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第36話 残像

 自分が前線へ向かう準備は、もうほとんど整っていた。  しばらくは天幕生活になるから、今日のうちに髭を剃って、しっかりと休息しておくことだけが支度といえば支度だった。  ひげ剃りを置いて、鏡を眺める。  昼間見たグエンの顔は、記憶にあったよりずっと痩せて、疲れて見えた。  自分も、グエンの隣人だった頃と思うと、覇気のない顔をしている。  ――忙しいのだろうか。  湯に浸した布で顔を拭って、ため息をついた。  明日からは、共に行動だ。  重たい足取りで部屋の奥へ向かい、「扉」の前に立つ。  ドアノブに手をかけると、見慣れた回路が淡く浮かんで、扉はゆっくりと開いた。  交渉の部屋。  そして――マイカの部屋。  夜の色に沈んだその部屋の中、きらりと光るものが目に映った。    「共鳴具」だと、管理官は言っていた。  透明の水晶の中に、きらきらと光を跳ね返すカケラを閉じ込めた、小さな石。  グエンが、マイカのために用意した、二人をつなぐはずだったもの。  ――返すべきだ。  管理官には、返しても意味がないと言われていたが、  グエンが足を踏み入れないこの部屋に、置いておくべきものでもないはずだった。  頭では、わかっていた。  少しの間、そうして部屋の中を眺めて、中には入らずに扉を閉めた。  寝台に体を横たえて、天井を眺める。  目の奥、小さな光の残像が、しばらく揺れていた。  前線の拠点は、魔獣が多く住む森の手前、隊が毎年拠点を構えている沼の近くに設けられていた。  砦から黙々と移動し、拠点に着いたらすぐにグエンは森の中へと入っていった。    拠点には治癒術師もいるが、腐敗の毒は小さな傷口からも体の中に忍び込む。  些細な怪我でも拠点に戻らなければならないことが、この前線の動きを重たくしていた。    だから、グエンのような魔法騎士が重宝される。 「ジェス、腐獣ってどんなんなんだ?」  天幕の設営をしていると、ニルガスに聞かれた。  あまりこの地方では見ないらしく、腐獣の対処方法を知っていただけで周りから期待の目で見つめられた。 「腐敗の毒に汚染された魔獣のことです。核になる魔獣が一体いて、それが撒き散らす毒でどんどん増えるんです」 「あっ、腐獣っていう種類じゃないのか」  ニルガスの言葉に、少し笑って頷く。 「そうなんです。基本的には腐敗の毒に侵されると、動きはのろくなるんですよ。  だから、元の魔獣がどんなに手強い奴でも、倒すのは難しくないはずです」  へえ、と相槌を打って手を動かすニルガスは、少し中空を見上げてからまた言葉を続けた。 「じゃあ、腐敗の毒に気をつけたらいいのか?結界の中から攻撃するようにすればいい?」 「そうですね――、基本的には。  ただ、核になってる魔獣はそうじゃないので。  手強い魔獣が核だと大変かもしれません」 「あー……、なるほどね」  頷いて、天幕の隅のロープをぐいっと引っ張った。  ほどけてこないようにしっかりと結び目から編み上げて、設営を終わらせる。 「――ありがとうございます。助かりました」 「いいよ。これ一人で建てるの無理だろ。  副隊長んとこ行こうぜ、そろそろ交代だろ」  促されて腰を上げると、森からの風が鼻先をなでた。  冬眠明けの魔獣たちは、きっとみんな腐敗の毒にやられてしまった。  目覚めなければ、腐りかけた自分に気づくこともなかったはずなのに。  副隊長の元には、拠点を整えた騎士たちが集まりつつあった。 「――ジェス、ちょっといいか」  副隊長に呼び止められ、隊列には加わらずにそちらへ向かう。 「はい」 「ハーウッドだが、お前が戻る時間帯になったら引きずってでも連れ戻ってこい」 「――引きずってでも、ですか」  副隊長は軽く頷くと、森の方を見やって少し首を振った。 「ディッカー殿が――ガレス殿が、かなり無茶して前線に粘ってる。  そっちは隊長が調整するが、ハーウッドも同じ隊からきてる騎士だ。少し気になる」  ふと、グエンの疲れた顔が脳裏をよぎった。 「休憩も仕事のうちだ。ガレス殿はともかく、ハーウッドは大丈夫だろうと思うが……、ゴネたら命令に従えって言ってやってくれ」 「わかりました」  副隊長の言葉に応えると、顎をしゃくって隊列を示され、一礼してその場を離れる。  ガレスがそこまで無茶をする理由がわからなかった。  空間魔法による結界は確かに有効だが、距離を取って戦うとか、他にもやりようはあるはずで、ディッカーがいなければどうにもならない前線でもないはずなのに。  空間魔法――。  少しだけ、背中がぞわりとした。  今この隊で、空間魔法を扱えるのはたったの二人。  引きずってでも、グエンを連れて戻らないといけない。  春を迎えつつある森の中は、いやというほど平穏な空気に包まれていた。  魔獣の気配は薄く、代わりに時折小動物が姿を見せる。 「――去年って、もっと寒々しくありませんでしたか」  隣を歩くニルガスに尋ねると、軽く頷いて口を開く。 「今年、冬あったかかったしな。春が来るのも早かったんじゃないか」 「あったかかったですか?」  少し首をひねると、ニルガスは笑って手のひらを振った。 「中央からしたらどのみちあったかいよな」  確かに、その通りだ。  中央は、このあたりよりずっと寒い。 「だから、春の討伐自体も少し早まったんだけど。森の中は思ってたよりずっと春らしくなってるな」  その割には、冬眠明けの魔獣の気配がない。  まるで魔獣たちを置いて、森だけが冬から目覚めてしまったように。  最前線に合流するまでに、いくつもの黒焦げになった魔獣の死骸があった。  腐敗の毒をこれ以上撒き散らさないように、焼却処分されたものだろう。  思ったよりも多かった。   「こんなに腐獣になってるなら、この討伐、案外早く終わるかもしれないですね」  焼けた死骸を眺めながら言うと、ニルガスは肩をすくめた。 「だよな。腐獣はトロいんだろ?狩るのが楽なら早く終わるだろうし、数によっちゃ、夏の遠征も暇になるかもな」 「参ったな。あんまり暇だと団の稼ぎが減るぞ。去年代替わりしたから、狼も今年はおとなしいはずだ」  前を行く騎士が話に加わり、しばらく今後の見通しについて意見を交わし合った。    やがてざわめきが近くなり、喉の奥にへばりつくような、重く甘ったるい、嫌なにおいが漂いはじめた。    

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