35 / 41

【3部】第18話 動く屍

 地図を見ながら走り続けた。道が分からなくなった時は道行く人に尋ねてみたが、無視されるばかりで上手くいかない。それでもめげずに尋ねると、心優しい人が指を刺して教えてくれる。言葉は分からないが、それだけで十分だった。  そうして、2キロは進んだであろう地点で立ち止まる。辿り着いた抗争現場はすでにボロボロで、壁が壊れて建物の中身が丸見えであったり、骨が剥き出しになっている箇所があった。そこかしこに弾痕が刻まれ、窓ガラスは割れ、入り口のゲートには立ち入り禁止を意味するテープが貼られていた。  今のところ人の気配を感じない。けれど、いずれここで抗争が起きる。  コウは息を切らしながら、生唾を飲んでテープを潜り抜けた。 「理一さん……」  誰にも届かないような声で呟いても、意味なんてない。でも、大きな声を出したとて、返事があるとは思えなかった。  広い敷地内を歩き続けると、此処でこれから抗争が起きるとは考えられなくなってくる。進んでも進んでも、誰もいない。  何かの間違いかもしれない。  洸は薄暗い通路で立ち止まり、振り返った。  すると、知らない人影を視認する。照明がなく、ちょうど暗がりになっているその場所で光る目だけが宙に浮いているように見える。 「西垣洸くん」  日本語で名前を呼ばれる。よく見ると大柄の男がぽつんと通路に立っていた。理一と同じくらいの身長で、しかし体の厚みは理一を凌ぐほどに屈強だった。  呆然としていると、男が距離を詰めてきて、ようやく危機感を覚える。  この人は、俺の名前を知っている。ならば、必然的に理一さんのことも知っているはず。  洸は一歩後ずさった。 「理一さんは……」 「あぁ、すぐに会わせてあげるから。こっちへおいで」  ゆっくりと一歩踏み出すと、男は徐々にスピードを上げて足早に詰め寄ってくる。  コウはくるりと踵を返して、手に持っていた地図を捨てて走り出した。  ──俺のことを捕まえようとしているのか、それとも殺そうとしているのか。どちらにしても、捕まれば理一さんに迷惑がかかる。  ──理一さんの誕生日までは、生きていたい。  散々に走り回った足は疲労でかなり重たく、スピードを上げれば肺と脇腹がズキズキと痛む。だけど、立ち止まってはいけなかった。  コウは広い工場内をひたすらに走り、理一の姿を探す。  ──理一さんは、本当はここにいないのかもしれない。でも、もしここにいたら? もし、本当にここで抗争が起きるとしたら?  たらればで思考を巡らせても、何も好転しない。むしろ、追い詰められているのではないか。  肥大化する焦燥感を抱えながら通路の角を曲がると、ロッカールームの室名札が見えてくる。振り返ると、男はまだ角を曲がる前だった。ゆっくりと歩いてこちらを追いかけ回す様は、余裕が滲んでいた。消耗戦に持ち込んで、捕まえる気なのだろう。  自分ももう、限界だった。  コウはロッカールームに踏み入り、左列の奥から三番目のロッカーに入り、扉を閉める。  場違いにも、理一さんと一緒に見た映画のワンシーンを思い出している。子供の頃にやったゲームにも、こんなシーンがあった。それらが重なって、今いるここが現実なのか空想なのか分からなくなる。  コツコツと足音が聞こえて、それは真っ直ぐにロッカールームに入ってくる。  バタン、バタンと一つ一つのロッカーを開ける音も、この緊張感も、全部作り物みたいだった。自分のいる場所に近づけば近づくほど、心臓が飛び跳ねる。  隣の扉が開いた瞬間。  コウは勢いよくロッカーを飛び出して出口に走った。しかし、すぐに屈強な腕が伸びてきて、手首を掴まれる。ぐいと引き寄せられると、羽交締めにされた。 「っ……」 「はい、鬼ごっこはおしまい。裏の駐車場でみんな待ってるから」  みんな、の中に花澄理一はきっと含まれていない。  状況を完全には理解できなかった。自分は今、何に巻き込まれているんだろう。 「な、なんで……」 「ん?」 「なんでこんなことするの……」  首を柔く絞められ、意識がぼんやりとし始める。 「若頭を組に連れ戻すには君が必要なんだよ」  ──君の力が必要なんだ。  穂高の言葉を思い出す。この人は、筿原組の人間だ。そして、ここで抗争なんて起きない。ただ、実際に抗争がある日に嘘を織り交ぜて俺を誘き寄せるためにでっち上げた情報。  ──俺は、穂高さんに騙されたんだ。  ──どうして、あの人を信用してしまったんだろう。出会った時から、信用しちゃいけない人だったのに。  コウが不甲斐なさで身じろぎ、腕から逃れようと暴れると、もう一本の太い腕が体に巻き付いてくる。ぐっ、と力を込められて体を押し潰される。コウは「うっ」と声をあげた。 「ほっせぇ身体……簡単に殺せそうだ。こんな壊れやすいもんをあの人は大事に大事に抱えてんだねぇ」  さらに力を込められて、内臓が押し潰され、骨が軋むのを感じる。小さく喘いでその辛さを逃がそうと必死になる。 「殺されたくなかったら大人しくついて来い」  はっ、はっ、と息を短く吐いては吸って、身じろぎをやめると男の腕から力が抜けていく。一気に血液が巡る感覚に体が熱くなった。  ──逃げなきゃ。  コウは首に巻き付く腕に思い切り歯を立てると、油断していた男がコウを突き飛ばした。  一目散に駆け出し、ロッカールームから右足を踏み出した刹那──カチャ、とスライドをずらす音が聞こえる。  次の瞬間、大きな音と共に鈍器で殴られたような痛みが左肩に走る。視界の隅で、血が飛び散る。  蹴躓き、廊下に倒れ込んだ。床に赤い液体がこぼれて、小さな水たまりを作っている。  ──肩を撃たれた。 「このガキ……思い切り噛みやがったな」  痛みになりふり構わず立ち上がろうとするが、強い衝撃を受けた体は上手く動かない。 「言うこと聞かないと、次は足撃っちゃうよ」  結局立ち上がることができずに男に抱き抱えられ、痛みの中で浮遊感を味わう。 「俺のこと……殺すの」  もう逃げられないことを悟り、男に全体重を預けて問いかける。 「大人しくするなら殺さないよ。車に行ったら肩の手当てしてあげるから」  既視感を抱き、ふと筿原さんに連れ去られた日を思い出す。  あの人は間違いなく死んだはずなのに、まるで今も生きていて、思うままに部下という駒を動かしているみたいだった。  死してもなお、動き続ける屍。  ──あはは、分からなくなっちゃった? 自分の存在意義が。  今でもはっきりと再生される声。  いつになったら、あの人の幻影から逃れられる。

ともだちにシェアしよう!