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第9話 第二章(3)

 その夜は結局馴染のゲイバーへ足を運んだ。カウンターに座りウーロン茶をオーダーする。顔なじみのバーテンダーは心得たようにウィスキーグラスに氷を入れウーロン茶を半分ほど入れると黒龍の前に置いた。 「ありがとう。まるでウィスキーみたいだ」  はにかんだように笑うとバーテンダーも微笑み返した。  さて、ここで獲物は見つかるだろうか? ちらりと腕時計に目を向ける。10分、いや20分後には誰か声をかけてくるだろう。そんな風に予想する。  横の席に誰かが腰かけたことを察したのは15分後だった。 「バーボン、ダブルでロック」  オーダーする男の声に条件反射のように相手に視線を向けてしまい、舌打ちしたいのを即座に呑み込んだ。  相手は黒龍の方には振り向かず正面を見据えているが、視線を感じているに違いなかった。 「まいったな。なんであんたがここにいる?」  黒龍は観念し男に声をかけた。それはとても歓迎ししているような声色ではなく、とげとげしいものだった。  男はまだ視線を向けてはこない。置かれたバーボンのグラスをそっと口に運び舌で転がしているようだ。 「少し、二人だけで話がしたくてね。あ、心配しなくても私が君の相手をしようと言うんじゃない」  男の横顔を凝視している黒龍に不意打ちに顔を向け視線を合わせてくる。目尻に皺をよせ親近感を振りまくような微笑みだった。 「何が目的だ」  黒龍の声はいまだとげとげしく警戒心を露わにしたままだ。 「私が、君側だと言うことを知っておいてほしいだけだ。だが、世羅を裏切ることは許されない。世羅を護ってくれるんだろう?」  黒龍は嫌味にもとれる含み笑いで男の顔をわざと覗き込んだ。 「あんたと世羅社長は、できてんのか?」 「いいえ」  即答だった。 「でも惚れてる?」 「それはもう。リーダーとして、惚れ抜いてますよ」  これも迷いない即答だ。  黒龍は正面を向くとため息を漏らした。 「世羅を殺すな。それが自分の任務である限り、全力を尽くす。志野さん、あんたが夜も寝れなくなるほど心配するようなことがあるなら前もって言っておいてもらいたいね」  志野は正面を見据えていた視線を黒龍に向けた。今黒龍はサングラスを外している。スチールブルーと呼ばれる深いブルーの瞳を真っ直ぐに見据えてくる志野の視線に背筋に冷たい戦慄が走った。それは本能が察知した危機だが、どんな危機なのかわからない。  数秒か、それとも数分か、志野は黒龍の瞳に魅入っている様子で視線をそらさずじっとしていた。 「KGB長官にそっくりだ――な」  ぼそりとそう言った。黒龍の喉がカラカラに乾き、震えが走った。今すぐこの男を殺らなくてはならない。そんな危機感が押し寄せてくる。志野を睨みつけながら黒龍は自分の鼓動が正常に戻るのを待った。そして。余裕に見えるように計算しながらほほ笑んだ。 「あんた、ただものじゃないな。どこの一般人が、いや、ヤクザは一般人じゃないが、そもそもどこのヤクザがKGB長官の顔を知ってるって言うんだ?」  志野はさもおかしそうに笑い出す。黒龍の脳内で警鐘が鳴り響く。 「あはははは、まぁそう言うな。日本のヤクザは、ロシアマフィアに牛耳られつつある。ロシアマフィアの背後にいるのはヴォルコフKGB長官だ。誰もが知っているわけではないが、嘉納組長、世羅、私は知っている。しかし、ヴォルコフの顔まで知っているかは……どうかな。話は逸れたが、嘉納組長はヴォルコフの介入をよしとしていない。世羅は何としてもヴォルコフと対立するつもりだ。これから血なまぐさい争いが始まる。世羅を守り抜いて欲しい。ただそれを面と向かって言いたかっただけだ」  そのとおり、言いたいことを言った志野はバーボンを飲み干すと席を立った。 「遊びはほどほどにな」  そんな余計なことを言って、男は立ち去る。黒龍はその後姿をあえて振り返りはしなかった。混乱がまだ考えることを阻止しているように、何一つまともに動かない。  志野千寿(ちとせ)、あの男は一体何なんだ? あの達観したような全てを見透かした目つきや態度が癇に障る。敢えてロシアマフィア、ブラトーバの名を出さなかったのか?  黒龍はすっかり毒気を抜かれ性欲も萎えてしまった。味気ないウーロン茶を飲み干すと、本部に一目散に帰り、冷蔵庫のビールをすべて飲み干して酔っぱらってしまいたい気分になった。

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