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第5話 腕を組んで、朝の月影館を出る

朝になっていた。 薔薇窓から、淡い金色の光が差し込んでいる。 昨日の夜、あれだけ俺たちを煽ってきた月影館は、何も知らない古い洋館みたいな顔で静まり返っていた。 壁に浮かんでいた文字もない。 勝手にめくれていた日記も、机の上で閉じている。 閉じ込められていた扉も、今は少しだけ開いている。 全部、終わったらしい。 俺は長椅子の上で目を開けた。 体は、昨日の余韻を覚えている。 でも、不思議なくらい気分は軽かった。 むしろ、元気だった。 好きな人に好きだと言われて、欲しがられて、腕の中で朝を迎えた。 そんなの、元気にならない方が無理だ。 「和也」 声がした。 顔を向けると、昇さんが近くにいた。 髪は少し乱れていて、シャツの襟も昨日の名残を隠しきれていない。 でも、目元は穏やかだった。 いつもの優しい先輩が戻っている。 全部が戻ったわけではない。 俺を見る目の奥に、昨夜の熱がまだ少し残っている。 それが嬉しくて、俺は思わず笑った。 「おはようございます、昇さん」 「おはよう」 昇さんは俺を見て、少しだけ目を細めた。 「朝から元気だな」 「はい」 俺は起き上がって、昇さんの方へ少し身を寄せた。 「先輩に元気もらえましたから」 言った瞬間、自分で顔が熱くなった。 またやった。 思ったことが、そのまま口から出た。 でも、本当だ。 昇さんが一瞬黙る。 それから、困ったように笑った。 「朝から強いね、和也」 「昨日で鍛えられました」 「それは俺のせいかな」 「はい」 俺は小さく頷いた。 「責任、取ってください」 昇さんの目が少しだけ熱くなる。 俺はその顔を見て、また胸が跳ねた。 優しい先輩なのに、俺だけが知っている昇さんが、そこに少し混ざる。 俺は、自然と唇を見ていた。 キスしたい。 朝から。 昨日あれだけしたのに、まだ足りない。 そう思っているのが、顔に出ていたらしい。 昇さんが、ふっと笑った。 「和也」 「はい」 「キスしたい顔をしてる」 「……してます」 否定できなかった。 昇さんの前だと、嘘が下手になる。 好きだとか、嬉しいとか、もっと近づきたいとか。 そういうものが、すぐ顔に出る。 「素直だね」 昇さんの声が優しい。 それだけで、胸の奥が甘く跳ねた。 「恋人ですから」 俺は小さく言った。 「キスしたいって顔しても、いいじゃないですか」 言ってから、胸がきゅっとした。 恋人。 口に出すと、昨日よりもっと現実になる。 昇さんは、俺の頬に手を添えた。 「じゃあ、恋人だから」 短いキスが落ちてくる。 優しいキスだった。 でも離れる直前、昇さんが低く囁いた。 「昨日の和也、可愛かったよ」 心臓が跳ねた。 「っ……」 言葉が出ない。 朝の光の中で、それは強すぎる。 「起きても、まだ可愛い」 さらに追い討ちされた。 顔が熱い。 何も返せない。 返したら、また変なことを言いそうだった。 俺は視線を落として、小さく息を吸った。 「俺は」 「うん」 「昨日の昇さんが、カッコよすぎて困ってます」 言ってしまった。 まただ。 でも、これは言いたかった。 「困ってる?」 「はい」 俺は昇さんを見上げた。 「みんなに優しい先輩が、俺だけにあんな顔するの、すごく嬉しかったです」 「和也にだけだよ」 即答だった。 胸が、熱でいっぱいになる。 何か言いたかったのに、言えなかった。 和也にだけ。 その言葉が、朝の光よりまぶしい。 昇さんは、もう一度俺にキスした。 今度は少しだけ長い。 でも、昨夜みたいに奪われるキスではない。 朝の光に溶けるような、甘いキスだった。 唇が離れると、俺たちはしばらく黙った。 たぶん、二人とも同じことを思い出していた。 昨日の夜。 昇さんの低い声。 俺だけを見る目。 逃がさない手。 優しい先輩の奥から出てきた、俺だけが知っている本性。 顔が熱くなる。 昇さんも、少しだけ視線をそらした。 「和也も、昨日は可愛かったよ」 「どこがですか」 「全部」 「全部はずるいです。ちゃんと言ってください」 言ってから、少し後悔した。 ちゃんと言われたら、たぶん耐えられない。 でも、聞きたかった。 昇さんが少し考えるように、俺の髪を撫でた。 「俺の名前を呼びながら、必死にしがみついてきたところ」 「っ……!」 声が出なかった。 思い出した。 完全に思い出した。 「あと、強がってるのに、褒めるとすぐ顔がほどけるところ」 俺は口を開きかけて、閉じた。 返せない。 事実だった。 昇さんに褒められると、体の奥からほどけてしまう。 「俺のこと、もっと欲しいって言ったところ」 顔が一気に熱くなる。 昇さん。 そう呼ぼうとして、声にならなかった。 昇さんまで、少し赤くなっていた。 自分で言って、自分で思い出した顔だった。 「……ごめん」 その顔が、たまらなく好きだった。 低い声で俺を煽った人と同じ人なのに。 今は、朝の光の中で少し照れている。 その両方が、同じ昇さんの中にある。 「昇さんも、赤いです」 「和也が可愛かったからね」 また追い討ち。 今度は何も言い返せなかった。 胸がいっぱいで、顔が熱くて、視線を合わせるだけで精一杯だった。 昇さんも、俺を見て黙る。 二人で黙った。 朝の光が、薔薇窓から差し込んでいる。 昨日の夜とは違う、穏やかな光だった。 なのに、俺たちは二人とも真っ赤だった。 「……恋人って」 俺は小さく言った。 「こういうものなんですかね」 昇さんが、少し笑った。 「たぶんね」 「じゃあ、慣れないとですね」 「慣れるかな」 「慣れないかもしれません」 「俺も」 昇さんの手が、俺の頬に触れた。 優しい手。 昨日の熱を知っている手。 「でも、慣れなくてもいいか」 「はい」 俺は頷いた。 「その方が、ずっとドキドキできるし」 昇さんが、柔らかく笑った。 「和也」 「はい」 「キスしていい?」 「恋人ですから、もちろんです」 「そうだね」 朝の光の中で、キスをした。 優しくて、甘くて、少し照れくさいキス。 でも、胸の奥は昨日と同じくらい熱かった。 **** 服を整えて、書斎を出る準備をした。 長椅子。 薔薇窓。 机の上の日記。 昨日の夜、ここで全部が変わった。 俺は部屋を見回して、少しだけ息を吐いた。 「怜司さんと律さんも、少しは満足したんでしょうか」 「そうだといいね」 昇さんが、静かに答える。 月影館は、怖い場所だった。 迷惑だった。 かなり迷惑だった。 でも、俺たちには必要だったのかもしれない。 恋人になる為に。 そう思うと、少しだけ腹立たしくて、少しだけ感謝したくなる。 「昇さん」 「うん」 「また来ます?」 言った瞬間、昇さんが俺を見る。 目が、少しだけ熱を帯びた。 「なるほど、ここなら、誰にも邪魔されないからね」 息が止まった。 そういう意味で言ったつもりは、少ししかなかった。 少しはあった。 だから、言い返せなかった。 またやった。 俺は、あの館にもう一度来ることを、少しだけ考えていた。 昇さんとなら。 「……少しだけ、思いました」 小さく認めると、昇さんが笑った。 優しいだけじゃない、昨夜の熱を少しだけ残した笑みだった。 「正直でいいね」 その声が優しくて、また胸が甘く跳ねた。 「はい」 俺は顔を赤くしたまま、頷いた。 「昇さんとなら、また来たいです」 言った。 言ってしまった。 でも、今度は逃げなかった。 昇さんが、俺の髪をそっと撫でた。 「じゃあ、また来ようか」 「……はい」 また来る。 この館に。 出られなかったはずの館に、今度は自分たちから。 やばい。 でも、嬉しい。 俺は胸の熱をごまかすように、昇さんの袖を軽く掴んだ。 昇さんがそれに気づいて、腕を差し出す。 「裾?」 「違います」 俺は、その腕に自分の腕を絡めた。 「もう裾じゃなくていいじゃないですか。恋人ですから」 昇さんの目が、柔らかくなる。 「うん。腕でいいよ」 その一言で、胸がいっぱいになった。 月影館に入った時、俺は昇さんの裾を掴んだ。 暗いから。 怖いから。 近くにいたいから。 でも、言い訳をしていた。 今は違う。 恋人だから。 好きだから。 触れたいから。 それだけでいい。 俺は昇さんの腕に、ぎゅっとしがみついた。 「重くないですか」 「ちょうどいいよ」 「ちょうどいいって何ですか」 「和也が隣にいる感じ」 また。 そういうことを、さらっと言う。 俺は言い返そうとして、やめた。 言い返せなかった。 嬉しかったからだ。 隣にいる感じ。 それを、ちょうどいいと言ってくれる。 「……俺も」 「うん」 「昇さんの隣、ちょうどいいです」 昇さんが柔らかく笑った。 その笑顔だけで、俺はまた胸がいっぱいになった。 **** 書斎の扉は、簡単に開いた。 廊下も、昨日とはまるで違って見えた。 古い絨毯。 壁に並ぶ肖像画。 埃をかぶった燭台。 蔦の影。 夜は不気味だったのに、朝になると、ただ古いだけの洋館だった。 俺たちは腕を組んだまま、ゆっくり廊下を歩いた。 途中で、月城怜司と思われる肖像画の前を通る。 昨夜は、薄く笑っているように見えた絵。 今朝も、やっぱり少し笑って見えた。 「お世話になりました」 俺は小さく言った。 「でも、やり方はどうかと思います」 昇さんが隣で笑う。 「そこは言うんだね」 「言います。感謝はします。でも、苦情もちゃんと言います」 「和也らしいね」 肖像画は、何も答えなかった。 でも、薔薇窓から差し込む朝の光が、廊下の奥まで伸びていた。 無念は果たせた。 そうならいい。 俺は、それ以上は言わなかった。 玄関ホールまで来ると、大きな扉が開いていた。 外の空気が流れ込んでいる。 草の匂い。 湿った土の匂い。 朝の匂い。 本当に出られる。 俺は昇さんの腕に、もう一度しがみついた。 「行きましょう」 「うん」 「腕、離しません」 「離さなくていいよ」 「恋人ですから、当然です」 「そうだね」 外へ出る前に、俺はもう一度だけ振り返った。 月影館は、朝の光の中で静かに佇んでいる。 怖い館だった。 迷惑な館だった。 でも、扉の奥が妙に静かで、少しだけ寂しそうにも見えた。 「……また、来ます」 小さく言うと、廊下の奥で、古い木がきしむ音がした。 返事みたいだった。 俺は少しだけ笑って、昇さんの腕に寄り添った。 外に出る。 朝の光が、目に眩しかった。 月影館の庭は、昨夜よりずっと明るい。 蔦に覆われた外壁も、錆びた鉄柵も、苔の石段も、朝の中では少しだけ優しく見える。 不気味さは残っている。 でも、怖さより、胸の熱の方が強かった。 俺は振り返った。 月影館は、そこにある。 何もなかったみたいな顔で。 「……次は、ちゃんと休みの前日に来ましょう」 言ってから、しまったと思った。 下心丸出し。 またやった。 昇さんの前だと、本音がすぐ口から出る。 昇さんが、ふっと笑った。 「ふふ。和也、もう次の予定を立ててる」 「あ……」 「可愛い。そして、正直」 顔が一気に熱くなった。 何も返せない。 少しだけ、本当に思ってしまった。 またこの館に来るなら、ちゃんと休みの前日にした方がいい。 そんなことを。 「……少しだけです」 「うん」 「少しだけ、思いました」 「素直でいいね」 昇さんの声が優しい。 それなのに、胸の奥がまた甘く跳ねた。 「二人で考えようか」 俺は小さく頷いた。 「……はい」 また認めた。 でも、昇さんが嬉しそうにしているから、もういい気がした。 朝の光の中で、短いキスをした。 恋人のキスだった。 **** 星窓大学に戻って、最初に向かったのはオカ研の部室だった。 古い資料を確認するためだ。 月影館の調査記録。 数年前のOBが残したはずのメモ。 黄ばんだファイル。 昨日、確かに見た資料。 けれど。 「……ないですね」 俺は棚の前で固まった。 昇さんも、隣でファイルをめくっている。 「ないね」 「昨日、ここにありましたよね」 「うん」 「月影館って書いてありましたよね」 「書いてあった」 「OBの調査メモもありましたよね」 「あったね」 「ないですね」 「ないね」 二人で沈黙した。 部室はいつも通りだった。 積み上がった古い雑誌。 謎の民俗資料。 埃っぽい本棚。 誰かが置いていったコンビニの割り箸。 でも、月影館の資料だけがない。 スマホで検索しても、何も出てこない。 地図にも、それらしい洋館はない。 昨日歩いた道を辿ろうとしても、記憶が途中から曖昧だった。 「……昇さん」 「うん」 「まさか、俺たちの妄想?」 「まさかね」 そう言いながら、俺たちは同時に黙った。 昨日の記憶は、鮮明すぎる。 鮮明すぎて、顔が熱い。 「妄想にしては、濃すぎます」 「そうだね」 「あと、二人同時に同じ妄想は、かなり難しいです」 「うん。かなり高度だね」 「真面目に検証されると、余計に恥ずかしくなります」 昇さんが笑った。 「じゃあ、二人だけの怪異ということで」 その言い方が、少しロマンチックで、少しずるかった。 二人だけの怪異。 俺と昇さんだけが覚えている、月影館の夜。 悪くない。 かなりいい。 そう思った時、俺のスマホが震えた。 「え」 画面を見る。 撮った覚えのない写真が一枚、保存されていた。 朝の月影館。 薔薇窓の書斎。 机の上の日記。 開いたページに、赤い文字が浮かんでいる。 『恋人未満での再入館は推奨しない』 俺は固まった。 昇さんが画面を覗き込む。 「再入館、だって」 「また来いってことですかね」 「そうかもしれないね」 「……恋人なら、入館してもいいんですかね」 言ってから、遅れて気づいた。 これ、もうする事ばかり考えている人の発言だ。 またやった。 昇さんの前だと、思ったことがすぐ口から出る。 昇さんが、ふっと笑った。 「ふふ。和也、本音が出てるよ」 「あ……」 「可愛い」 顔が一気に熱くなった。 何も返せない。 俺が黙っていると、写真の赤い文字の下に、薄い線が一本だけ伸びた。 まだ続きがあるみたいに。 でも、それ以上は何も書かれなかった。 「……今、続き書こうとしませんでした?」 「したように見えたね」 「やめてほしいです」 「でも、和也は少し気になってる」 「……少しだけです」 「正直でいいね」 昇さんは、いつもの優しい先輩の顔で笑った。 そのくせ、机の下で、俺の指にそっと触れる。 ほんの一瞬。 誰にも見えない距離で。 それだけで、心臓が跳ねた。 「次は、ちゃんと休みの前日にしようか」 また、胸が跳ねた。 次。 その言葉が、もう嬉しい。 俺は小さく頷いた。 「……はい」 言ってから、また顔が熱くなる。 また認めた。 でも、昇さんが嬉しそうにしているから、もういい気がした。 月影館の噂は、どこにも残っていない。 でも、俺たちの間には残っている。 腕に絡めた温度も。 朝のキスも。 机の下で触れた指も。 全部。 だから、たぶん。 あの館は、確かにあった。 そして、いつかまた俺たちを呼ぶ気がしている。 恋人未満での再入館は推奨しない。 なら、恋人なら。 そこまで考えて、俺はまた顔を伏せた。 昇さんが、隣で楽しそうに笑っている。 俺は小さく息を吐いた。 出られない館は、もう出た。 でも、昇さんからは、たぶんもう出られない。 出る気もない。 かなり、幸せに。

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