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第60話 第八章(9)
マロフの髪は白いものが混じっており、時間の経過を否応なく感じさせられた。それ以外は昔の面影そのままだ。
「あんた変わんないね」
軽口をたたく黒龍に、彼はただ丁寧に「恐れ入ります」と言った。
寝室に入ったようだ。ベッドに横たわるヴォルコフが映し出された。マロフの声が聞こえてくる。
名を呼びアルカディと連絡が取れたと言っている。
まるで死んだようにヴォルコフは身動きしない。
本当にこの男の魂の火は消えかけているのだ。その時にこみ上げて来た感情は説明つかないもので、胸のあたりが圧迫され、痛く苦しくなる。自分の気持ちが不安定なことだけは認識した。目の前の光景を見る限り、ヴォルコフはずっと寝たきりだったに違いない。
「いったいいつからこの状態なんだ?」
「1か月前からです。ほとんど寝たきりですので。昏睡状態になるのも実は今が初めてではないんです。本当に申し訳ございません。アルカディ様。お父上は……危篤状態になったとしても、あなたには知らせるなと――」
一瞬にして思考が硬直した。
背筋に冷たい汗が流れ落ちる。
「この前、電話を掛けてきたのに……」
「その日によって、体調にも波があります。あの日は比較的元気でした。アルカディ様と話したいと仰ったので……。あの方はあなたの前ではいつもああやって脅すようなことを仰いますが……本心はあなたを本当に愛してらっしゃいます。戻ってきてほしいから、あんな言葉が出たんです」
にわかには信じられないが、ヴォルコフが自分に一目でも会いたいと思っていたことは理解できた。会いに来させるために、日本市場から手を引くと言ったのだ。しかしこの状態ではいつまでもブラトーバを支配しているには無理がある。
「お父上にもしものことがあれば……。今までのようにはいきません。ブラトーバはヴォルコフ長官の監視から自由になり好き邦題し始めるでしょう。私はアルカディ様に戻ってきて裏社会の統一に力を貸していただきたいのです」
黒龍の思考を呼んだようにマロフはそう告げる。
画面にはいまだ昏睡状態の土色の顔色をした老人が横たわっている。鼻に管を通され、呼吸も自分ではできないようだ。
この状態で純奈に指示などできるはずはない。
「俺にそんなことが出来るわけがない。あんただってわかってるんだろう。日本はブラトーバを阻止する。それに手を貸すことはできてもロシアの為に働く気は俺にはないね」
沈黙の間、機械に繋がれた肺の呼吸音が大きく響いていた。画面に映るヴォルコフの姿。この男がかつて若く健康で権力のあった全盛期のころと黒龍はそっくりだと言われ続けてきた。父親が年を取らない、不死身だとは思っていない。だが、こんな風な姿は想像さえできなかった。重苦しい感情が黒龍の胸を締め付ける。
今この一瞬、父の最期を看取りたいと言う気持ちが芽生えていく。
「半年、そう聞いていた。本当はどうなんだ」
黒龍の声が微かに震えた。
「今日持つかどうか、もし持ちこたえても……あと1週間さえ持つかどうかはわかりません。ヴォルコフ長官がこれほど悪いと知っている者はいません。入院せず自宅で療養しているので……。アルカディ様が戻られても手遅れと言うこともあり得ます。ですが、お父上に会いに来ていただきたい。それが私の願いです」
24時間以内。
不意に純奈の言葉を思い出した。純奈はこの状態を知っていたのだろうか? 多分そうだ。
ということは……。
「24時間以内に決断する」
そう言うと黒龍は通信を切った。
まず、純奈と話をしなくてはいけない。
ヴォルコフに会う気か? 自分に問う。純奈はヴォルコフの最期を看取りたいと願っているはずだ。そのことに関しては揺るがない確信があった。
もう一度自分の胸に問う。
会いたいだろうか?
答えは――。
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