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第38話 天幕
「核ってのは、少しも弱ってないんだろ?」
熊の腹に突き立てた槍を引き抜きながら、騎士の一人が言った。
「そうだな。……今のは、もう一つ手ごたえがなかったな」
隊長が熊の死骸を見下ろし、首を振る。
他の騎士から槍を受け取って穂先の血のにおいを嗅ぎ、顔をしかめた。
「……腐獣には違いない。が、核じゃない」
辺りにはもう、ずっとあの甘ったるいにおいが漂っている。
それでも隊長は、穂先から顔を逸らして大きく息をした。
「それほどすぐに見つかるものでもない。以前東部で発生した時には、核が冬眠してしまったから、結局見つかるまでに数ヶ月かかったそうだ」
隊長の後ろからガレスが言って、周りの騎士たちがざわめいた。
「そんな士気の落ちることを言ってくれるなよ。……少なくとも今回は冬眠明けだから、そんなことにはならんだろう」
振り返った隊長が肩をすくめると、ガレスは前髪をかきあげて、目線を落とした。
「――ああ。できるだけ、早く片付けよう」
ちらりと拠点の方角を振り返ってからガレスが言い、隊長は労わるようにその背中を叩いた。
「とにかく、一旦前進だ。だが無理はしない。
あんたの隊の方針は聞いたが、ここでは俺が隊長だ。」
その後は、もう少し先のエリアまで前線を押し上げ、結界補助の魔道具を敷いた。
「これは……、出入りを感知することしかできない。閉じ込めはできない」
後発隊が持ち込んだその魔道具にガレスは渋い顔をした。
だが、隊長は軽く頷いて十分だと返した。
「前線のこっち側だって、全て潰した保証はない。どのみち警戒は必要だ。じゃあ、単に閉じ込めるよりは、どれくらい活動があるか測れるほうが戦術としては有用だ」
「しかし、拠点に腐獣を近寄らせては」
「拠点にどれだけ騎士がいると思ってる。夜間でも警戒は続ける。それより、俺はあんた達を休ませたい。
――いいか、あんたの価値は、やれることじゃない。やり続けられることにある」
ディッカーといえど魔力は無尽蔵ではない。
ましてや、体力は人と変わらない。
隊長の言葉に口をつぐんだガレスは、そのまま拠点へ連れ戻された。
グエンも同様に。
拠点に戻ると、ガレスは治癒術師の天幕へと放り込まれ、そのまま姿を見せなくなった。
ジェスも、副隊長の指示でグエンを天幕へと連れて行き、その背中を押し込んだ。
「お前の天幕だ。……飯とか持ってくるから、休んどけ」
天幕に顔だけを突っ込んで言い、その場を離れる。
腐獣の返り血を浴びているかもしれない。
装備を清めるため、桶に水を汲んだ。
天幕へ戻り、腰をかがめて桶を運び込むと、すぐ背後からニルガスの声がした。
「ジェス、奥いけ。お前らの飯持ってきたぞ」
「は、……え」
「今そっちの、……グエンって言ったか?あんたが出てったら多分あちこちから質問攻めだから、ここでゆっくり食べな。
ジェスと二人でいたら、命令で休んでんだってわかるから、うるさいやつも来ないからさ」
軽い口調でそう言ったニルガスは、夕食と水差しを天幕に置くと、そのまま軽く手を上げて外へ出ていった。
「お前もそのまま休めよ。副隊長から、お前の夜番は無しだってさ」
思わず腰を上げて天幕の垂れ布を捲り上げると、ニルガスはにこやかに手を振り、そのまま歩き去った。
「……ジェス、食おうぜ」
この天幕で休むつもりなど、これっぽっちもなかったのに。
ほんの幕一枚隔てた向こうに広がるざわめきを閉ざして、水に布を浸すグエンは静かだった。
垂れ幕を持ち上げていた布から、手を離す。
明かり取りの布の向こうから、かがり火のゆらめきが忍びこみ、天幕の中は奇妙な沈黙に沈み込んだ。
「俺は外に行くから。ジェスはここで休め」
「馬鹿言うな。お前は身体休めることが仕事だ。なんで外行くんだよ」
思わず言葉を返すと、グエンは小手についた血泥を拭いながら、困ったように笑った。
「……自分を襲った男だ。安心して寝られないだろ」
「襲っ……、違う、……だろ」
あの日のことだ。
急に息がしにくくなって、背筋がこわばった。
グエンに、自分の欲深さを露呈した日。
「違わない」
こちらを見ないままグエンが言って、何を言えばいいのかがわからなくなった。
違うのに。
抱かれにいったのは、自分で、
それを望んだのも自分で。
最後にグエンを追い詰めたのも、自分なのに。
「ちがう。襲ったんじゃない」
「違わない。……俺、お前のこと」
グエンが薄く笑った。
揺らぐ灯りの下。
口元だけを歪めて、見たこともない顔で。
「好きだったんだ」
「…………は」
息を吐くような声が溢れて、身体中を勢いよく何かが駆け巡った。
グエンのその言葉に、頭の芯が溶けてなくなるようなしびれ、――嬉しさ。を感じて、指先が震えた。
好きだった。
なんて、
単純で、簡単で、
いとけない言葉。
一度でいいから、その口から聞いてみたかったと、
夢にまでみた言葉。
その言葉を、グエンはまるで罪のように。
口にした。
「だから、お前だってわかって。……どうしていいかわからなくなった」
手のひらで口元を覆う。
一瞬にして、湧き上がった感情が、冷たく固まった。
「……ご、……ごめ、ん」
グエンが、
自分のことを、好きだった。
「ジェス」
「ごめん」
グエンの顔を見ることができなかった。
そのグエンに、自分は何をしただろう。
見も知らぬ人と体を重ねるように、そそのかして。
その想いを、理解者のような顔で丸め込んで。
「ごめん」
「ジェス、もう違うから」
その契りだけを、掠め取ろうとした。
いっときの夢のように、きれいに消えるはずだった恋心を、
汚い賭けで、にじり潰した。
「もう違う。大丈夫だから。もう、妻も、子供もいる。」
ごめん。
声にならないまま、口の中で繰り返す。
「ジェス、ごめん。そんなに驚かせるつもりじゃなかった」
二人の間、ゆらめく影。
グエンの声が、耳の上を滑っていく。
「ただ、――あの時。ひどいことを言った。
本当に、ごめん」
本当に酷いことをしたのは。
自分だ。
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