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第60話 そのすべて

 その次の休日、ジェスは馬を走らせて実家へと顔を出した。  王都から少し離れた場所で、馬を育てつつ馬具職人をしている父は、  ジェスが騎士になりたいと告げると、何も言わずジェスを騎士養成院へと入れてくれた。  十五になる歳で院に入り、一、二年はジェスもこまめに家へ顔を出していた。  日帰りできる距離だし、何よりまだ幼かった弟妹がかわいかった。  でも、学年が上がるにつれて、もうわずかになったグエンとの時間が惜しくてすっかり足が遠のき、卒院してからは一度も顔を出していなかった。   「兄貴」  牧場のゲートを開けていると、背後から声をかけられた。  振り向いて見れば、記憶よりずっと大きくなった弟の姿があった。 「よお、元気してたか」 「それはこっちのセリフじゃねえ?」  呆れたように言う弟に、思わず笑ってしまった。  一番下の妹は、最後に会ったのは六つか七つの頃。  ほとんど四年ぶりに会う末っ子は、記憶にあるよりずっと娘になっていて、なんだか懐かしさを感じてしまった。  小さくてまろい、幼かった妹の手のひらを思い出す。  途端に、トフィの「まっ!まっ!」という催促を思い出して、つい微笑んでしまった。 「お兄ぃ、なにへらへらしてんの。私たち怒ってんだからね」 「うん?ごめん。ちょっと思い出し笑い」 「やだ、キモい!」  こんなふうにぽんぽん文句を言う子だっただろうか。  少しその勢いに圧されながらも、ずっと顔を出していなかったのは自分が悪かったのだから、甘んじて言葉を受け止めることにした。 「何が悪かったのかわかってんの?」 「ん、ごめん。忙しかったのは言い訳だな。休み取れば良かったんだ」  まだ小さな体で詰め寄られ、素直にあやまると妹が目を釣り上げて口を開いた。 「違うでしょ!お兄ぃ、怪我して死にかけたって騎士団の人から連絡来てたんだからね?!  お母さん、ぱったり倒れちゃったんだからね?!」 「え」  思いがけない言葉に絶句していると、下の弟が土間へ入ってきて、口を挟んだ。 「お兄ぃは騎士なんだから、怪我することも危ないこともあるってわかってるけどさ、生きてるかどうかくらい連絡しなよ。家族なんだし」  もっともな言葉に何も言えなくなって、ただ、謝るしかなかった。  夕には、家族全員で早めの夕食をいただき、ジェスはその日のうちに騎士団へと帰った。  この日は一日だけの休日だったので、次はきちんと休みを取って帰ることを約束した。  母には少し涙ぐまれ、父からは、一番上の弟の結婚の話を聞かされた。  家族たちも、少しずつ変わったところがあり、  それから、変わっていないものも、あった。   「おかえり」 「た、だいま?」  実家から戻ると、宿舎の自室の前でグエンと鉢合わせた。  鉢合わせた、というか、自室の扉の鍵を開けたところで、グエンが部屋から飛び出してきた。 「ジェス、あの……」  何かを言い淀む雰囲気に、人差し指を立ててから室内へ促した。  廊下でする話でも、なさそうに感じた。 「エミリアが来たって、聞いた」  グエンは、部屋の扉のところで立ち止まって、それ以上入ってこようとはしなかった。 「うん」    その様子を横目に見つつ、外套を脱いで、クローゼットにかける。 「忙しいところを、会ってくれてありがとうって。  トフィと遊んでくれて、ありがとう。って。  その、エミリアから伝言」   「うん。……ふ、っは」  グエンが最後に付け足した言葉で、自分たち二人がどれだけ心配されて、呆れられているのかをまざまざとわからされた気がした。 「ジェス?」  顔だけ振り向いて、それからまた笑いを堪えられなくてクローゼットに向き合う。着替えを取り出して脇の寝台に置いた。    伝言を預ければ、グエンは自分に会いに来ざるを得ない。  そんな些細な約束も反故にできない男だから。 「いや。……お前の奥方にどれだけ心配かけてたのかなって」  だから笑いを含んだ声のまま告げれば、グエンが息を詰めたのがわかった。 「心配じゃない。エミリアのは、重しだ」  思いがけず重たい声でそう言われて、笑いを引っ込める。  片足を下げて、体を開く。  そうして振り返ってみれば、グエンは眉間に力を入れてこちらを真っ直ぐに見つめていた。 「娘のこと。お前が知る必要はなかった。  お前がこんなこと誰かに言いふらすやつじゃないってわかってるけど、それでも、貴族の家のことだ」  室内に灯したあかりが、風もないのにゆらめいたような気がした。  窓の外、薄暗くなった空が室内を覗き込んでいる。 「こんなこと知って、お前に負担にしかならない。  すまない。……悪かった」  硬いグエンの声がジェスにぶつかり、跳ね返って散らばった。  そんなもの、ちっとも痛くないはずなのに。 「グエン」  今日の、妹たちの気持ちが、今になって身に沁みるようだった。 「お前にとって、俺ってそんなに信用ないか?」  グエンが目を見開いて、それから首を振った。 「ちが……」  言いかけたところに、足を踏み出して黙らせる。  初めてかもしれなかった。  こんなふうにグエンに対して腹の奥がモヤモヤとねじれる気持ちになるのは。 「違わない。それは確かに、お前の家の重たい秘密だ。  だけど、それがお前の大事なことなら、俺にとっては負担でもなんでもない」  いや、一度あった。  ただの勘違いで、グエンとハネスの仲に見当違いの嫉妬をした時。  あの時腹の底から湧き上がったなにかは、体を発熱に乗っ取られているうちに、勘違いに気付いて消え去ってしまったけれど。 「俺のこと、軽く見るな」  じっと、グエンの目を睨みつけた。 「ジェス」  なぜだろう。  怒りでもない、侮蔑に対する苛立ちでもない。  すぐ目の前のグエンが、なぜか遠く感じるようで。  一歩、二歩下がってから、グエンに背を向けた。   「あ、のさ、ジェス」  窓の外に目をやり、こちらを覗き込む空を睨みつける。 「なんだよ」  一日馬で走ってきたから、身体中が埃っぽかった。  着替えてしまいたくて上衣のボタンに指をかけ、上から順に外していく。 「ごめん、……ごめん。ただの、嫉妬だ」 「は?」  爪がボタンを引っ掛けて、かすかな音を立てた。  首だけをゆっくりとめぐらせると、グエンはそのままこちらをじっと見つめていた。 「わかってる。トフィのことで俺が何を言っても、信用なんてない。  エミリアの言葉じゃなきゃ意味なんてないって、わかってるけど」  その顔に、指先から力が抜けた。  そう思うのも、無理もない。  子供の父親は自分じゃない。なんて。  ただの無責任な男の、身勝手な言い訳にしかならない。  だけど、グエンはきつく眉根を寄せて、泣きそうな顔をしていた。  それは、いつか見た、子供みたいに怯えるグエンで。  なんとなくわかってしまった。 「ただ。……お前に重しを乗せるのが。お、俺、じゃ、……なくて」  一歩。  いつだって、グエンは正しくあろうとする。 「他の、誰かだって……、ただ」  二歩。  だけど、正しくばかりはあれないこともある。  あった。    そしてそんな時、グエンはいつもこんなふうに怯えた顔をみせる。  きっと、今も。 「ただ、それだけが、嫌、で……」  三歩目で手を伸ばし、引き寄せた。  大人しく引き寄せられたグエンが、腕の中に収まった。   「馬鹿だな」  お互いそれほど身長に違いはない。  だけど、その頭を抱き寄せて耳の辺りをくっつけた。 「めんどくさいやつだ」  グエンに頭をすり寄せて、思い切り息を吸い込む。  二人でじっとして、それからゆっくりと胸の中の空気を吐き出した。 「頼れよ。どんな風でもいいから。俺も頼るし」  でも、グエンの正しくなさなんて、いつだってほんの些細なことなんだけど。  胸の内を刺した小さな痛みを無視して、もう片方の腕もグエンの背中に回した。 「…………うん」  変なところで、子供じみた独占欲に怯えるグエンを、かわいいと思った。  しばらくその場に居座った沈黙に二人じっとしていると、グエンが頭を上げようとした。  なんとなく、頭を押さえて腕に閉じ込めたままにしてみる。 「ジェス」 「ん」  喉の奥だけで返事をして、その体温を楽しんだ。  この間もこんなふうにして、グエンの頭を肩に乗せていた。  もうほとんど眠りそうだったグエンは、それでもしがみついて離れなくて、寝かせるのも少し苦労したことを思い出す。  だから、今日のこれは意趣返しだ。そう思うと、なんだか先ほどまでの腹の熱なんてあっという間にどこかへ行ってしまう。 「俺、言ったよな」  そんなのんきなジェスの気持ちを知りもしないグエンは、腹の底から搾り出すような声で唸った。 「……ん?」  その声が気になって顔を見ようとすると、グエンの腕が背中へと回された。   「ジェスが好きだって。もう、ずっと、お前だけだ。って」  言いながらジェスを抱き寄せようとするグエンに、ほんの半歩後ろに下がる。  グエンは、一歩前に出た。 「う、ん」  唾を飲み込んで、一言返す。  その間にもグエンの足は止まらず、やがてジェスの背中がクローゼットの扉にぶつかった。  グエンの頭を抱え込んでいたジェスの腕はとっくに離れて、肩の上に滑り落ちている。 「じゃあ、そんな無防備なことしないで」  グエンと目があって、そらすことができなかった。 「俺の好きは、全部入ってる。  ジェスの話し方も、笑い方も。騎士としての誇りとか、決断する時の潔さとか」  冷えた部屋の空気が、開きかけの襟から忍びこんでいるはずだった。  だけど、少しずつ下がるグエンの視線が熱を持っているかのように、目に触れたところから熱くなっていくような感じがした。 「お前が鍛錬して作り上げて来たその体とか、笑ったら、か、かわいくなる顔とか、その。うなじの、ほくろ、とか……」  グエンの手が背中をかすめて持ち上がり、首の後ろ——うなじに手を添わされた。  びくりと跳ねた体を抑えつける。  耳の奥で、心臓の音がうるさく跳ねて、グエンに聞こえないよう、少し体をそらせた。    首の後ろ、少し右側。  髪の生え際のあたりを、グエンがなでた。 「ほくろ?」  思いがけない言葉に、思わず聞き返すと、  グエンは、頬を柔らかく緩めてから、小さく頷いた。 「そう。……ここに、ちっさな。ほくろが、ある」  目の前、そんなふうに微笑まれて、まっすぐグエンの顔を見ていられなかった。  目を伏せて、そのまま、閉じる。  だから、少し熱っぽくかすれたグエンの言葉に驚いても、  抵抗できずにただ抱き寄せられているしかなかった。 「同じものが。……マイカにも、あった」    

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