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第55話 怖がらなくていい
「つまり」
ハネスの声が軽やかに響き渡った。
「皆さんは、人々の恐れと戦っていたわけですね」
「……そう言っているだろう」
禿頭の、――ローヴェル団長が唸るように言うと、ハネスはにっこりと微笑んだ。
「それでしたら、なにも――、ネズミを駆逐する必要があるとはあんまり思いません。
まあ、ネズミは病気も媒介しますから、街が綺麗になるのはいいことですが」
話しながら立ち上がり、医務官に向き直ると手を差し出した。
「先生、お持ちくださったものを」
「はい。こちらですよ」
医務官が取り出したのはごく小さな小瓶で、中には茶褐色の液体が入っていた。
それから医務官は立ち上がった。
「私がやりますよ。うっかりひっくり返しでもしたら、王宮中パニックです」
「ありがとうございます。まずは、ガレスに確認してもらいましょう」
頷いた医務官はガレスの前に立ち、小瓶のふたを少しだけ開けた。
「何なんだ、それは」
団長の声と、顔を背けるガレス。
「――っ、腐敗の毒、ですか」
ガレスの声に、室内がざわりとした。
「そ、そんなものを陛下のお足元に持ち込むとはどう言うつもりだ!」
「やだなあ、落ち着いてください。
それに似せて調香師に作ってもらった、ただの香水ですよ」
グエンを襲ったネズミ。
結果的に核だったその魔獣を斬った時に嗅いだ、強烈な腐敗のにおいを思い出して思わず顔をしかめてしまうと、隣に座るニルガスは興味深げに身を乗り出した。
「ニルガスさんもかいでみます?」
「いいの?――あ、いいんですか?」
気の抜けるやり取りにハネスがへらっと笑うと、医務官がニルガスの顔の前で小瓶のふたを開け、ニルガスが顔を近づけた。
「――っあ、そんなに近いと」
「くっさ!」
思い切りのけぞったニルガスの動きに合わせて、ほのかにあの甘ったるいにおいがジェスの鼻先にも漂ってきた。
首をそらせてにおいから逃れると、反対となりに座っていたグエンが小さく笑う。
「大丈夫か」
「……うん」
小さくやり取りしている間にも、医務官は小瓶のふたを閉め、ニルガスから距離を取った。
「……腐敗の毒のにおいに、似ていますか?」
医務官の言葉に、ニルガスは首がもげそうなほど頷き、ジェスも頷いた。
「ありがとうございます。では、団長の皆さんも、どなたか……」
医務官が振り返ると、ローヴェル団長を含めた数名が手を上げた。
「……確かめさせてくれ」
結局その場に集まった全ての団長が、香水瓶の中身をにおっては顔をしかめ、その間にハネスは部屋の窓を開け、室内の空気を換気した。
「ネズミはそもそも、臭いです」
医務官が着席すると、最後の窓を開けきったハネスは穏やかに言った。
「……でも、腐獣の臭さとは別物です」
「その通りのようですね」
最後ににおいを嗅がされた書記官は、ほんの少し額を押さえながら言葉を返した。
「このにおいを知っていれば、腐獣との区別はつけられる。ということか」
団長の一人が言い、室内を振り返ったハネスは、静かに頷いた。
「すでに、この香水をもっと調合するよう手配しています。
出来上がりを各詰所に配布しましょう。
今回は時間がなくて瓶から直接嗅いでいただきましたが……」
ハネスが医務官を見やると、医務官は頷いて言葉の先を続けた。
「紙に染み込ませておけば、配布するのもそれほど大変ではないはずです。
街の人々ににおいの違いわかっていただければ、恐れるべき魔獣は身近にはいないと安心できるかと思いますよ」
窓から吹き込んだ柔らかな風が、室内の空気を一混ぜして、溶け込んだ。
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