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第10話 足音
「――グエン。俺、用事あるからもう行くな」
こちらを見るジェスに、目を合わせられなくて、
マドックの馬車を見届ける振りをして、頷く。
「ああ」
少しの間、ジェスはそのままこちらを見ていたけれど、
それから、何も言わずに体の向きを変えた。
一歩、二歩、歩き出したジェスの背中に、思わず目線が吸い寄せられる。
呼び止めたくて、でも何を言えばいいかわからなくて、口をつぐんだ。
週末の夕方、ジェスはいつも外出する。
特別な許可をとっているのか、月に二回までの制限を超えて、門限を超えても帰らない。
一度、どうしても気になって、夜中にわざと廊下でかち合わせたことがある。
その時の、ジェスから香った甘い匂いに、
そんなことしなければよかったと、死ぬほど後悔した。
知らなければ、ただ好きでいられた。
無知なままでよかった。
気をつけろよ、とか、楽しんでこいよ、……とか。
恋人に会いに行くジェスに、自分がかけられる言葉は、最後まで見つけられなかった。
「グエン、今日助かった。ありがとな」
その夜。
自主練を終えて、風呂場から戻ってきたところで、ハネスに声をかけられた。
「いや、――お前、どうしたんだよそれ」
「いやー、びっちょびちょだよな。急に土砂降り。参った」
頭からずぶ濡れのハネスに、思わず一歩下がると、
わぁひっどい、などと言いながらもハネスは廊下を奥へと向かった。
「風呂場閉まる前に、湯使っとけよ」
自分の部屋の扉を開けようとするところに声をかけると、
ハネスは軽く頷きながらこちらを振り向いた。
「んー、そうする。なあ、悪いけど暖炉の火面倒みてくんない」
開いた室内を指差されて、確かにな、と思う。
「おう、いいぜ」
ハネスの部屋へ入り、濡れた外套を脱いで、着替えを持って出るハネスを見送り、暖炉に火を起こしてやる。
部屋に戻ってきた時に、体を冷やしてしまわないように。
細い薪を組んで、少しずつ火を大きくする。
温かい空気が頬を照らして、少し冷え始めていた自分の体もじんわりとほどけてきた。
ふと、今日見たジェスの背中を思い出す。
出かけると言っていたけれど、大丈夫だろうか。
――わざわざ土砂降りの中帰ってくることもないか。
思わず鼻を鳴らして、少しずつ大きくなってきた火の中に、太めの薪をくべた。
湯を沸かしておくために腰を上げ、窓の外を見る。
冷たい風と雨が打ち付ける向こう、すっかり闇に沈んだ夜が佇んでいた。
「助かった。今日は本当何から何までありがとう」
「いいよ。お前も大変だもんな。後任決まったのか?」
温かい茶を啜りながら、ハネスはこくりと頷いた。
「もうすぐ決まりそうだ。――来年からは二人制にしてもらった」
「――ああ……、それは、いいな」
最終学年になってからの、友の大変さをよく知っていたから、心からその言葉に賛同できた。
ハネスはそつなくグエンやジェス、他の友人達を頼れる人柄だからよかったけれど、
そうでなかったらきっともっと大変だった。
「ほんとは三人、寮監一人と、副二人が良かったんだけど。
寮監特典そんなにばら撒けないって言われちゃった」
「なんかそんな特典あったか?」
ピンとこなくて首を傾げると、ハネスは肩をすくめてから、また茶を一口啜った。
「時間外の風呂場とか食堂の使用許可。でも、自分で全部やらないといけないから、そんなに良くない」
「――っ、それは、確かにっ。ふ、ふは」
どれだけ時間外利用が許可されていても、湯を温めたり、食事を作ったりを自分でしなければならないのなら、正直意味はない。
「お前、……すごいただ働きさせられてるんだな……」
「そうだよー。まあ、門限緩めなのは唯一おいしいかな!」
ハネスはそう言いながら、食堂からもらってきたパンにかじりついた。
そろそろ門限の時刻。
今日もジェスは帰ってこないんだろう。
「俺も腹減った」
「おお、食えよ」
それから、しばらくハネスと二人、パンや果物をかじりながら、他愛のないことや、今の授業のことなどを話して、
そのまま二人、暖炉の前で寝落ちした。
だから、
明け方、自分の部屋を隔てた向こう、ジェスの部屋へ、
いつもより重たい足音が帰ってきたことには、ちっとも気が付いていなかった。
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