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【1部】第5話 楔
買い物の帰りに、近所にあった小さなカフェで軽食を摂った。それ以降しっかりとした食事は摂らずに、夜の十時を過ぎてからグラタンを焼き始めた。この家にはトースターしかなく、仕方なくそれを使った。
トースターから漂う懐かしい匂いに、死んでいた心が少し動いたような気がした。死後痙攣に近いのかもしれないけれど。
その間にオムレツとサラダも予定通りに二人分準備した。
準備するのにあれだけ時間がかかったのに、グラタンは十分程度で焼き上がる。程よい焦げ色は食欲を唆るが、それとは別に、味見をすることに対する謎の恐怖があって出来なかった。結局グラタンの味見はせずに、カウンターで冷ましてからラップをかけた。理一が何時に帰ってくるのか分からなかったから、とりあえず焼いたけれど。二人で食べる前にもう一度温めればいい。
調理器具を片し、ソファの上に寝転がる。食事を作るのって、こんなにも大変だったっけ。
カチカチと秒針の動く音だけを聞いて天井を見つめていると、足音が近づいてくる。次に鍵を開ける音がして、玄関扉が開いた。
「ただいま──」
理一はすぐに異変に気づいて、根源へと近づく。
「なにこれ」
理一は用意された食事を見て困ったように笑って、ソファにいるコウに向き直った。
「なんのつもり?」
コウは答えず、立ち上がって理一の近くまで歩み、見上げる。
「あは……人のカード使って、やることがこれ?」
「高価なもので物欲を満たすよりも、健全だと思うけど」
「そういうこと言ってんじゃなくてさ」
理一の手がラップの被さったグラタンを払い、床に落とした。盛大な音を立てて陶器が割れ、それも束の間、理一が高圧的に微笑んで詰めてくる。
「なに普通の人間みてぇな生活取り戻そうとしてんだ、てめぇ」
いつもと変わらない調子と、いつもと違う荒々しい言葉遣いで咎められる。正直、こんな風に激昂させてしまうとは想像だにしていなかった。
コウが何も言わずにまっすぐ見つめていると、理一の表情が冷たく変わり果て、到頭怒り一色に染まる。
もう一つあったグラタンも地面に叩きつけられると、器ごと割れて、ホワイトソースがぐちゃぐちゃに飛散する。コウはその残骸を冷静に一瞥して恐ろしい形相を浮かべる理一と無表情で向き合う。
「じゃあ、カード返そうか」
「だから、そういうこと言ってんじゃないの」
コウはするりと理一を遮り、カウンターに置いたままだったものに手を伸ばす。グラタンに合うように味を調整したオムレツ。その一欠片を菜箸でつまみ、理一の口元に運ぶ。
「食べて」
言うと、理一の眉間に深く皺が刻まれる。それでも怯むことなく、語気を強める。
「食べて」
今まで理一の言いなりになっていたからこそ、今いるコウの異質さが際立っていた。
虚空を映すコウの黒くて大きな瞳に吸い込まれるかのように理一の表情が徐々に消え失せ、代わりにこめかみに汗が滲み出す。沈黙が二人の間を支配して、まるで世界に二人しかいないような錯覚さえあった。
さらに箸を近づけると、理一は観念してそれを口に入れた。
ゆっくりと咀嚼するが、きっと味なんて分かっていない。そんな表情だった。
「買った弁当でも、作った飯でも、食えば同じ。生命を維持する上できっと深い意味なんてない。でも、こっちの方が記憶には残る」
淡々と告げてからオムレツをもう一欠片食べさせると、理一はぎこちなくも味わうように噛み締めた。
「美味しい?」
問うも、理一は何も答えない。コウは理一が咀嚼を終えて飲み込む様をじっと虚ろな表情で見つめた。
「暇だから、これから毎日晩飯作ってあげる」
「はっ、なんだお前……自分の置かれてる状況分かってる?」
「俺は死ぬまでの間、理一さんと生きていくしかないんでしょ」
器と菜箸を調理台に置いて、再び見上げる。瞠目した理一は、コウの言葉を理解するためにゆっくりと情報を処理するコンピューターのようになっていた。
「一緒に生きるってことは、一緒に飯を食うってこと。理一さんが俺を終わらせてくれるまでずっと続くんだよ。そして、全部が終わっても一緒に囲んだ食卓は忘れないでほしい」
執念にも似た言葉で理一に楔を打ち込み、深くに食い込ませていく。
「それが生かすことの責任」
理一の頬に手を伸ばし、触れる。
「ねぇ、一緒に食べてくれる?」
問いかけると、理一に手を引き剥がされ、強く掴まれる。
「君は、難しいことを言うんだね」
「そうかな。簡単なことだと思うけど」
理一は何とも言えない表情でため息をついた。
「僕、ピーマン嫌いなんだよね」
ぽつりと理一の口からこぼれた言葉。
「子供だね」
言うと、理一がムッとして手を放す。
「わかった、理一さんのためにピーマンは使わない」
数秒見つめ合ってから、コウが床にぶちまけられた陶器の破片と向き合い、グラタンの残骸をかき集めると、理一もそれを手伝い始めた。
理一という男の隣にいることに愛おしさの他に切なさを見出すようになっている自分がいる。どうしても離れがたくて、この人に閉じ込められている今が宝物のように感じられる。
当初は還るべき場所に還れるのなら何だってよかったのに、今ではこの人に殺される以外の方法じゃ満足ができなかった。
多分、自分はこの人のことを好きになってしまったんだろう。
雑巾で床を拭き、部屋が綺麗になると二人は息をついた。
「コウくんって料理上手なんだね」
小さな独り言のようでいて、実際には対話を試みようと紡がれたそれにコウは一瞬呆気にとられた。理一はコウの目を見ることはなく、横をすり抜けていった。
「……じいちゃんの飯が不味かったから、自分で作るしかなかった」
「はは、そんなことあるんだ」
理一は着たままだった上着を脱ぎ捨てると、先ほどコウが寝そべっていたソファに腰掛け、テレビのリモコンに手を伸ばした。その横顔はなんだか窶れていて、自分が彼を怒らせた以外にも理由があるような気がした。
「理一さん、いつもと違うね」
「なにが」
「雰囲気が」
「あぁ……今日は人を殺したから」
淡々と、無機質に告げられる。けれど、コウの心も特に驚きはしなかった。
理一はテレビのリモコンで契約中のサブスクリプションに接続すると、視聴途中であろう洋画を再生する。
「今頃、遺体は山の中かなぁ」
コウも理一の横に腰掛け、上体を理一の方に向ける。
「俺も殺されたら山に捨てられるの?」
「どうしようかな」
理一の肘はソファの背もたれに投げ出され、視線はやはりこちらを向くことがなく、液晶画面だけを捉えていた。
「どうせなら灰にして、常に持ち歩きたいなぁ」
「どうして」
「戦利品だから」
殺してもなお、彼は自分に執着してくれる。他の遺体と一線を画する特別な扱いをしてくれるという事実に、充足感があった。
「ふーん」
「なんで喜んでんだよ」
誰がどう見ても無表情なのに、理一はコウにある感情の機微を見透かしているようだった。
理一の手に握られていたリモコンがローテーブルに投げ置かれると、次の瞬間押し倒されていた。
「君は、殺されることに対して恐怖心はないの」
──恐怖心。
頭の中で反芻するが、そんな感情を抱いたのは両親が死ぬ前──小学校低学年の頃にテレビで放送していたオカルト特番を見た時くらいな気がする。そんな間抜けなことを告げたら、きっと理一は気を悪くするだろうから、言えなかった。
「怒りは? 悲しみは?」
──怒り、悲しみ。
じいちゃんが死んだ時は悲しかった。でも、怒りなんて感情こそ、最後に感じたのがいつだったか覚えてすらいなかった。
「君の両親は僕が殺したんだよ。分かってるの」
コウは、理一の気を悪くする言葉以外今は言えなかった。だから、沈黙を続ける。
結局、喋っても黙っても、理一の表情は険悪になっていった。
「こんなふうに行動を制限されて、荷物も没収されて、仕事も家も取り上げられて……自由なんてもはや無いに等しいのに、どうして受け入れられる? 君をもっと追い詰めてやろうと試行錯誤しても……まるで響かない。自分のやっていることが無意味だって思い知らされる」
コウの頭の横に置かれた手が拳を握る。
「まるで、人形を殴ってるみたいだよ」
憎悪とも屈辱とも取れる理一の歪な表情に手を伸ばし、するりと撫でてから逞しい首に腕を回して抱きつくように上体を起こす。
「難しいな……俺の心は機能不全だから、理一さんの求める反応ができない」
顔を覗き込むと、理一は異物を見るように、ほんの僅かな畏怖を瞳に宿らせた。
「だから、俺が壊れるまで続けて。最後に、俺を還るべき場所に還して」
その瞳に映る自分は、理一が例えた通り『人形』みたいだった。
理一は短く笑って、首に絡みつく腕を引き剥がした。
「君はもう壊れてるよ」
うんざりと、呆れたように言ってから独り言ちる。
「壊したのは僕なのかな」
諦念に取り憑かれた双眸はコウを捉えておきながら、どこか遠くを見ている。
「母さんと父さんを殺した時、どうして俺のことは殺さなかったの」
問いかけると、理一は掴んだままだったコウの手首を放した。
「……分からない」
迷子の子供にも似た表情が、自信なくつぶやいた。
「あの時はなんでか……殺す気が失せたんだ」
液晶から垂れ流しになっていた映画の音が遠のいて、理一の声だけに支配される。
「でもやっぱり、殺しておくべきだったな。そうすれば、こんな──」
何かに阻まれたのか、理一は言葉を喉に留めた。
「いいや」
投げやりに吐き捨て、理一がソファから立ち上がった。コウはシャワールームに消えていく後ろ姿を見届けてから、理一が見ていた映画をぼんやりと眺める。ようやくちゃんと認識すると、それは自分の知らない映画だった。
──怒らせるようなことをたくさんしたから、今日は今まで以上に酷くされるんだろうな。
あらかじめ予見していたから、実際にそうなってもコウは理一の行為すべてを受容した。うなじや首筋を強く噛まれたり、首を強く締められながら激しく揺さぶられた。理一は自身にまとわりつく穢れをコウを傷つけることで消し去ろうとしているような、そんな危うさがあった。
気絶するまで追い詰められ、いつもなら朝まで目覚めることはない。けれど、今日は理一の声で明け方に覚醒した。
眉根を寄せ、汗ばむ額。苦しそうに吐き出される息と声。
コウは表情筋ひとつ動かさず、真横にあるその様を見つめ、そして寄り添うように抱きしめた。すると、次第に理一の切迫した呼吸が和らぎ、風情に落ち着きが戻る。
うなされていたことで、理一の心臓は嫌な音を立てていた。その音を聞くと、親近感を覚える。
自分たちは、同じ地獄で生きている。
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