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第2話
一ヶ月前。
「おい。例の資料はできたのか」
高層オフィスビルの一角。
薫に声をかけられた社員が大きく肩を揺らした。
「は、はひっ。すみません。まだ、です」
しどろもどろになりながら首を振る社員に、薫は眉間に深いシワを寄せた。ため息を吐き、冷たく社員を見下ろす。
「もう期限が迫ってるぞ。前回は間に合わなかったよな」
「す、すみません……」
「間に合いそうにないならチームの誰かに協力を仰ぐなり対策をとれ。いいな」
「ひっ」
社員は凍てつく吹雪が薫の背後に吹いている錯覚を覚えた。全力で頷く。
その様子を見て、薫はさっさと踵を返して自分の席に戻った。
「こ、こえぇ……。あんな言い方しなくても良いのにな」
「さすが氷の鬼主任。お前も目つけられて可哀想になあ」
ひそひそとオフィスのデスクでは社員を慰める声が聞こえる。
薫がぎろりと睨みつけると、社員たちは怯えたように目を逸らして、そそくさと仕事に戻っていく。
薫はため息を吐いた。
――ガシャン。
自販機から飲み物が降りてくる。
(くそ、どいつもこいつも……)
――まともに仕事ができない。
それなのに、雑談だけは一丁前だ。
薫は休憩スペースでイライラと飲み物を取った。
缶を開け、ブラックコーヒーを一口飲んだ時。
「お疲れ様です、西条さん」
後ろから声をかけられた。
「ああ……」
聞き慣れた声に、ぴくりと眉を上げながら振り返る。
焦茶色の柔らかな髪に、甘いタレ目。
小柄ではない薫を、さらに上から見下ろしてくる爽やかな男は、営業部のエース、花宮 司だ。
新卒として入社してきてからわずか数ヶ月で社内トップに躍り出た、営業の天才。
薫は、花宮が苦手だった。
「なんか、イライラしてますね」
花宮は明らかに不機嫌な薫にも臆せずに話しかけてくる。
笑顔の花宮に薫は大きくため息を吐いて、目を細めた。
「うるせえよ。……何しに来たんだ、お前」
「やだな、休憩ですよ。ここ、共有スペースですよ?」
そう言って笑う花宮に、ちっと舌打ちをした。
五つも下のこの後輩はなぜか入社以来、部署も違うというのに顔を合わせるたびに親しげに話しかけてくる。
「なんかありました? 俺、話聞きますよ」
「いらねえ」
飄々とした態度の花宮は、つかみどころがない。
薫の一番苦手なタイプだ。
薫はそうそうに踵を返した。
ソファで少し休むつもりだったが、花宮がいるならここに居ても余計疲れるだけだ。
横を通り過ぎようとした時。
ふわ、と何かいい匂いがして、足を止めた。
「どうしました?」
きょとんと首を傾げる花宮。
薫は、眉をひそめた。
「……お前、香水変えたか?」
「え? いや、別に。てか今日はなんもつけてないですよ」
「……そうか」
気のせいだったのかもしれない。
薫は気を取り直して再び歩き始めた。
花宮が何か言いたそうに薫の背中をじっと見つめているのには、気が付かなかった。
◆
「あー! 疲れた!」
薫は帰宅して早々、着替えもせずにソファに倒れ込んだ。
時刻はあと少しで日付を回る頃だ。
「ちっ……。いてえな……」
ガンガンと痛む頭を片手で押さえる。
ここ最近、頭痛がひどい。
それに気だるく、熱っぽかった。
一週間前に病院にかかったのだが、その時は血液検査だけして返された。頭痛がひどくてあまり覚えていないが、何か検査をするとか言われた気がする。
そろそろ結果が出る頃だ。
薫は這うようにして机に置いてある解熱剤に手を伸ばす。
やや震える手でそれを掴み、ペットボトルの水で飲み下す。
頭の中でぐるぐると回っているのは、明日の仕事のことだ。
あれをやろう。これもやらなくてはならない。そのためには、あの人にアポを取らなければならない。そのためには何時に――。
考えながら、ふらふらとシャワー室へ向かう。
やっとのことでシャワーを浴び終えた時。ふと、スマホに通知が入っていた。
『花宮』
ディスプレイに表示されたその名前に、ぐっと目をすがめる。
『送別会の件ですが、今週の金曜日の19時、駅前の店を予約しておきました』
ふう、とため息を吐いた。
薫の所属する企画部では、今月いっぱいで退職をする社員がいる。
(なんで営業のお前が幹事なんだよ)
いや、あいつなら頼まれるか。
爽やかで人当たりが良い、華のある男を思い出す。
返信しようとした時。
「……っ」
頭痛がいっそうひどくなって、うなじあたりがじわりと熱を持った。スマホが手から落ちる。
(なんなんだよ……)
わずらわしく思うが、すぐにおさまったので薫は気を取り直してスマホを拾い上げた。
◆
「――それで、彼ったらひどいんですよぉ。シンガポールに着いてきてくれって。私、そこまで覚悟決まってないのになあ」
金曜日の夜。
挨拶や選別品を渡すなどのひととおりの工程が終わって、会はだんだんと無礼講に移りつつあった。
目の前で退職予定の女性社員が、赤ら顔をしながらぐび、とジョッキをあおる。
「ねえ、どう思う? 司さん」
酔ったように目元を赤らめながら隣に座る花宮に上目遣いを向ける女性社員に、薫は嫌悪感を覚えていた。
(寿退社だってのに、大した貞操だな)
甘ったるい声を出しながら花宮に半身をもたれようとする姿は、婚約者が見たらどう思うのだろうか。
そんなことを思い、腕時計にちらりと目をやる。
もうそろそろ帰っても何も言われないだろう。
頭痛もひどくなってきた。体もやっぱり熱っぽい。
「花宮」
向かいに座る花宮のところへ回り込み、こそりと声をかける。
財布から取り出した札を何枚か押し付けると、花宮が目を丸くした。
「多いですよ」
「良いから」
そう言うと、こちらを見上げる花宮に手を掴まれる。
「でも」
その時。
ぐわり、と腹から何かが湧き上がる感覚がした。
「……西条さん? どうしました? 顔色、悪いですよ」
はあ、はあ、と息が上がる。
ぐっと胸を押さえる。足を踏ん張ろうとするが、かくんと力が抜けてしまった。
「だ、大丈夫ですか!」
花宮に支えられる。
「えー? 主任、大丈夫ですか? 酔っちゃったのかな」
「そうみたい。……俺、ちょっと送ってくる」
どくどくと早鐘のように打つ心臓。
燃えるように体が熱い。
花宮に触れられた手が火傷しそうだった。
「はな、せ……!」
「良いから」
ひっそりと囁かれる。
そのまま体を支えられ、薫はぼんやりと熱に浮かれたまま、いつのまにか店の外へと連れて行かれていた。
「西条さん、大丈夫ですか?」
「……っは、はあ、はあ」
熱い。
熱い。
ごくりと、花宮が喉を鳴らした。
じっと薫を見つめる。
「……西条さん。熱ありますよね。薬とか持ってますか」
「は、あ? ああ……も、持ってる」
解熱剤は持ってきている。
「早く飲みましょう。水かなんかありますか」
「あ、ああ……。カバンに……」
とにかく熱い。
息を荒げたまま花宮にもたれていると、道行く人たちがみんな薫を見ている。
(なんで、こんなに注目されてるんだ……?)
もしかしたら自分はよっぽどひどい格好をしているのかもしれない。
そんなことを思っていると、手を引かれた。
「ちょっと、場所変えましょ」
「あっ……」
花宮に手を掴まれただけで、肩が震える。
さっきよりも、症状がひどくなっている。
明らかに酔っているからではない。
(どうなってんだ……)
花宮の広い背中をぼんやりと見つめながら、薫は自分の体の変化に戸惑った。
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