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【3部】第16話 重なる影
午後十時になると、姉は決まって金を稼ぐために外出をして、明け方に帰ってくる。客から貢がれた化粧品や実費で買ったものを使って、姉が商売道具となる顔を作りあげていく様をじっと見ていた。
狭くて汚い居間で一通りの支度を終え、小綺麗にめかし込んだ格好にブランドものの肩掛けバッグを下げて玄関に向かう姉の背中に急いで声をかける。
「姉ちゃん」
振り返ると、無表情の顔がこちらを涼しげに捉える。
「もう、行かないで良いよ」
姉が振り返り、腰に手を当てた。
「なんで」
「金、用意できたんだ」
ぼそぼそと自身の足元を見て告げると、影が落ちてくる。
「京平」
はたと顔を上げた途端、頬に鋭い衝撃が走る。姉に、思い切り張り手をされていた。すぐさま胸ぐらを掴んで、揺さぶってくる。
「やっと少年院から出てこられたのに、アンタはまた同じこと繰り返すの?」
「あ、足のつかない金だよ! 今度は間違いなく平気!」
「いい加減にして!」
金切り声にも近いそれに突き放される。
「お姉ちゃん、もう京平にはついていけないよ……」
胸ぐらからするりと腕が離れて、姉は踵の高い靴を履いて再び背中を見せる。
「私、この家から出ていく」
「えっ……」
「借金も私一人で返す」
強かな目線で振り返って、睨んでくる。
「そんな汚い方法で借金返したって、問題の先送りにしかならないでしょ……頭良いくせに、なんでそんな簡単なことも分からないの」
「でも、これしか方法……ないじゃん……」
舌打ちに遮られる。
「もう、アンタは何もしないでいい」
「姉ちゃん!」
「アンタは自由に生きれば」
バタンと扉が閉められ、姉が出ていく。
冷たくて、信念の宿ったその真っ直ぐな目に守られて、自分はここまで大きくなった。それを傷付けて、間違ったことを提示して、こき下ろしてしまった。
──馬鹿だなぁ。姉ちゃんがこんなやり方、許すわけないのに。
ガクリと足が跳ねて目が覚める。
椅子に座ったまま眠っていたらしい。
──昔の夢。なんで今更、こんなの見てんだ。
夏木はぐんと背伸びをしてから、放置されたデスクトップを一通り確認する。
なにもかもいつも通りだ──今から西垣洸のベビーシッターに行かなければならないこと以外は。
夏木は倦怠感を纏ったまま洗面所に向かい、嫌な夢を見たことで汗ばんだ額を冷たい水で洗い流した。水滴をふかふかのタオルで拭っている時だった。
ダイニングテーブルに置いていたスマートフォンが振動する。「はいはいはい……」と独りごちて取りに向かうと、うっすらと見覚えのある電話番号が表示されていた。
──これ、誰の番号だっけ。登録してないってことは、仕事仲間ではない。あ……この前バーで知り合ったお姉さんだっけな。
夏木はウキウキしながら応答ボタンを押した。
「もしもし……」
『おっ! 夏木くん、元気?』
違う。
聴こえたのは、中年の声。
──穂高哲二の声だった。
週に一度が基本とされていた労働体制は、いつしか破綻していた。理一は二日前に働いたというのに、再び仕事のために外出をしようとしていた。
玄関まで理一を追いかけると、頭を撫でられ、頬を撫でられる。
「今日はこの近くで抗争が起きるから、絶対外に出ちゃダメだよ。夏木がもう少しで面倒見に来るから」
足元がひんやりとして、喪失感に襲われる。コウは理一にしがみついて、その先に進ませまいと踏ん張る。
「いらない。理一さんがここにいて」
「……無茶言うなって」
「嫌だ」
この街で抗争が起きるのはよくあることで、アパートの窓を覗くと遠くから煙が立っている様を頻繁に見かける。それが、この近くで起きるということ。外に出かければ、理一が巻き込まれる可能性だって否定はできない。
理一さんの身に何か起きたら、と考えると頭が真っ白になって、不安に押しつぶされそうになる。
負の感情に責め立てられながらぎゅっと理一の体に縋りついていると、額に口付けされる。コウはそんなんじゃ足りないと背伸びをして理一の唇に口付け、気がつけば壁に身体を押し付けられて深く絡まっている。
糸を引いて、離れる口元。
「夜には帰るよ」
理一の服を掴んでいた手を引き剥がされる。
「行ってくるね」
コウを置いて、バタンと扉が閉じて鍵が掛かった。
しばらく玄関で一人ぼんやりと立ち尽くして、とぼとぼとリビングのソファに腰掛ける。
時計の音しか聞こえないこの空間が嫌いで、コウはすぐさまテレビをつけた。
理一が日本語版のサブスクリプションに接続してくれたおかげで、テレビを見ることに少しだけ安心感を得られるようになった。
一人でいる時に不安をかき消してくれるのは、決まって物語だった。他人の人生を覗くことで、現実逃避ができるから。
理一が昨日見ていた映画を再生して、ソファの上で膝を抱えていると、どこからかプルルルルという電子音が聞こえてきた。
コウは音の先を探して、理一の部屋を開けた。理一の部屋といっても、理一はこの部屋で過ごすことは全くと言っていいほど無かった。物置も同然と化した薄暗い部屋の中で、音を発して光っているもの──固定電話だった。
日本にいた時なら勝手に出てしまったかもしれないが、罪を重ね、追われる身である今の状況じゃ迂闊なことはできなかった。しばらくすると電子音は鳴り止んだ。
だがすぐにまた呼び出し音が鳴り、あらかじめセットされていた紙を電話機が飲み込み、吐き出した。
印刷されたのは、何かの地図。理一の仕事関係のものかと手に取ると、それは日本語で記されていて、左端に手書きでメモがされている。
『電話出て。穂高』と。
──いや、メモじゃない。メッセージだ。
数分後、また電話が鳴り、コウは受話器を取った。
「もしもし……」
『もしもーし。洸くんだよね? 久しぶり〜』
「穂高さん……」
何故か手が震えていた。何故震えているのか、自分でもよく分からない。
「……どうしてこの番号が分かったんですか」
震える手に反して、声は落ち着き払っていた。問いかけると、穂高は『そんなのは今どうでもいいのよ』とはぐらかした。
『それより、今地図送ったんだけど……送れてる?』
「……はい」
『おお、良かった。ちゃんと読める?』
穂高はあくまで平然としていて、頭で処理しきれないこの状況にコウだけが置いてけぼりにされていた。
「どういうつもりですか」
『ん?』
「組長を殺したのは俺ですよ。なんでそんな平然と話ができるんです」
たまらずに指摘すると、穂高は言葉に詰まった。
『いやいや……あの人を殺したのは理一だろう? 知ってるよ』
「でも、俺は無関係じゃない」
『君は利用されただけだよ。組長は自分が理一に殺されることを予見してたからね』
コウは納得ができず、頭の中がごちゃごちゃしたままだった。
「だったらもう用済みでしょ。俺のこと殺すの?」
抑揚のない声で、現実を受け止めるように口にすると沈黙が流れる。
『……殺さないよ。君が死んだら、理一は生きていけないだろうし』
「そんなことないと思うけど」
『君の力が必要なんだ』
穂高の言葉に、俯いていた目線が勝手に上がる。
『今送ったのは、今日の抗争地に向かうための地図。落ち着いて聞いてほしいんだけど』
嫌な予感がして、コウは胸元をきゅっと掴む。
『理一が、そこに向かってる』
「えっ」
『夏木くんの差金だよ』
先程までごちゃごちゃに散らかっていた頭の中が今度は空っぽになっていく。足元さえもぐらつくような錯覚に襲われる。
『流石のアイツでも、マシンガンなんかぶっ放されたら死んじゃうと思うんだよね』
「どうすればいいの」
遮るように問いかけると、穂高が小さく咳払いをした。
『この地図を見て現場に向かってよ。そして、理一を止めてほしい。多分、アイツは君の言うことなら聞くと思うから』
──自分が行って、なんとかなるのだろうか。
自分の無力さは日々痛感している。行ったところで、抗争に巻き込まれて死ぬだけかもしれない。
『本当は俺が行きたいところだけど、間に合いそうにないんだ。頼む、アイツを助けてやってくれ。君以外、理一を助けられない』
ブツリと通話が切れ、ツーツー、と音が鳴る。
コウは受話器を置いて、地図を見つめた。
──自分は消えてもいい。でも、理一さんがこの世界から消えるのは嫌だ。
──絶対、嫌だ。
衝動的に玄関へ向かい、靴を履き替えた瞬間。
「ごめん、遅くなった」
玄関の鍵が開いて、夏木が困り笑顔でやってきた。
──夏木くんの差金だよ。
ふと、穂高の言葉を思い出してコウは夏木を静かに捉えた。
「理一さんに仕事の案内してるのって、夏木さん?」
「……まぁ」
「理一さんのこと、陥れるつもりで近づいた?」
濁すことなく問い詰めると、夏木がバツの悪そうな態度で目を逸らした。
「人聞き悪いな、って言いたいけど……そうなるかな」
否定してほしかった。
コウは心に傷がつく感覚を久しぶりに味わう。
「どうして」
「結局、俺みたいな悪人は利益になる方につくんだよ。理一だって、いざとなれば俺のこと裏切るだろうし。今回はたまたま俺が裏切るタイミングだったってだけ」
ふらついて、一歩後ずさる。
「アイツが死ねば筿原組は再起不能になるだろ。筿原組は恨みを買いすぎなんだよ。うちの上司は筿原組を潰す機会を虎視眈々と狙ってた」
──あんなに、理一さんと仲睦まじく話をしていたのに。自分には及ばないほどの信頼関係を見せつけて、俺に劣等感を突きつけてきたのに。この世界は、誰が裏切ってもおかしくないんだ。
コウは夏木を冷たく睨んだ。
「あなたはいつか、地獄に落ちる」
「……そんなの分かってるよ」
夏木の横をすり抜けて外に出ようとした瞬間、腕を強く掴まれた。
「君には行かせない」
有無を言わせない鋭さを携えて、夏木から足止めを喰らう。
「アイツとは一応友達だから、アイツの守りたいものは守るつもり」
友達なのに裏切る。でも、友達の大切なものは守る──言ってることと、やっていることが食い違っている。コウは夏木という男を少し理解した気になっていたが、今この男がどんな理念で動いているのか全く分からなかった。
「何不自由ない生活を保障する。俺と一緒に逃げよう」
──この人は何を、言ってるんだろう。
振り払おうとした腕から力が抜ける。コウは目を見開いた。
「アイツみたいに俺は不安定じゃないし、苦しい思いはさせない。絶対幸せにするよ」
真剣で、必死な瞳で訴えかけてくる。これが、夏木という男の本質であることを悟る。
コウは夏木の手をやんわりと振り解いた。
「やだ」
拒絶すると、夏木があからさまに傷ついた顔を見せる。それでも、コウが信念を曲げることはなかった。
「理一さんじゃなきゃダメなんだ」
「行ったら、君なんか無事じゃ済まないよ」
「別にいい」
夏木の腕が伸びてきて、両肩を掴まれる。
「いい加減にしろ! 君は、自分の命をなんだと思ってんだよ! 命を無意味なことで消費するな!」
「決めるのは、俺だから。夏木さんじゃない」
怒鳴り声を静かな声で打ち砕くと、肩から手が離れる。
コウは夏木の顔をじっと見てから、玄関を飛び出す。
夏木は、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
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