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第29話 第五章(8)
毎日のルーティンを終え、世羅が社長室から出てきたのは19時を過ぎたあたりだった。今日は昼食も外に行かず、的場が弁当を買いに行っていた。社員全員が机の上で昼食をとったのだ。テレビのコマーシャルや滅多に観ることはないがドラマなどでそう言うシーンが出てくるのを見たことがあったが、実際に体験したのは初めてだ。
そんな些細なことが新鮮に感じ、すっかり世羅と志野に蚊帳の外にされたことなど忘れてしまった。
マンションへ着くと駐車場からエレベーターに乗る。いつものように無言のまま3人は最上階で降りる。
「今日も純奈さんが来るんですか?」
鍵を開けている世羅の背中に黒龍が問いかけた。
「いや、来ない」
「食事どうしますか? 何でしたら、作りますけど」
今度は志野がそう言った。良い提案だと思ったが、自分も誘われているわけではないとふと気づく。世羅の返事を聞く前に開いたドアから中に入り、部屋の中をまず点検していった。
最後ジムに使っている部屋からベランダを点検し、キッチンへ続くドアが閉まっていることを確認し引き返した。バスルームを抜けるとクローゼットと寝室になる。世羅は寝室のベッドルームのベンチに座り、ジャケットを脱いだYシャツの状態で、ネクタイを外していた。
「問題なしです」
「だろうな。いちいち点検しなくても問題ないのはお前も分かってるだろう」
なかなか嫌味なイラついた口調だ。今までは何とも思わなかったが、世羅の事情を知ってしまうと神経を逆なでされる。
「注意するに越したことはないので」
「昨日、純奈がお前の部屋に寄っただろう」
無表情を装ったつもりだったが少し頬が引くついたのを自覚した。
「はい」
用心して肯定するだけにとどめておく。
「何を聞いた?」
世羅の表情を観察し、何を探ろうとしているのかを読み取ろうとしたが、怒っているわけでも、何か企んでいる様子でもなさそうだ。声も落ち着いていて先ほどの苛立ちは影を失くしていた。
「あなたがヴォルコフを憎んでいると。で、俺はヴォルコフにそっくりだと。まぁそんな話です。今度はこっちも質問させてもらいます」
世羅が斜めに顔を上げ黒滝を見上げる形で目を合わせてくる。口角を上げて嫌そうな表情をする。その表情に黒龍は欲情させられていた。背筋に甘い戦慄が駆け抜ける。ごくりと唾を呑み込んだ。
「任務を受ける時、相手からの指名だと言われました。どうして俺を指名したんですか?」
世羅が立ち上がり、黒龍の目の前に詰め寄る。一瞬のことで黒龍ですら意表を突かれた。息がかかるほど接近されている。
耳を覆う様に両手で固定される。視線が強く絡み目が離せない。心臓の音だけがうるさいほど鼓膜に響いている。
「お前を指名した理由か? それは純奈がそうしろと言ったからだ。ヴォルコフにそっくりな息子をボディガードとして雇えばヴォルコフは俺に手を出せなくなるってな」
――純奈。またかよ。
その思考は即座に消え去った。世羅が顔を近づけお互いの鼻先をくっつけたからだ。
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