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第56話 第八章(5)

 黒龍が顔を上げリンを見た。 「テティス? 海の女神のテティス?」  リンが瞠目し、黒龍を見た。 「ああ、そうだよ。初めてだよ。テティスの名の由来を一発で当てた人」  リンは満面の笑顔を黒龍に向けた。警戒心は消え失せている。やはりネコみたいだと黒龍は思った。 「うちには3匹猫がいるんだ。テティスはとても人懐っこい。すぐにこうやって誰がやってきたのか確かめずにはいられないんだ」  しゃがんで猫に指の匂いをかがせてやりながら、なるほど、だから猫の餌がどうとか言っていたのか。と、盗聴した電話で聞いたことを思い出した。 「俺はここの3階に住んでるんだ。同じメゾネットタイプ。なんかあったら遠慮なく知らせてくれ」  リンに携帯の番号を教える。個人の番号を教えた。 「わかった、ありがとう」  笑顔でリンは言ったが、自身の番号は教えるつもりはない様子だった。特にそれは気にしないでおく。  リンの部屋を後にすると、世羅は階段を使い上り始めた。部屋に送り届けるために黒龍もその後に続く。 「リンは桐生の愛人なのか?」  階段を登りながら世羅に問う。 「恋人だ」  すぐに返事が帰ってきた。 「それだけ? どうしてこのマンションに住んでるんだ?」  わかっていることだけれど聞いてみる。 「リンは……俺の仕事も手伝っているからだ。それを知っているのは志野だけだ」 「なるほど、了解」  世羅が真実を黒龍に告げたことにほっとする。試すような真似をする自分自身に嫌気がさす思いだったが、嫌な思いをしてでも、試してみたいと思った。  自分が世羅にとってどこまで信用されているのかを確認したかったのだ。  世羅の部屋に入るといつものように各部屋を点検した。  リビングのソファに座る世羅の横に立った黒龍は注意深く男の顔を観察する。疲れている様子だ。 「松尾の仕業だと思う?」  単刀直入に聞いた。 「ああ、ほぼ間違いなく。それ以外考えられない」 「どうする」 「今は放っておく。桐生が入院しているところを襲う奴がいれば捕まえる。しかし、そこまで馬鹿じゃないだろう。桐生が組長に就任すれば、後は桐生に任せる。松尾をどうするかは俺の仕事じゃない」 「わかった。じゃあ、俺は行くよ」  そう言って一歩踏み出した時、腕を掴まれた。 「ここにいろ」  世羅の言葉に従順に体が反応した。ぴたりと止まり、動けなくなる。 「疲れてるだろう?」  世羅が喉で笑ったのを聞き、背筋に甘い震えが走る。 「疲れているときこそ必要だ……。お前と、龍一と離れていたくない」  名を呼ばれたことで、全身が、いや、黒龍の細胞全てが歓喜で活性化し、体温が上がった。自分が父親の身代わりだと知りながら世羅を求めることを止められない。  世羅に腕を引っ張られ、抱き寄せられる。世羅の上にまたがるように膝の上に乗り、唇を重ねた。貪るように熱く激しく挑発する。  堪らなく世羅が欲しい。  今、世羅が求めている男が誰なのかを黒龍のすべてでわからせてやりたい。

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