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第58話 その温かさ

 エミリア・ハーウッド。  名乗られた名前を頭の中で繰り返して、それから、ソファの上に立ち上がり、背もたれをよじ登ろうとする幼子を見た。  ジェスの視線につられて、女性――エミリアもそちらを見た。 「あら、トフィ。そんなところに登ったら危ないわ」  一歳と、数ヶ月くらいか。  弟妹たちが幼かった頃のことを思い出し、幼子の年齢を推測する。  赤みがかった巻き毛と、くりっとした瞳。  背もたれに張りつく手のひらを優しく剥がされて、小さく声を上げた幼子は、思いのほかすばやくソファを降りて、裸足のまま床を駆けた。 「あっ、トフィ」  駆け出した先、備え付けのワゴンがあることに気づいて咄嗟に手を伸ばす。  走る勢いをそのまま受け止め、空中を駆け上がるように背中をすくい上げると、幼子――トフィは楽しそうに声を上げた。  足をバタバタさせるのをそのままに、すくい上げた体を反転させて床に下ろすと、トフィはそのままエミリアの足元へと駆け寄った。 「っ、ん、――ま!」 「お馬さんじゃないわ。ジェスお兄さまよ」 「んっ、ま!」  母親の言葉に、ますます前のめりに、つま先立ちになって言葉を繰り返したトフィに、エミリアは困ったように目を細めた。 「ふっは」  思わず笑い声が漏れて、口元を手で押さえた。 「いやだわ、ごめんなさい。今日は長く馬車に乗ったものだから」  普段よりずっと近かった馬との距離に、興奮しているのだろうか。  なんだか、口元が緩んでしまった。   「――お嬢さんも、騎士の子供なのですね」  口をついた言葉に、ほんの少し、エミリアが動きを止めた。 「……ええ。そうですわね」  少しトーンの落ちたエミリアの声に、口元を引き結び、背筋を伸ばした。  エミリア・ハーウッド。  ハーウッド夫人。  グエンの奥方が、このタイミングで自分に会いにきたことを、なんでももなく楽観視できるほど勘の鈍い人間ではないつもりだった。 「――夫人」  居住まいを正して発した言葉に、エミリアが顔を上げた。  その目を一瞬だけ見て、頭を下げる。 「グエンが、……ご主人が何をおっしゃったかは存じません。  ですがもしも、私のことを何かお聞きのようでしたら、それは、何かの間違いです」 「――間違い……」  頭上から聞こえた声は、それまでよりずっと力なく床に落ちた。  思わず目をつむり、息をひそめる。  お互い、気持ちはあった。  二年前、自分はひどい間違いを犯した。  それでも、もう、ごく仲のいい友人の範疇を越えることは、ない。  グエンから、この幼子を穏やかに見守れる日常を取り上げるようなことはもう。  ――しない。 「はい」  その姿勢のままで簡潔に答えると、室内は窓から訪れる風の柔らかさだけに包まれた。  衣擦れの音がして、トフィが言葉になりきらない何かを口にする。  先ほどすくい上げた小さな体の重みとぽかぽかの体温が、手のひらに蘇った。 「――それは……」  エミリアが言う。 「それは、……あまりにあの方がかわいそうですわ……」      思わず目を開く。  一体、今何を言われたのかがわからなかった。 「バロウズさん、……つまりそれって、全部グエンダリオ様の思い込みなのでして?  その、――もしかして、グエンダリオ様がご迷惑をおかけしているなんてこと」 「まさか!そんな、迷惑だなんて……っ」  思わず顔を上げると同時に、目の前にトフィが駆け寄ってきた。 「んー、っま!」 「うん?」  思わず顔を覗き込んでしまう。  愛らしい顔がきらきらと輝いて、小さな手がこちらに向かって大きく開かれた。 「んっ!」 「トフィ、お母様のところへいらして」  エミリアが声をかけても、トフィは動かず、ジェスの膝に手をついて脚によじ登ろうとしてきた。 「お姫さま、あぶないですよ」  トフィの体をそっと囲うように腕を回して、よじ登る様子を見守ってやると、トフィは「ん!っま!」と繰り返しながらとうとう脚の上に登り切った。 「あい!」 「……よくできました」  やり切った興奮に目を輝かせるトフィを見て、体の力が抜け切ってしまった。  そのままペタペタと装備に触り始めた小さな手を誘導して、鎧などには触れないようにしてやると、エミリアが小さく声を上げて笑った。 「お二人とも、よく似ていらっしゃるのね。  グエンダリオ様も同じよ。この子が何をしても、出来るだけ見守って、見守っているフリをして、危ないものには気づかせもしないように遠ざけるの」 「――夫人」  腐心してトフィを膝に座らせ、エミリアに向き直る。  我が子に向ける柔らかな顔のまま、エミリアはジェスと目を合わせた。 「ご迷惑でないのでしたら、どうぞ、グエンダリオ様のお気持ちを頭の片隅にでも置いてくださいませんこと?  ――ようやく、あなたのことをお話ししている時に、笑えるようになりましたのよ」 「その、……私にそのようなことをおっしゃる理由がわかりません」  膝の上でトフィが伸びをして、その柔らかい手が頬を叩く。  伸びかけたひげに気づいたトフィが、自分の顎先を見上げたのがわかった。 「そうでしょうとも。……なぁんにも言わないのですものね、本当に大切な人には、特に」  夫人の優しげな声を背に受けながら、トフィは立ち上がり、ジェスの頬を両手で挟んだ。  ふくふくの手のひらで、頬を撫でられている。 「……お姫さま。それは、あまりよろしくありません」 「あい!」 「うふふ。トフィいいのよ。そのままお兄さまを捕まえておいてね。  ……私、グエンダリオ様にはとても感謝しておりますの」  トフィのくるくるの赤毛の向こう、エミリアの栗毛色をしたまっすぐな髪が見えた。 「――感謝、ですか」 「ええ。この子の、――トフィの命を救って、名前もくださいました。  見ての通り活発な娘に育ちそうですけれども、私の両親はもうこの子に首ったけですわ」  こんなふうに素直に人に甘えられる幼子を、厭う祖父母がいるなどとは考えにくい。  首ったけなのはその通りだろうが、その前のエミリアの言葉が引っかかった。 「命、を……?」 「あい!」  トフィが元気よく応えて、ジェスの膝を降りた。  そのままソファの座面を歩き、また背もたれに張り付く。 「あら、トフィ。もう少しお願いしたかったわ」  エミリアはそう言うと、少しだけ身を乗り出して、はっきりとした声で言った。 「この子、トフィは、グエンダリオ様との子供ではありませんの」      

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