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【3部】第14話 手の鳴る方は亡霊
「理一さん」
呼ばれると、記憶の中に没入していたことに気がつく。
暖かい湯が頭の上から注がれ続けて、疲労が溶けていくようなその心地の良さに油断して、精神が揺らいでしまったのかもしれない。
コウの手が前腕を撫でて、彼の黒い瞳が顔を覗き込んでくる。
「血だ」
言われて、撫でられた箇所を見る。確かに、赤黒く固まった血がこびりついていた。それは、自分を自分たらしめるものでもあった。
「これ、理一さんのじゃない……誰の?」
理一の身体に傷はない。それが他人のものであることを証明するように、コウが付着した血を擦って洗い流してくれる。
理一は散らかった頭の中から無気力に言葉を搾り出した。
「……多分、今日殺した奴の血だなぁ」
そういえば。死体を袋に詰める時に作業着を着たのに、暑くて腕を捲った。その時についたのかもしれない。
──昔のお前だったら、もっと警戒してたと思うよ。
佐野の言葉が頭を過り、苛立ちと情けなさで思考がさらに掻き乱される。
「人、殺したの」
シャワーの流れ続ける音に紛れて、コウが小さく問いかけてくる。理一はフッと笑って、壁に手をついてコウを閉じ込める。
「なぁに。もしかして、僕が怖い?」
恐怖を抱かれようが、絶対に離してやらない。全部、君といるためにしていることなんだから。
支配欲を漂わせて頬を撫でると、コウの腕が背中に向かって巻きつく。この国に来てから、コウは頻りに抱きついてくるようになった。直接触れるコウの肌に、自分の体温の低さを知る。
「怖くない。でも……理一さんの匂いが分からなくなるから、邪魔」
匂いを確かめるように胸に鼻を寄せて、頭を胸に預けてくる様に、甘酸っぱい感覚が広がる。コウの切実な腕が、血の匂いに飲み込まれそうな本来の自分を留めて、まるで『消えないで』とでも願うように力を込めてくる。温かくて、執着を誘っている。
「なにそれ」
抱き返そうとして──途端、腕がビクリと震えて、動きが止まる。
小岩と山吉を殺す寸前の、まるで悪魔を見るような目を思い出した。そのまま絶望を映して絶命した二人の瞳が乾いていく様が続いて再生される。
もう、殺したくないのに。この子のために、あと三人も殺さなければならない。
思い出すと、次々と過去に殺害した人間の顔が浮かび上がる。呪いのように心を黒く蝕んで、飲み込もうとしてくる。
──嫌だ。
呼吸が上がり、思考することをやめたいのに勝手に脳が記憶の再生を加速させていく。
記憶の果て。最後に辿り着いたのは──最初に殺した二人の顔。目の前にいる、西垣洸の両親。
刃物を突き刺した時に見た、母親の目。なんの感情も感じさせない、悍ましい瞳だった。ふとコウの瞳を見ると、それがトリガーになってしまう。
──お前に、この子と一緒にいる資格はない。
言われてもいない言葉が、あの女の声と──有理の声で重なって聞こえる。
──息が、できない。
理一が「はっ、はっ」と過呼吸を起こしたことに気がついてコウが一度身体を離した。こちらを見上げて目を見開き、その異常事態にすぐさまシャワーを止めて、体を優しく抱きながら背中をさすってくれる。
その手の温もりと優しさが過去の亡霊を追い払い、守ってくれる。この手に、自分は深く依存している。失えばもう、形を保つことができない。
「怖いなんて思わないよ」
感情の宿らない声が魂を撫でてくる。
ぽんぽんと背中を優しく叩かれて、呼吸が完全に落ち着く。さらに呼吸を整えるように息を深く吐き出して、やっとコウの身体を抱き返した。
「愛してるよ」
コウが胸の中でそう呟いて、蝕まれていた心が漂白され、満たされる。
満たされるのに、これは一時的なものなんだ。
だって、彼は僕の前から消えようとしているのだから。
何を犠牲にしてでも、この子をこの世界に繋ぎ止める。そのためには、この子から足を奪うしかない。決心がつきそうで、だけどまだ、揺らいでいる自分がいる。
自分の誕生日に思い入れなんてないのに、今はただただ時間が止まればいいと思ってる。
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