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第63話 第九章(3)

「信頼できる情報なんだろうな」 「ああ、この目で見た。ビデオ電話で」  仁は頷いた。 「それでも俺はお前をあいつの所には行かせたくない。行くな。龍一。罠にはまるようなものだ」 「俺は、トゥルー・ブルーを離れない。そしてあんたの元に必ず戻る。必ず。それが俺の選んだ人生だからだ。父の元に戻るのはただこの目で父の死を確かめたいだけだ。そして永遠に葬り去りたい。ヴォルコフを。俺は黒木龍一として生きたいんだ」  心を打たれないわけではなかった。龍一の言葉が胸に突き刺さり、酷く傷む。その痛みが何なのか気づかないふりをしていたい。しかし、仁はその痛みが何なのかわかっていた。  ヴォルコフの最期を看取りたいのは自分も同じだ。どんな表情であの男が死ぬのか目に焼き付けておきたい。  10年。10年の間追いかけ続けた。  利用されることを選び、そして利用した。言葉では表せられないほどの強い感情をヴォルコフに抱いている。本当にあの男の命の灯が消えかかっているなど、とても信じられない。  いや、信じたくないのかもしれない。  もう一度、龍一の顔を見る。隅々までしっかりと。そして両手でその頬を包むように優しく触れた。  龍一が瞠目したように目を見開く。 「何があっても帰ってきてくれ。お前には蓮がいる。何かあれば救い出してくれるだろう。帰ってくるのを待ってる」  言えたことはそれだけだった。  胸に仕舞ったヴォルコフへの感情は、仁にとっても複雑なものだった。  龍一が渡露し三日後、アルカディエヴィチ・ヴォルコフKGB長官死去の速報が流れた。  世界中がヴォルコフの功績をたたえ、死に涙している画像がテレビのニュースから流れ続けているのを仁は静かに見つめていた。この男が素晴らしいキャリアの裏で何をしていたかを暴露する者はいない。  リュウイチ・アルカディ・ヴォルコフは父親に瓜二つの容姿からすぐにメディアの的となり、話題の中心のようだ。KGBからフランス外人部隊の功績の数々が報じられ、その美しい容姿が人目を引き時の人となっている。  こうなることは予想していた。だから言ったのだ。戻ってくることが困難になると。  龍一は当分戻るに戻れない状態を強いられるだろう。  その時、スマホのメッセージ音が鳴った。取り出し画面を見ると、4ケタのコードのみが書かれてあった。  それを目にした仁の表情が硬くなる。終了の合図。脳内にレクイエムが流れ始めた。  ――あの男のお気に入りの曲が、どうやら身に沁みついているようだ。  ヴォルコフは気が向くとこちらの時間も気にせず仁の携帯に電話をかけて来た。他愛ない話だけの時もあれば、真剣に仕事の話を持ち掛け、脅してくることもあった。  感情が読めず、突然話題を変え、歌を口ずさむこともあった。  人生論を語り始めると必ず最後に口ずさんだのがレクイエムだ。それは見事な声で情緒あふれるレクイエムの「怒りの日」の章を口ずさみ、そして仁にこう言った。 『息を吸うごとに死に向かっている現実から目を背け、、怒りや苦しみに耐え忍びそれでも生きることに執着する。時にご褒美のような至福の時を与えられ一瞬は辛さを忘れるが――深い悲しみや怒りに満ちた苦しみからはなかなか逃れられないものだ』  ――あの男は今逃れられることが出来たのだろうか? 深い悲しみや怒りに満ちた苦しみから……。   死ねば、全てから逃れられる。それだけははっきりしている。世羅仁人を葬り去る時が来た。仁の脳裏には決してレクイエムは流れない。  仁は立ち上がると、何も持たずに部屋を後にした。

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