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第64話 第九章(4)

 5年ぶりに訪れたヴォルコフ廷は全室リノベーションされており、黒龍が使っていた部屋もバロック様式のインテリアからスタイリッシュなイタリアモダンに変わっていた。まるで都心の高級ホテルのようだ。  居間もシンプルなイタリア家具でコーディネイトされ豪華絢爛な部屋の面影は消え去っていた。  座り心地の良いシープ革のソファに座りテレビをつけた。  10歳から18歳まで、この屋敷で過ごした。それは母の死を受け入れると同時に黒龍の人生で最悪の日々だった。自分を支えてくれたのは純奈だけだったことを思い出す。  父だと名乗った男が恐ろしかった。貴族的で男性にしては美しい顔立ち、笑った表情を見たことがなかった。黒龍を見る目は射抜くように鋭く、時折瞳が揺れ、自分と同じ深いブルーの瞳に吸い込まれそうで、目を見るのも怖くなった。  5年前、最後に会った父は若々しく男盛りの魅力にあふれていた。たった5年で、死にゆく者の変わり果てた姿に、黒龍はうろたえた。  父の寝室には機材が運び込まれ、豪奢なベッドの上に父は眠っていた。そこはまだ昔のままだった。そこだけ時間が止まったようにネコ脚のベッドが置かれ、金色に縁どられた豪奢な家具が置かれていた。  医療機器が置かれたバロック様式の部屋は異様で、そこには機器から漏れるまだ息がある証の呼吸音だけが大きく響いていた。  近づいて、顔を覗き込むと、何とも言えない感情が込み上げてきた。怒りでも憎しみでもなかった。何か別のもので心臓をぎゅっと鷲噛まれたような痛みと苦しみが押し寄せて来たのだ。 「パーパ」  酷くか細い声が出た、それにヴォルコフが微かに反応した。その後薄く瞼が開いた。黒龍はヴォルコフの顔を覗き込んだまま目を反らせなかった。  横にいた純奈がベッドの反対側に廻った。 「アル、リュウが来てくれたのよ。リュウがここにいるのよ。アル」  ヴォルコフの顔にそっと優しく手で触れた純奈の瞳から大粒の涙が溢れだす。それはヴォルコフの頬を濡らした。 「アル……カ……ディ」  ヴォルコフの声にならない唇がそう言ったのを龍一は見た。 「愛してる。リュウイチ、許して……くれ」  一粒の涙がヴォルコフの目尻からこめかみに流れシーツを濡らした。  静かに息を引き取ったことを黒龍はその目で看取った。  脳内でレクイエムが流れていた。いつも死を目の前にすると儀式のように流れる「賛美の生贄と祈り」の章ではなく、父が好んで口ずさんでいた「怒りの日」の章だ。  一つの時代が終わった。  そう黒龍は感じた。  その一部始終を時折こうやって思い出してしまう。どうしても脳裏から離れない。力強く恐ろしく強い視線を持つヴォルコフの涙。愛していると言われたことなどなかった。まして、許してくれなどと言う男ではない。そして、初めて、リュウイチと呼んだ。声にはならなかったが、唇がそう言ったのを黒龍ははっきりと見た。

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