅっと閉じる。聞こえてくるのは、菊正の手が刻むいやらしい音だけだった。視覚が閉ざされた分、聴覚が敏感になり、それがかえって桜都の感度を高めていた。 菊正はこれまでに経験したことのない、感覚が満たされていくのを感じていた。生まれてこのかた、自身の体は常に誰かのために使われてきた。それは菊正が望んでいたことではなく、半分使命のように受け入れてきた。 しかし今、あの桜都が腕の中にいる。 高潔で誰にも穢されることのない孤高の人が、今この瞬間、自分の意志によって乱れていく。 罪悪感がないと言えば嘘になる。 だがそれを考える余裕すら彼には残っていなかった。頭の中を支配しているのは、ただ一つ。 この人を気持ちよくさせたい、という切実な欲求。それだけだった。 菊正の手の中のものが、さらに熱を帯び始める。 「果てたいですか?」 「い……やだ……っ、やめろ、汚い……っ」 「……殿は綺麗です。誰よりも、何よりも」 手の動きを速めると、桜都の身体がさらに痙攣した。菊正は腕を伸ばし、桜都の口を塞いでいる両手をどかした。快感によって力が抜けているのか、抵抗はあってもいとも簡単にどかすことができた。 「ん……っ、あ、や、だぁ……っ!」 「もっと、声を聞きたいです」 「阿呆、たわけもの……っ、あぁ……っ、色狂いが……っ!」 口から溢れる罵倒とは正反対に、身体はずいぶんと素直だった。果てるのが待ちきれない、というように先端が湿っており、気持ちよくなっているのは一目瞭然だった。 そして。 「んん……あぁ……っ!!」 身体を折り畳むように震えると、白濁液を吐き出した。快楽の波が何度も押し寄せているのか、腕の中で小刻みに震えたまましばらく動けずにいる。 「ごめんなさい、ごめんなさい……」 うわ言のように繰り返す桜都の声は、ひどく小さかった。 謝罪の相手が誰なのか、わからなかった。 菊正はただその華奢な体を強く抱きしめた。 桜都がなぜ極端に人に触れられたくないのか、その理由を今まで尋ねたことはなかった。 桜都は何を抱えているのか。 知らぬふりを続けるのは限界だった。 桜都は相変わらず体を小刻みに震わせたまま体を丸めている。その動きがいつもと違うように見えて、思わず顔を覗き込んだ。 「泣、いてる……?」 顔が影になっていてよく見えなかったが、それでも水滴が頬を流れ、きめ細かい肌に落ちていくのが見えた。 「頼むから、やめてくれ……触れないでくれ……果てたくなんて、なかったのに……」 いつもは光を通さない瞳が、今は涙によってぼんやりと輝いている。その姿を不覚にも美しいと思ってしまった。 「なんで、そんなにも苦しそうにしてるんですか」 静かに涙を流す美しい人を、あやすように抱きしめる。いつもなら指一本ですら触れるのを嫌がる彼が、今はされるがままになっていた。その姿が、どうしようもなく愛おしく思えた。 桜都はしばらく黙っていた。 部屋は暗く、夜はまだ深い。やがて掠れた声が、ぽつりと落ちた。 「昔……子供のころ、父上の客人の席にいつも同伴させられた」 その理由は、言われなくともなんとなく想像ができた。子供のころから整った顔立ちだったであろう桜都は、きっと自慢の息子であり、見せびらかさずにはいられなかったのだろう。 「視線が、気味悪かった……逃げることも、できなかった」 淡々と抑揚のない声。 まるで他人事のように語られる過去に、菊正は一言もしゃべらず、相槌を打たず、ただそっと傍に寄り添ったまま待つ。 「果てなければ汚らわしくなる、と言われたこともある。だから、私は……ずっと自分が汚いと思っている」 「それは違います」 菊正は桜都の言葉にかぶせるようにして、はっきりと言った。 「殿、あなたは綺麗だ。僕が見たものの中で、一番の綺麗なものです」 「……っ」 桜都は息を詰まらせた。 一度だけ不意を突かれたように目を瞬かせた。それから──── 「ふふ……っ」 笑った。 暗闇の中で、そこだけ色がついたようだった。 一輪の花が自分のためだけに咲き誇る。中庭で見た桜の何倍も美しい笑みだった。 「阿呆」 何度も聞いた言葉。 同じ言葉であるはずなのに、全く違った。 柔らかく微笑みながら言われたそのひと言が、菊正の頭の中でいつまでも鳴り続けた。

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