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第5話 第一章(4)

 ジャグジーを出た後、黒龍はジャージに着替えてリビングへ向かった。アイランドキッチンに置かれているステンレスの鍋の中を覗く。ガスコンロをつけた。  お腹が鳴り、自分がやっと生きて戻ってきたことを実感する。カレーが温まると。カウンターでそれを食べ始めた。黒龍はナンよりご飯を好む。今回も両方用意されていたが、白米を大盛よそい、たっぷりカレーをかけて食べ始める。そうするうちにウルフも自分の分を用意し横に腰かけて来た。ウルフはナンとカレーの組み合わせだ。 「次のミッション。実は俺もメンバーでさ。今回一緒に仕事できてうれしいよ」  なるほど。だからウルフがここにいるのかと納得した。  黒龍が頷いただけで何も言わないでいると「隊長の報告を聞いた後で詳しいことは話すよ」と、ウルフは言った。  ウルフが任務に就いて指示がある前に直接何か言ってくることは今までなかった。それゆえ、無意識のうちにまじまじとウルフの顔を観察するように見つめてしまう。  それに気づいたウルフがにやけた表情で黒龍と目を合わせたが何か言い出す気配はない。 「珍しいな」  そう言った時、リビングのドアが開いた。入ってきたのは隊長のレンだ。178センチ、筋骨隆々の逞しい体躯。軍人と一目でわかるGIカットの短髪。鋭利な刃物を連想させる切れ長の双眸。薄い唇は常に引き締められ、しっかりした顎のラインを強調している。 「黒龍、食事が終わったら話をしよう」  太く低い声が鼓膜を振動する。 「はい、隊長」  レンは日本人だがここではラテン語しか話さない。黒龍はロシア人の父、日本人の母を持つ。母国語並みに話せる言語は、日本語、ロシア語、フランス語、ラテン語、イタリア、スペイン、中国語だ。黒龍が所属する組織トゥルー・ブルーは、5ヵ国語以上の言語を母国語並みに使えることが必須とされていた。  6人全員、日本語、英語、フランス語、ラテン語が出来る。日本でラテン語を理解できるものは少ない。それゆえラテン語が社内の常用語となっていた。  夕食を終えた黒龍はソファに座っているレンの前に腰かけた。 レンが顔を上げる。 「今回の任務は護衛だ」  一瞬思考が止まった。というのも、黒龍はスナイパーでヒットマンだ。護衛の仕事をしたことはなかった。  レンがクリアファイルを静かにテーブルの上に置いた。それを取りざっと中身を見る。世羅仁人(せらきみひと)、日本最大広域指定暴力団東陣(とうじん)会直系、桐生(きりゅう)組のフロント企業、ハイブリッド・コーポレーションの社長を務める。 「世羅の護衛、それが優先だ。東陣会、嘉納(かのう)組長は85歳の老齢ですい臓がんだ。時期組長有力候補は若頭補佐の桐生だと噂されている。若頭の松尾(まつお)を差し置いて桐生が一目置かれている状況に納得いかない松尾がどうやら陰で動き出しているらしい。桐生組は世羅の手腕のお蔭で一番の稼ぎ頭だ。桐生に手が出せない代わりに世羅を潰そうという魂胆だろう。とにかく、世羅を死なせるわけにはいかない。護り抜け」  黒龍はレンの言葉を静かに聞いていた。そもそも任務に異論を訴えることは許されない。課せられた任務を追行すること。それが黒龍の仕事だ。 「それと、ブラトーバも世羅の命を狙っている」 「ロシアマフィア?」  ぼそりと独り言のような低い声が漏れていたことに気づき我に返る。思わずレンと視線を合わせてしまった。 「ああ、そうだ。世羅の会社はロシアの銃をさばいている。何があったのかわからないが、今回からうちをディーラーに指名してきた。そしてお前を護衛に回してほしいとのご使命だ。つまり、ディーラー兼護衛として世羅に接触することになる。明日0800にここだ」  指定場所はスマートフォン画面に表示されている。黒龍はそれを確認すると頷いた。場所と時間は頭に入った。指名されたことに驚きは隠せないが追及することは控えておく。 「後のことはアルジュンから指示がある」 「了解」 「ウルフが潜入捜査を1ヶ月前から行っている。白蛇は明日から常に待機する予定だ。当分の間。この三人で動く。世羅の近辺についても念のため探っている。黒龍も常に報告を怠るな。世羅についての詳細はウルフに聞け」 「了解」  レンは頷くとソファから立ち上がった。不意に黒龍に視線を向ける。 「黒龍、世羅は厄介な男だ。日本だけでなく外国のマフィアとも繋がりがある。この男が死ねば、マフィアと日本のヤクザの闘争は避けられない。絶対に死なせるわけにはいかない。頼むぞ」  訳が分からないまま、重圧感が押し寄せてくる。悪い意味ではなく黒龍のアドレナリンを刺激し、意欲を掻き立てるものだった。

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