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【3部】第21話 行き止まりに注ぐ光
赤。この色をよく知っているのに、今はどうしても受け入れられなかった。
想い人の血液が失われていく様に、自身の無力さを知る。
理一は震える手で上半身の衣服を脱ぎ、コウの胸に当てて止血を試みた。
「コウくん……ダメだ……ダメだよ……」
どんどん白くなっていく肌。歪な呼吸。目の前の青年の命が儚く、削り取られていくのを見届けるしかなかった。
また、大切な人を失くしてしまう。
──嫌だ、嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
押さえつけた服に、血とは違う透明の液体が滴る。涙が込み上げて、視界を不明瞭にしていた。
──誰か、誰か──この子を。
──たすけて。
「あーあー、やっぱりね」
キーホルダーを人差し指に引っ掛けてくるくると回しながら、佐野巧美が軽い足取りで近づいてくる。
理一は涙を隠さず、現れた佐野を強く睨みつけた。
「この前会った時、色濃く死相が出てたもん。俺の勘ってやっぱり鋭いな」
佐野からすれば、この子が死のうが助かろうが、まるで関係がないんだろう。この男は、西垣洸とはもっと別の、薄汚い世界を生きているのだから。
ヘラヘラと笑っている佐野を、殺したくて殺したくてしかたなかった。でも、コイツしか──。
「お前、医者だろ……助けろ」
低く横暴に懇願すると、佐野が目を細めて妖艶に微笑む。
「ほらね、俺のこと殺さなくてよかったっしょ?」
「いいから早くしろ……!」
「態度悪ぅ」
「頼むよ……佐野……っ」
泣き言のように縋ると、佐野が無表情になった。
反して、自身の顔は怒り狂う表情に似つかわしくない、熱くて透明な液体が目からぽたぽたとこぼれていて、ただひたすらに情けなかった。そんな醜さを顧みる暇もないほど必死になっていた。
「……お前のそんな顔、初めて見たよ」
佐野は「どいて」と理一をその場から退かし、コウの容態を確認し始める。
この子だけは、どうか。
僕から奪わないで。
数時間ぶりに、ビルに戻ってくる。
地下室は拷問や殺人現場として使われているのに対して、地上の階は病室のようになっていた。あくまで環境を整えているだけで、病院とは全く違う。
ベッドに横たわり、静かに眠っている西垣洸を泣き腫らした目で見下ろす。
「内臓の損傷が激しい上に、心肺停止の時間が長すぎた」
佐野は白衣を着ていた。小脇にカルテのようなものを抱え、コウの容態を簡単に説明しているが、うまく意味を咀嚼できない。
理一はパイプ椅子に腰掛け、廃人も同然の状態で佐野の言葉に耳を傾けていた。
「まぁ、つまり……植物状態だね」
──植物状態。これから彼が意思表示することはもうない。あの大きな瞳に僕を映すことも──。植物状態とは、そういうこと。
理一は現実が受け入れられずに、平然と問いかけた。
「いつ目覚める」
佐野がキョトンとしてから白衣のポケットに手を突っ込んだ。
「さぁ? こればっかりはなんとも。いつか目覚めるかもしれないし、二度と目覚めないかもしれない。まぁ、洸くん次第だね」
理一は膝の上でぎゅっと拳を握った。
「そもそも、胸に弾丸を受けて一命を取り留めてること自体が奇跡なんだよ。彼、細い割にもともと体温高くてかなり健康体だったみたいだし? 健康に産んでくれた親御さんに感謝しないとね……あ、その親御さんをお前は殺したんだっけ? ははっ、サイテ〜! 親御さんはお前とこの子の結婚を絶対に認めてくれないだろうね」
腹立たしい軽口に刺激されて、感情がぶり返してくる。
理一は立ち上がり、佐野の胸ぐらを掴んだ。その拍子に、佐野が小脇に抱えていたカルテが床にばら撒かれる。
「この子はいつ目覚めるのかって聞いてんだよ……!」
佐野はゴミでも見るような目で理一を睨んだ。
「お前さ、何様のつもり? 元はと言えばお前が悪いんだろうが」
聞いたこともない低い声がして、胸ぐらを掴み返される。
「仇打ちのつもりで近づいて、まんまと惚れて、自分のものにしようと執着した結果がコレだろ」
佐野の正論で頭を強く打たれ、言葉が喉に突っ掛かる。何も、出てこない。
「甘えんじゃねぇよ」
突き放されると、佐野は自身の身だしなみを整えてから、ばら撒かれたカルテを拾い集めた。
ガチャリと部屋の扉が開くと、コンコンとノックの音が鳴る。それは入室を知らせるものというよりも、自身に意識を集中させるための所作だった。
「……お取り込み中?」
穂高が扉から顔を覗かせていた。
「あっ、穂高さ〜ん」
先ほどの形相がまるで嘘かのように、佐野はヘラヘラと笑って穂高に近づいていく。
「俺、やることやりましたよ。約束通り、もう俺の周り嗅ぎ回るのやめてくださいね。組にももう戻りませーん」
「はいはい」
佐野が穂高をすり抜け、どこかへと消えていく。
穂高は無意識だろうか、煙草を咥え、火をつけようとした。その瞬間に「いけね……」とポケットにしまい、ベッドに近づいてくる。
理一は再びパイプ椅子に腰掛け、無気力に穂高を見上げた。
「あの人がお前を拾ってから組織はめちゃくちゃだよ」
穂高がテレビ台の横に立てかけられていたパイプ椅子を広げると、ドカリと腰掛けた。
「尻拭いはしてやったんだ、あとの責任はお前が取れ」
理一は眠り続けるコウから目線を離すことができず、囚われていた。
「聞いてんのか」
「……穂高さんが組長やりゃあいいじゃないですか……俺みたいな若造じゃ、まだ荷が重いですよ」
抑揚のない声で言うと、穂高が「ははっ」と笑う。
「俺もそう思うね。お前が組長になるのはせいぜい二十年後くらいだと思ってたしなぁ……ま、先代命令は絶対だからな、お前には継いでもらうよ」
穂高が足を組み、コウを見下ろす。
「予定を狂わせたのは、間違いなく洸くんだね」
即座に穂高を睨みつける。
「だから、こんな目に遭わせたんですか」
責め立てると、穂高が呆れ顔を浮かべた。
「おいおい、人のせいにすんなよ。てめーでこの子を巻き込んだんだろうが。お前は周りの奴どんだけ不幸にすりゃ気が済むんだ」
「よくもそんなことが言える……全部知ってますよ……全部アンタの差金だって……やり方が回りくどいんですよ」
穂高が後ろめたそうに、誤魔化すように笑う。
「あ〜あ……佐野が余計なことすっから……」
ガタンと穂高が立ち上がり、目の前までやってくる。
「こうなった以上、目覚めるのは絶望的だ。愛しているならお前の手で終わらせてやれ。彼は長らくそれを望んでいたんだろう」
途端、逃げ出したい衝動に駆られる。
──嫌だ。絶対に僕は、この子と生きていく──ずっと、これからも──。
『でも約束してね。俺のこと、最後には絶対に殺すって』
ハッとして、衝動が鳴り止んだ。
──コウくんの、願い。
もう二度と目を覚さないのなら、僕の手で終わらせるのが、この子のためになる。この子は最初から、それを望んでいた。
この子を幸せにするには、それしかない。
心臓が嫌な音を立てている。
ゆっくりと、眠るコウの首に手を置く。
はぁ、はぁ、と呼吸が荒くなり、自分の心臓の音以外聞こえなくなる。
『俺は、理一さんに殺されたいよ』
西垣洸の声が鮮明に蘇り、決断を迫ってくる。
荒い呼吸は、いつしか過呼吸寸前までに乱れていた。
手に、力が──。
「できない」
ポツリと呟くと、「理一」と促される。
殺すことを強いられる。
──嫌だ。
──嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
コウの頬に理一の涙がこぼれ落ちる。
「できない……」
コウの寝顔を間近で見ると、コウの母親を思い出してしまう。
両親の元に帰る幼い西垣洸の姿が頭をよぎると、独占欲が肥大化して、暴走を始める。
「嫌だ……渡さない」
奥歯を噛み、その衝動を必死にこらえる。
「誰にも渡さない」
両親に駆け寄ろうとする幼いコウの腕を取り、自分の中に引き寄せる。すると、西垣夫妻がその手を掴み、引き剥がそうとしてくる。
「返せ」
手を伸ばそうとすると、筿原治の手がそれを阻んでくる。
「返せッ!」
絶叫すると、穂高に両肩を掴まれ、強く揺さぶられた。
「理一!」
額から汗が噴き出し、現実と幻影の狭間から引き戻される。
「お前が組に戻るなら、諦めがつくまでこの子を延命させてやる」
ぐぅ、と喉が鳴り、恐怖で震える。
「戻れ」
有無を言わせない穂高の情調に理一はただ気圧されていた。
「できないなら、俺が今ここで……殺す」
理一はゆっくりとコウに縋り付くような視線を送り、コウの存在を強く求めた。
──延命するにも、莫大な金がいる。
──もう、逃げられない。
「……分かりました」
呟くと、両肩から穂高の手が外れる。
「戻ります」
観念すると、張り詰めていたものが解けて、呼吸が楽になっていく。
カーテンの隙間から風がそよぎ、コウの髪を撫でていた。それと同時に光が差して、頬をキラキラと照らしている。
この子が生きていてくれれば。
もう、なんでもいい。
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