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【3部】第7話 夢幻と境界
三日続きの仕事がようやく終わったものの、一晩眠っただけでは疲労感は癒えない。皮肉にも外は晴れやかで気持ちの良い昼時だった。
二人で並んでテレビを見るのは、日本にいた頃と全く変わらない光景。隣に座るコウの頬を手遊び感覚で撫でたり摘んだりすると、この柔らかい頬を思い切り殴った出来事を思い出す。
あの時、爆発した衝動を最小限に抑えることができなかったら、きっとこの子のことを殴り殺していたかもしれない。そうなっていたのなら、自分は今この世界に一人きりになっていた。
理一は思い返して、コウの頬に触れるのをやめた。当たり前だが、傷はもうすっかりと癒えていて、跡形もない。
「コウくんもそろそろこの生活に慣れてきたんじゃない?」
気を紛らわすため、なんとはなしに言葉を投げかけると、「うん」と簡素な返事が返ってくる。
「なんて言ってるけどさ……本当は日本に戻りたいんじゃないの」
重ねて言葉を交わすと、コウが大きな瞳でこちらを静かに見据える。
「……戻れるなら」
理一はソファの背もたれに肘を置き、頬杖をついた。
「確かに、慣れても不便は不便だしね」
引っ越したばかりの頃はコウに頼まれたものを近所のスーパーまでいちいち買いに行っていたので、まさに不便で面倒だった。最近は定期便に切り替えたが、だからと言って便利かというとそうでもない。食材を一つでも注文し忘れると、食事の美味しさが半減される。だから、結局はスーパーにおつかいを頼まれる。
日本なら、こんな面倒なことはないのに。
どうしたもんかと考えていると、コウが肩に寄りかかってくる。
「でも、理一さんがここに居たいなら、ここに居る」
甘えるようなその仕草は時折見かけるが、しかし今回はなにか違和感があり、理一は数秒沈黙する。
「……最近、反抗的な態度取らなくなったね」
コウは何も答えず、テレビ画面を見ていた。
「何を企んでる?」
「終わりが近いから」
ぽつりと呟かれた言葉。
「え……」
頭の中が真っ白になる。
──終わりが近い?
違和感をいよいよ見逃すことが出来なくなり、コウの一言に頭の中を支配される。不明瞭だったものを決定づけるように、コウが続けた。
「理一さんに触れることができなくなる前に、いっぱい記憶に刻むの」
理一は、コウの言葉の裏に潜んでいるものをようやく察するが、確信したくなかった。
「それ、どういう意味」
「そのままの意味」
まただ。
遠ざけたと思った不穏なものが、知らないうちにすぐそこまで迫っている。どれだけ可能性を潰しても、密かに繁殖する害虫のように沸き出て、不快さや不安感を植え付ける。
理一がコウの体を掴もうとした時、それを躱すようにコウが立ち上がる。コウはそのままキッチンに向かう。
時計を見るとコウがいつも昼食を作り出す時間になっていた。
理一は冷や汗をかきながら、上昇する体温と煩い己の鼓動のことでまともに思考ができなくなる。
こういう時に限って、疲労が色濃くなる。
理一は目を閉じて、ソファの背もたれに寄り掛かる。
眠い。
いつの間にか目覚めていて、自分は何事もなくソファでテレビを見ていた。いつ目覚めたのか、覚えていない。記憶が曖昧で、何かが変だった。
ふと、キッチンを見るとコウがいなくなっていた。なんなら、この家の中に気配がない。
理一は焦燥感に駆られながら玄関に向かうと、コウのサンダルは変わらずにあった。鍵も閉まっている。
寝室にいるのかと覗いてみるが、いない。
自身の部屋も試しに開けてみるが、どこを探してもコウの姿がなかった。トイレを開け、クローゼットの中まで見ても、姿が見えない。
あと見ていないのは、シャワールームだけ。
理一は半ば諦めながらもシャワールームの扉を開けた。
電気のついていない、格子窓から自然光だけが降り注ぐ空間で、ようやくコウを見つけた。
真っ赤なバスタブで目を閉じ、美しく眠っている。
「コウくん、そんなとこで寝てたら風邪引くよ」
顔には血の気が一切なく、真っ白だった。
「コウくん」
すぐに理解してしまう。
「嘘、……嘘だ」
目の前の青年は、息をしていなかった。
──終わりが近いから。
ぽつりと呟かれた一言がリフレインされ、それを受け入れられないあまり、破壊衝動に駆られる。
理一は震える手でバスタブに縋り付き、自己防衛で勝手に浮かび上がる笑顔のままコウに語りかける。
「ダメだよ、コウくん……起きてよ」
バスタブの赤は、コウの体を包み隠すほどに濃度が高い。
──嫌だ。
拒絶と共に、体の底から冷たく迫り上がっているのは恐怖という感情。取り返しのつかない事態に現実逃避を始める心。何もかもが制御できない。
「どうしよう、どう、すれば」
自分では、もうどうすることもできない。
でも、もしかしたら今すぐに医者にみせれば間に合うかもしれない。
手を伸ばし、触れた頬。それは恐ろしいほどに冷え切っていた。
──もう、間に合わない。
「あ、あ………いやだ」
間に合わない。彼が目を覚ますことはない。
──もう、一緒にいられない。
──置いていかれた。
──また、一人きりにされた。
地べたにへたり込み、完全に思考が停止する。
刹那、ひたひたと近づいてくる、不穏な影。
「そんだけ取り乱しておいて、なにが『一番じゃない』だ?」
よく知ってる声が背後から聞こえた。
理一はよろよろと振り向いて、見上げる。
「腑抜けた奴だな」
そこには、自身の手で殺したはずの筿原治が立っていた。
目を見開き、喉を鳴らす。
「彼がいつか、お前を置いていなくなることは最初から決まっていたことだろ? お前には有理さえいればいいんだから、別に構わないだろ」
次から次へと巻き起こる非現実的な状況に、脳が破壊されるような強い衝撃を受ける。理一は掠れた声をなんとかして絞り出す。
「ちが、う」
その情けない声に、筿原が失望したように笑った。
「何が違う? お前が自分で言ったくせに」
筿原の革靴が肩に触れ、そのまま力を加えられると理一はその場から乱暴に退かされる。
「もういらないだろ」
筿原がバスタブからコウの遺体を担ぎ上げた。
「コイツは連れて行く」
体が、動かない。
「嫌だ……いやだ、いやだ」
叫んでも、筿原は見向きもしない。大切なものを奪われて、取り返すことができない。
──嫌だ。嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ。
どうしてか。もがいても、まるで沼に沈んでいるかの如く身動きが取れなかった。
必死な理一を置いて、筿原とコウがどんどん離れていく。
込み上げる怒りで、何かが千切れる。自身の体を押さえつけていた見えない何かを振り解くと、ようやく右手が動くようになる。
「返せ」
だが、必死に手を伸ばしても、届かない。
「返せッ‼︎」
慟哭に似た叫び声を上げた瞬間、視界がブツリと途切れて、消え失せる。
──ハッとして目を覚ました。
身体中に汗をかき、心臓が口から出てしまうのではないかというくらい激しく高鳴っていた。
ソファの背もたれから上体を離し、手の甲で額の汗を拭う。
ふと、卵を砂糖で甘く焼く匂いが漂ってくる。キッチンを見ると、コウの後ろ姿があった。
──生々しい夢。
時計に目をやると、まだ十五分程度しか経っていなかった。
心なしか口の中に血の味を感じて、理一はキッチンの手前にあるウォーターサーバーで冷水を一杯分飲み干す。
チラリとコウの手元を見ると、トマトを切っていた。それは赤くて、嫌な記憶を刺激する。体が、勝手に動き出す。
飲み干した紙コップをそのまま床に放り投げ、衝動のままにコウを背後から抱きすくめていた。
コウは驚くと、一度包丁をまな板の上に置いてタオルで手を拭う。
「どうしたの」
問いかけられても、答えられない。ただひたすらに、ぎゅっとコウの体を抱く腕に力を込める。
「心臓、すごい音してる」
密着させた体から伝わる鼓動。まるで何もかもを見透かされているようで、居心地が悪かった。
「嫌な夢を見たんだね」
コウの言葉すべてが、突き放しているように聞こえてしまう。
理一はコウの体を一度離すと、両肩を掴んで自身に向き合わせる。抑えられない衝動のまま、突拍子もなく口付けると、コウは突然のことに反応が遅れて体がビクリと揺れる。
激しく絡まってるその最中に、コウは手探りでコンロの火を消す。理一はすぐさまコウの両手を取り、自由を奪いながら、どこにも行かせないという無意識の執念を滲ませて、自分のものにする。
コウが苦しげな声をあげたのを機に、口を離してやる。
お互い呼吸が乱れていた。コウの頬が少し火照っていて、それは夢の中で見た真っ白な頬とは程遠い。
──ちゃんと、生きてる。
「コウくん、変なこと考えてないよね」
その頬を撫でて、確かめるように問い詰める。
「終わりが近いって、どういう意味」
頬からするりと下りて、後ろ首を撫でる。
「僕を置いていこうっていうなら、絶対に許さないよ」
コウは脅しにも近いその言葉に、何かを考え込むような素振りを見せる。
「俺が死んだら、俺は有理くんと同じく過去の人になる。そうなった時、俺の本当の価値が分かる」
「は……」
「でも、理一さんは俺じゃなくて有理くんを生きる糧にするんでしょ」
理一はため息をついた。
「またその話?」
見下すような冷たい目で。
「そうだよ、僕の一番は有理だから。何回聞いても答えは変わらないよ」
「うん」
──言葉を、間違えた気がする。
冷や汗が沸いて、取り返しのつかない選択をしたことに気がつく。
「でも、俺がいなくなったら……今まで通りには生きていけなくなるよね」
選んだら、それは絶望的な方角に進むのみだった。
「一番大切なものじゃなくても、いつもそばにあったものが突然無くなると違和感になる。俺は、俺を終わらせることで理一さんを少しでも傷付けたい。たとえ、有理くんに勝てなくても」
──いいや。どんな言葉を選んでも、彼の加害性は必ず、こちらに牙を剥くように出来ている。それは、何を選んでも覆せない。
西垣洸の虚無を映す瞳が静かにこちらを捉えて、雁字搦めにする。
「俺がいなくなったら、筿原さんの言うとおり、理一さんは俺のこといつか忘れちゃうんだろうけど。でも、忘れるまでの間は物足りなく感じるはず」
──すり抜けていく。
理一は口を開いたが、何を言えばこの流れが変わるのか分からなくて、ただただ思考が乱れて、絡まって、解けなくなる。
「何回問いかけても、理一さんの答えは変わらない。もう、一番になれなくてもいい」
──黙れ、もう喋るな。
理一はただ、コウを睨みつけることしかできなかった。その目をも、恐れることなく真っ直ぐに見つめてくる大きな瞳。
「来月、理一さんの誕生日だよね。そこで終わりにする」
「……なんで、僕の誕生日知ってるの」
「筿原さんから聞いた」
また、あの人の影が纏わりついてくる。殺しても殺しても、逃げられない。自身が吐き出す煙と同じで、時間が経つとまた自身を包み込んでいる。
──あの人に、この子を連れていかれる。
喪失を想像すると、一人で立ち尽くす哀れで滑稽な自分の幻影が目の前に現れて、嘲笑ってくる。全部、自分が招いたことなのに。
考えたくもなくて、思考はすぐに現実逃避をする。きっと全部顔に出ていたのだろう、喪失を恐れる様をじっと見て、コウが頬に触れてくる。
「俺は理一さんが分からない」
撫でる手に、自身の手を重ねる。
「僕だって君が分からないよ」
「俺たちは分かり合えないんだと思う」
また、突き放してくる。
──君は、僕の全部を呑み込んでくれるんじゃないのか。
「でも、それでいいのかも。理解するのって、怖いことだから」
「いかないで」
再びコウを抱きすくめる。さっきよりも、強く。
「君だけはここにいてよ、ずっと……僕を置いていかないで……そばにいて……生きていてくれれば忘れないから、ずっと考えていられるから」
こうやって、みっともなく西垣洸に縋り付くのは二度目だった。
「愛してるよ」
構っていられなかった。
理一は、言いたくても言えなかった言葉を、躊躇わずに口にする。この言葉で、繋ぎ止められるのなら、何度だって口にできる。
「俺の心は、それじゃ満足しないんだ」
なのに。それを突っぱね、胸の深くへと刃を突き刺すような硬い信念に打ちのめされる。
「だから、理一さんを傷付けたい」
どれだけ必死に掴もうとしても、この青年は掴むことができない。だから、執拗なまでに縛り付けてしまうのだろう。
西垣洸の虚無は時間が経つと膨張して、育んだ余裕を呆気なく踏み潰してしまう。
一体どうすればいいのか分からない。
どうすれば、この子を永遠に自分のものにできる?
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