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第26話 ひどい
グエンは、判断を急がせなかった。
決して簡単な判断ではない。
文字通り、人一人の人生がかかった大きな判断になる。
そして、――罪深い裏切りにもなる。
だけど、今のグエンには、この上ない救いの光にしか見えなかった。
それから、約束の日まで。
グエンは淡々と日々を過ごし、食堂でジェスと会うことがあれば普段通りに会話をし、穏やかに残りの日々を過ごした。
唯一、宝飾店で出来上がった共鳴具を受け取った時に、
未来の妻に、この臍飾りのことをどう説明するのかだけ、頭を悩ませた。
だから、約束の日。
三ヶ月ぶりに会うマイカの姿を見て、この人にも同じ悩みを抱えさせることになること、
今更気がついて、自分の迂闊さに笑うしかなかった。
管理官との軽い打ち合わせのあと、交渉の儀式のための部屋に二人きり残されて、
グエンはマイカにむきなおった。
「――はじめても、大丈夫?」
これから体を合わせる人に、あえて、親しみを込めて呼びかけてみる。
マイカは小さく頷いて、グエンの手の届くところへと近づいてきた。
無言の肯定。
それが、今のこの関係にはちょうどいいくらいに思えた。
マイカの服のボタンに手をかけてから、少し思い直して、中指の背でその首筋に触れる。
「――っ」
びくりと揺れた肩に、思わず顔を見る。
俯き加減の様子に、緊張しているのだと知れた。
「あの……さ、マイカ」
そうっと、首元に手のひらを這わせる。
「俺、はじめてだから、こういうの。ものすごく緊張してるし、うまくできないかもしれない」
ジェスと同じくらいの背格好。
その人が、緊張に身を固めて目の前にいる。
自分に、抱かれるために。
大きく息を吐き出して、マイカが口を開いた。
「――うまく、しようとしなくて、いいと思う」
少しかすれたその声に、だからグエンは笑うことができた。
「……うん。マイカも。」
耳元から、頬に手をすべらせる。
少しだけマイカの顔が傾いて、手のひらに頬が寄せられた。
「怖がっていい。……恥ずかしがっていい。だけど」
ああ、かわいいな。
手のひらに体温を委ねてくれるその姿に、胸の中へとふわっとしたものが降ってきた。
目の前にいるのは、顔も知らない、男の人だけれど。
こうして自分に委ねてくれる姿を、かわいいな、と思えた。
重ねている姿が誰かなんてのは、自分に言い訳するまでもないけれど。
「俺、あなたの顔がわからないから。
できたら、声とか、顔とか……。
嫌とか、いい、……とか。我慢しないで欲しい」
マイカが、息を呑んで、あごを引いて、
グエンの言葉を受け止めているのがわかった。
でも、マイカに怖がって欲しくなかった。
身代わりでもなんでも、今、目の前のこの人を、怖がらせたくなかった。
「……わかった。」
少し硬いその声に、少しだけ口元が緩む。
「無理はしなくていいよ。ただ、どんなふうでも、……大丈夫ってこと」
そう言って親指でマイカの頬をさすると、
手のひらの下、その顔が小さく震えながら頷いた。
「――名前を、」
そこで言葉が切れて、マイカの顔が下を向いた。
「名前……、呼んでいいかな」
その言葉に、出会ったころのジェスの声がだぶって、思わず息を呑んだ。
――名前、呼んでいいかな。グエンって。
「――っ、」
グエンの動揺を感じ取ったのか、マイカが少し顔を上げて、こちらを見る。
その顔を引き寄せて、額を合わせた。
「グエン」
名前を――グエンダリオではなくグエンと、告げる。
今、この場では、
そう呼んで欲しかった。
「……グエン」
「うん。……呼んで」
ぎゅっと目を閉じて、いたみをこらえる。
今、自分は、
ひどいことをしようとしている。
「――グエン」
ジェスの代わりに。
名を呼んでもらって、体を暴こうとしている。
しばらく黙っていたマイカが、小さく息を吐く。
「グエンも。……無理は、しなくていい。
好きな人、いるんだろ――っ」
だから、その口をふさいだ。
自分の唇で。
言葉を続けようとしていたマイカの口は、拒むことなくグエンの口付けを受け止めて、
そのまま、動きを止めた。
ジェスの唇は、どんなんだろう。
押し付けた唇から舌を差し出して、確かめるように、触れる。
受け入れて欲しくて、顔を少し傾けた。
「――っ」
マイカの鼻から抜ける息に、思わず目を開けた。
目の前、確かにそこにいるのに、
目を見開いてこちらを見るマイカの顔は、
よくわからなくて。
だから一層、胸が痛んだ。
代わりにしようとしている。
たった一度だけ。
役割のために重ねる体を、
自分の欲のために、使おうとしている。
空いた方の手を、マイカの背に回して引き寄せる。
手のひらで感じる筋肉の張りと、胸元、布越しに伝わる少し高い体温。
目を瞑らなくても、ジェスがそこにいるように感じられて、
頬に沿わせた手をあごに添えて、口の中を割り開いた。
「――んっ、ん」
マイカの手のひらがグエンの肩を、胸をほんの少しだけ押し返して、
でもすぐにその手から力が抜けた。
そのことに、腹の底のほうから、熱のような、震えのような、わけのわからないものが湧き上がって、
胸の痛みを、覆い隠していった。
「っあ、――グ、グエン」
「――まだ」
少し離れた唇を追いかけて、またふさいで、
マイカの息が浅く跳ねるのにつられて、その背中をより強く引き寄せた。
音がするくらいについばんで、少しのけぞる首を引き寄せて、
――とまれなかった。
「マイカ、――触らせて」
上衣のボタンに手をかけて、手早く外す。
現れた体に触れて、その熱に、しっとりとなめらかな肌に、目を奪われた。
「――ぁ、」
――もっと。
肩から服を落として、あらわになった胸元、その素肌をなでおろしたら、
マイカの体が震えて、腰がよじれて、それがたまらなかった。
もっと見たかった。
「――マイカ」
「ん――っ」
頭を下げて、顎の先、首すじを喰む。
「グエン――っ」
「呼んで」
鎖骨にも、唇を落とす。
その先を目で追って、
下から手のひらでなであげて、盛り上がる胸筋を覆った。
「――ん、やめ」
「無理」
逃げようとする腰を引き寄せる。
――こんなふうに、本当は触れてみたかったから。
「嫌がっていい」
言い訳のように言って、でも、逃せなかった。
「あ、ぁ――っ」
手のひらの下、小さな突起を見つけて、親指の爪で少しなぞる。
思いのほか、大きく肩が揺れて、マイカの喉が甘く啼いた。
ああ、なぜだろう。
「かわいい。――マイカ、やばい」
耳の奥に蘇る、熱に浮かされたジェスの吐息。
こんなふうに、ジェスもなくだろうか。
――まさか。
腹の奥が震えて、誤魔化すように体を押し付けた。
逃げようとするマイカの体を追いかけて、次はそこを舌先でなぞる。
「――ぁ、あ!」
「――聞かせて」
ため息のように言葉がこぼれて、マイカの喉が小さく鳴って、
バランスを崩しそうになったマイカを、両腕で咄嗟に抱きかかえて。
お互いに、しがみついた。
「……聞かせて欲しい」
歯を食いしばって、きつく目を閉じる。
息を吸い込んで、ほのかに立ち上る汗のにおいを、胸に吸い込んだ。
違っていてもいい。
そうだと、思い込めたらよかった。
ひどい、
ひどく甘くて、苦い、優しい、いっときの夢だ。
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