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【3部】第4話 閑寂に沈む

 無音。  花澄理一のいない部屋は、秒針の動く音以外なんの音もしない。  一人で暮らしている時も同じだった。それが永遠に続く。何もおかしいと思うことがなかった。けれど、二人で過ごした時間の長さが自分の中にあった過去の常識を粉々に砕く。  そろそろ花澄理一の声が聞こえてくるはず。そう体が覚えているのに、裏切るように無音が続くとだんだんと焦燥感が湧いて、頭がおかしくなっていくようだった。  いつもこなしていた家事が全く手につかない。食器はシンクに積み重ねられ、掃除機もかけていない。洗濯も理一が出かける前から山積みになったまま。食事や体を清潔に保つことに精一杯で、それ以外は何もできない。  狂うような時間を過ごし、ようやく理一が帰ってくる日がやってきた。  けれどもう、精神は限界の一歩手前だった。  洗濯予定だった理一の服を手繰り寄せて眠り、すがりつく。煙草と、彼が元々も纏っていた匂いが混ざり合い、安寧をくれる。  夕方になり、橙の光が部屋の中に差し込む。  コウはゆっくりと体を起こして、サイドテーブルに目を向ける。ずっと、視線を感じていた。  ──花澄有理。  自身が傷つけた写真は、新しい写真立てに入れられ、大切に飾られている。  ──まだ、俺は有理くんに嫉妬している。理一さんの瞳に映る自分のさらに奥にいるのは、彼。理一さんが俺を求める理由の根底にあるのは、有理くんへの依存心と、有理くんを救うための復讐心。俺は、彼が生き返るのなら、簡単に壊される身代わり人形。  ずっと、考えてしまう。  ──俺は、どれだけ足掻いても一番になれない。  反芻するたびに納得ができなくて、気が狂いそうになる。暴れたくなる。全部、壊してしまいたくなる。  写真立てを手に取ると、指先に力がこもる。 『これ以上進んだら、理一さんが理一さんじゃなくなる』  ──違う。違う、違う違う、違う。  自分の放った言葉に首を絞められ、息苦しくなっていく。  ──変わってしまうのは、理一さんじゃない。ただ理一さんの心の在り方を、自分から目を背けるための口実に使っただけだ。本当は──このまま続ければ──俺が、俺じゃなくなる。  ──それが、怖いんだ。  自らの中で導き出した答えに打ちのめされると、コウはよろよろと写真立てを元の場所に戻す。  この写真を傷つけた時に味わった、強く殴られる痛み。ゴミを見るような目。首を絞める冷徹な手。全部を思い出すと、自分の存在価値が無いことを自覚させられる。いても、いなくても、一緒。 『どんなに従順になっても、アイツの一番にはなれないのに』  筿原の言葉が、また呪いのように絡みついて、促してくる。  一緒に食べた食事だって、ただの栄養補給。意味なんて、無かった。  今すぐ──消えて、無くなりたい。  理一の服をベッドの上に置き去りにして、コウはキッチンへと歩む。包丁を手に取ると、衝動が湧いてくる。  ──これを自分に突き刺せば終われる。もう、苦しまずに済む。もしかしたら、母さんと、父さんに会えるかもしれない。  ──でも、そしたら、理一さんには会えない。最後は、理一さんの顔を見て終わりたいのに。  ──違う、自分で自分を終わらせる勇気が、ないだけ。全部、くだらない言い訳だ。  呼吸が乱れて、勝手に震えだす。コウは包丁を投げ捨てて、玄関に向かって歩き出す。 『ここから出ちゃダメだよ』  理一が家を出る前に言っていた言葉。それを守ることに、なんの意味がある?  もはや何が正しくて、何が大切なのかが分からなくなっていた。  一番じゃないのなら、別にどうなったっていいはず。代わりはいくらでもいるんだから。  自分で終わる勇気がないのなら、もう誰でもいい──誰かに終わらせてもらいたい。  部屋着のままサンダルを履き、外に飛び出す。部屋の鍵など渡されていない故に、戸締りなんてできなかった。全部どうでもいい。  アパートを出ると、通りはたくさんの人々で賑わっている。  少し乱れた呼吸のまま見渡して、歩き出す。外に出たのは久しぶりだった。以前使っていたクレジットは理一に回収され、金品など何も持っていなかった。街を歩いても、何も買えない。でも、それで良い。欲しいものなんて何もない。ただ、終わらせてくれる誰かが迎えに来てくれるのなら。  人混みの中に紛れて、目的もなく歩き続けると、突然腕を取られる。コウは振り返り、大きな瞳で見上げる。相手はもちろん日本人ではなかった。逞しい腕と大柄な体。捕まれば、もう逃げることができないことを理解する。  自分の知り得ない言葉で喋りかけられるが、何も答えることができない。無言を貫いていると、そのまま腕を引かれて連れ去られる。  定期市場を通り抜け、裏道に出ると、営業しているようには見えない小店に辿り着く。大通りの店であれば果物が並べてあるであろう木箱は空っぽで、代わりに飲み捨てられたペットボトルや菓子の包み紙が放り込まれている。  此処はなんの店だったんだろう。  ぼんやり考えていると、中から二人の男性と一人の女性が出てくる。何かを話し合ってこちらを見ているが、やはり何を言ってるのか全く分からなかった。  話がつくと、コウの腕を掴んでいた男が体を弄ってくる。ポケットや物を隠せそうなところを一通り触ると、舌打ちをされた。  また三人が顔を見合わせて会話を交わしながら、そのうちの女性が携帯電話を取り出して通話を始める。  あっと思ったときには顎を掴まれて、品定めするような視線に全身を嬲られる。  ──きっとこの人たちは、俺のことを子供と勘違いしているんだろうな。  これから何をされるのかは想像に難くない。  全部がどうでもよくて、コウは覇気のない目で男を見つめ返した。  ──殺されるのなら、もうそれでいい。  肩を抱かれて、椅子代わりのドラム缶に座らされる。彼らは何かを待っているようだった。その間に、コップに何かを注がれて手渡される。匂いからしてアップルジュースで間違いないだろうが、何が混入しているのか分からないものを飲む気にならなかった。ゆらゆらと揺れる果汁の水面に映る自分を見つめていると、車の走る音が聞こえてくる。  まるで、死神が迎えに来たみたいだ。  停車した車から男が出てくると、男がコウを立ち上がらせ、無理に歩かせる。その拍子に手を滑らせ、持っていたコップをひっくり返してしまうが、男はそんなことなど気にも止めず、コウを出てきた運転手に差し出す。  運転手がニコリと笑うと、頭を撫でてくる。そのまま肩を抱かれて車に乗せられそうになった時、聞き覚えのある声が割って入ってきた。  はたと顔を上げると、夏木がいた。  夏木はこちらに微笑みかけると、男からコウを奪い返すようにして肩を抱いた。  夏木が彼らと口論を開始するが、やっぱり、どうしても、何も理解できない。雑音にも近い音たちを聞きながら、空を見上げる。何もうまくいかない。  コウを連れ去った男が足元に落ちていたペットボトルを蹴り飛ばすと、肩をすくめて罵声らしき言葉を吐き捨て、店の中に入っていった。女性もやれやれとスマートフォンをパンツのバックポケットにねじ込むと、男の後をついて消えていく。誘拐──または、人身売買に失敗して、犯罪者集団は散り散りになっていった。  夏木は大きなため息をついて、こちらをキッと睨んだ。 「何してんだ、ばかたれ」 「……散歩」 「そういうこと訊いてんじゃないよ」  今度は夏木に引きずられて、人通りの多い道へと戻っていく。  また、あの誰もいないアパートに後戻りだ。  何にも、うまくいかない。

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