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第五章 真優の本音(2)

 窓の外に広がる青空をぼんやりと眺めている間に、午後の授業が終わってしまった。  拭えない不安が胸の底にこびりついている。俺は心ここにあらずといった状態で終礼に参加し、一成と一臣に事情を説明して真優の訪れを待っていた。相馬は今日は経営に参画している会社の仕事があるとかで、終礼が終わると同時にさっと帰宅してしまっている。相馬がいると話が込み入りそうなので、彼がいないのは好都合だ。とはいえ俺の気持ちは晴れなかった。  最終的にハッピーエンドになるとわかっていても、キャラクターが窮地に陥るイベントを、喜々としてやれるプレイヤーはそういないのではなかろうか。少なくとも俺は無理だ。ドラマの緊迫した場面ですら、見ているのがいたたまれなくて早送りしてしまうほどだ。フィクションの世界ですらそうなのだから、リアル世界では尚更だ。胃を痛めながら謝罪行脚に励んだあの日々。城石望海の人生を生きている俺があの場面であれだけ頑張れたのは、そうしなければ自らが破滅するとわかっていたからだ。  今思えば、あのぐらいの危機はどうってことなかった。  俺の自我が望海の中に沈んでいた時代の出来事だ。もしかすると、俺は高熱を出して自我を取り戻すまで、望海の中で精神を眠らせていたのかも知れない。そのぐらいそれ以前の記憶は、俺の中では現実味に乏しかった。  ピアノも弾けるし、ジャンプも出来る。  それでも、その人生は俺のものではないという感覚が常にある。だから俺は謝罪行脚をやり切れたのだ。俺がしたことの後始末ではなく、城石望海というキャラクターがやったことの尻拭い。俺は城石望海というキャラクターを知っていたからこそ、当事者意識が希薄なまま、彼のそれまでの人生を自分のものではない過去として封印してしまった。  けれども今回は違う。俺は欲に負けた。相馬の機嫌を損ねてはならないという己の立場を云い訳にして、学内で痴戯に耽ってしまった。  云い訳などしようがない。悪いのは俺だ。  だから胃が痛かった。  何を云われるのだろう。そして、これからどうなるのだろう。  そもそも、これがゲーム『エンジェルスフィア』の世界であれば、ルートは幾つもある。そのフラグを片っ端から折っていけば、俺が望む平穏な人生を送ることも可能だろう。少なくとも、俺が読んできた転生ものではそれがオーソドックスな抵抗方法だった。けれどもこの世界は違う。ゲーム世界を下敷きに新解釈が加えられたBL同人誌の世界――結末がひとつしかない物語で、どうやればルートを分岐させられたものか。  しかも、俺はその同人誌の内容をろくすっぽ覚えていないときたものだ。  大体、俺が家出をして連れ戻されたあの出来事にしてもそうだ。あれが物語のエピソードであるのか、それとも俺の自発的な行動であるのか。それさえ俺には判別がつかなかった。  この状況でどうフラグを折ったものか。  俺は自分がどう行動すれば、俺の望む未来に辿り着けるのかわからなくなってしまっていた。  それでも行動するしかないだろう。と、他人はしたり顔で云うかも知れない。  全くその通りだと俺も思う。  だが、俺がこの世界を同人誌の世界だと知ったのはつい先日のこと。一成と一臣に薬を盛られてからだ。そこからここまで、自分の時間なんて数えるほどしか持てていない。すっかり快楽に骨抜きにされた身体。考えなければならないことは山積みな筈なのに、性行為(セックス)という餌をぶら下げられるとついつい飛び付いてしまう。何故、俺はこうも欲に溺れ易いのだろう。やっぱりあのマンションでの生活の所為だろうか。ハーレムエンドの方がマシだと思って一成と一臣に身体を任せ続けてしまった五日間。それが俺の身体に変化を及ぼした。開かれた新しい扉は、性に初心だった俺を蹂躙した。そう、こう考えているだけでも身体が疼き始めるほどに……。 「上の空ですね、望海様」  一成に声をかけられた俺は顔を上げた。  真優から借りた本を読みながら、彼が教室に迎えに来るのを待つつもりでいたが、頁を捲る手は完全に止まってしまっていた。待ちに待った大井川周平の新作。大好きな作家の作品だというのに、内容が全く頭に入ってこない。 「だって、ねえ……」俺は俺の席の脇に立っている一成と一臣を見上げた。「話ってもうひとつしかないでしょ」 「心当たりがひとつで済むだけいいと思いますよ」  慰めにもならない台詞を一臣が吐く。 「そのひとつが大いに問題なんだけどね」  俺は口唇を尖らせた。  一成と一臣を責めたい気持ちもあったが、彼らのマンションでの振る舞いが同人誌の一エピソードだというのは明瞭(はっき)りしている。そうである以上、彼らを責めても意味はない。彼らの意志の在り処についてはさておき、一成にせよ、一臣にせよ、相馬にせよ、物語をなぞって生きている――というよりそれ以外の生き方を知らないのだ。  だったら頑張らねばならないのは、この物語世界における異分子である俺である。  その為にも、俺はこの世界でどこに自分の幸せを見付け出すのかを考える必要がある。俺は本を閉じて、頬杖を突いた。クラスメイトたちは殆ど教室を出てしまった。人影まばらとなった教室に視線を彷徨わせながら、未来に思いを馳せる。  俺の幸せはどこにあるのだろう。  前世で庶民だった俺には馴染めない今の生活。会社経営者である父親とモデルの母親の間に生まれ、金銭的にはひとつも不自由がない。ちょっと歪んではいるとは感じるものの、俺を好きである一成や一臣、相馬のステータスも申し分ない。彼らが男であるというたったひとつの事実を除けば、俺は充分に恵まれた立場にいる。  このまま四人で上手くやっていくのも悪くはない。そう思うくらいには、今の状態は心地がいい。  だが、本当にそれでいいのだろうか?  最終的には五人になるハーレム。生徒会メンバーに可愛がられて生きる生活は、俺から何かを失わせはしないか? ……そう、俺は恐れていた。物語の筋書き通りにハーレムエンドに辿り着いたとして、そしてそれを俺が受け入れたとして、果たしてそこに俺の意志はどれだけ存在していることになるのだろう。そう考えると、どうにかして抵抗しなければという意識が湧いて出る。  物語の強制力の犠牲にはなりたくない。  同じハーレムエンドでも、今のように状況に流されて既成事実化するよりも自分で獲得したい。だが、どうすれば? 俺が悩み続けていると、教室の入り口に人影が立った。ひょろりとした長躯。恐らく真優だ。と、思って視線を向けるのと同時に、向こうが俺に声をかけてきた。 「ごめん、望海。遅くなった」 「待ってたよ、真優」 「ちょっと担任に掴まってて」  がらんとした教室に入ってきた真優が、俺の前に立つ。  傾きかけた太陽が、真優の緑がかった髪に淡いグラデーションを生じさせている。筆で引いたような眦。眼鏡の奥の理知的な瞳が、周囲にまばらにクラスメイトが残っているのを見て取ってしぱしぱと瞬く。 「場所を変えたいんだけど」  声を潜めた真優に、いいよ。と、俺は本を鞄に仕舞って立ち上がった。 「どこにする?」 「中庭、かな。あそこならこの時間はあまり人がいないし」  人けのない場所を選ぶということは、やはり昨日のことについての話なのだろう。あー、緊張する。俺は鞄を手に真優と肩を並べて教室を出た。その後ろから一成と一臣が付いてくる。 「彼らも一緒に?」 「うん。でも離れたところに立たせるよ。それじゃ駄目?」 「それでいいよ」ほっとした表情を真優が浮かべる。「そうじゃないと望海も安心出来ないだろうしね」  一成と一臣が俺の傍にいる表の理由を知っている真優だけれども、彼らに話を聞かれるのは嫌だったようだ。仄かに口元を緩めると、「そういやこの間、面白い本を読んでね」と、いつものように自分が最近読んだ本の話を始めた。  きっと、空気が堅苦しくならないように、気を遣ってくれているのだろう。  俺は真優の知識に感心の声を上げたり、疑問点を尋ねたりしながら、彼と一緒に昇降口を抜け、校舎を回って中庭に向かった。 「悪いけど、ふたりはここで待ってて」 「畏まりました、望海様」 「何かありましたらお声がけを」  昼休みともなると賑わう中庭は、放課後を迎えて人けがない。一成と一臣を離れた場所に立たせた俺は、空いているベンチに真優と並んで腰かけた。緑に囲われた中庭は都会のオアシスといった風情だ。羽根を休めにきたのだろう。鳥の鳴き声が頭上から聞こえてくる。 「で、話って……?」  俺は真優の顔を探るように下から覗き込んだ。  枝を伸ばした木の影が互いの顔にかかっている。俺の顔を映している真優の黒々とした瞳は、何だか洞のようだ。そこだけぽっかりと穴が開いてしまったかのように表情がない。 「遠慮せずに云って」俺は真優を促した。  どう話を切り出すか考えあぐねているのだろう。瞬間、頭を掻いた真優が、うーん。と唸って、宙を仰いだ。暫しの沈黙。視線を俺に戻した真優の表情は、どことなく内心の動揺を伝えてくる曖昧なものだった。 「えーっと、その……昨日のことだけど」 「うん」 「望海は、いいの?」 「えっ?」  思わず間抜けな声が出た。  何について問われているのかがわからない。  行為の是非についてだとしたら、まだ高等部一年生。中身が二十六歳の俺はさておき、一成や一臣、相馬は早過ぎるとは思うのだが、それで性に対する好奇心が抑えられる筈もない。何よりここは『エンジェルスフィア』の同人誌の世界だ。音楽室という人目が及ぶ場所でしてしまったのは悪かったが、俺がこうした態度である以上、避けられるエピソードでもない。そうである以上、いいも悪いもないような気がする。  それとも三人に対する好意の有無について聞いているのだろうか?  確かに三人も一度に相手にしているとなると、愛情の有無を疑われてしまうのも無理はない。とはいえ俺は、彼らに想われているこの状況を、嫌なことだと感じていないのだ。むしろ、誇らしかったりもしていたりするのだから、この方面でも問題はないような気がする。 「それは、どういう意味……?」  だから俺は真優に尋ね返した。 「いや、その、僕もどう何を話したらいいのかわからないんだけど……」 「いいから思ってることを云って」  煮え切らない態度の真優の両肩を俺は掴んだ。  覚悟は決まった。何を云われても甘んじて受け止めよう。真っ直ぐに真優の目を見詰めながら、俺は真優に言葉を促した。 「あのね、その、僕には望海には自分を大事にして欲しいって気持ちがあるんだよ。だからその、好きな人相手ならいいんだけど、さ、三人も一度にってなると、それはその、ちょっと心配になるっていうか。あ、でも、複数愛(ポリアモリー)って指向もあるし、必ずしも相手をひとりに限らなくてもいいのかなって思ったりもするんだよね。だけど、ああいう場面を見てしまうと望海の身体が心配だし。とはいえ、女性と違って男同士の場合妊娠の心配はいらないから、この心配が正しいのかどうかも僕としてはわからなくなってしまって。だから、先ずは望海の気持ちを、か、確認しておいた方がいいんじゃないかって、思ったんだよね」  余程、考え込んでしまっていたようだ。しどろもどろになりながらも一気呵成と捲し立ててくる真優の混乱甚だしい言葉の洪水に、俺は滑稽さを感じずにいられなくなって、思いがけず笑ってしまった。 「あの、何?」 「ごめん、ごめん、真優。そうだよね、真優は俺のこと考えてくれたんだよね」  下手に知識がある分、視野が広くなり過ぎてしまったのだろう。どこに自分の気持ちの結論を持っていけばいいのかわからないといった真優の言葉は、もっときつく云い含められるんじゃないかと怯えていた俺の気持ちを大分楽にしてくれた。 「そうなんだよ、僕、君のことが心配で……」  俺に笑われたのが照れ臭いのだろう。頭を掻きながら真優が言葉を継ぐ。 「大丈夫だよ、真優。それよりも、俺こそごめんね。真優にこんなに心配をさせてしまって……」 「望海は僕の大事な友人だからね」瞬間、きっぱりと云い切った真優が、直後には憂いを含んだ瞳を向けてくる。「だから、その……君的にはいいの? いいんなら僕のこの心配は余計なお世話ってことで、忘れて欲しい。そうじゃないと、ほら、良く云うだろ。人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んでしまえって。僕としては人の恋に横槍を入れるような野暮な人間にはなりたくないからさ」 「うーん。好きか嫌いかで云われると好きではあるんだけど」  俺は言葉を濁した。  一成に一臣、相馬と彼らに俺が好意を感じているのは間違いない。とはいえ、一成と一臣に対しては情が勝ってだし、相馬に対しては幼い頃から一緒だったという気安さが勝ってのことだ。彼らの気持ちはさておき、俺自身の気持ちは激しく求め合うような愛情からは大分かけ離れているような気がする。  結局は欲なのだろうか?  それとも、ここから気持ちを積み重ねて愛情を育ててゆくのだろうか?  そこにこそ、俺が求めるべき今後の幸せの答えがあるような気がする。俺は一成、一臣、そして相馬と三人に対する自分の気持ちを見詰め直した。愛されていることに逆上せあがってしてこなかったこと。それは自分の気持ちの確認だ。 「けど?」  黙り込んだ俺に引っ掛かりを感じたようだ。さして時間も置かずに真優が尋ねてくる。 「いや……三人一度にってのは流石にどうなのかな、とは思ってるんだよ。そういう悩み」 「ああ、そういう……」 「でも、公平にする為にはこれが一番なのかも知れないって、そうも思っちゃうからさ」  まさか愛情がないとも云えない。そう思っての口から出まかせだったが、効果は意外な方面に発揮された。  そうなのだ。俺としても考えてはいたのだ。  ひとりひとりと一対一で性行為(セックス)をする日を決めるのはどうか。  そうすれば三人を相手にした後の激しい倦怠感からも解放されるのではないか。けれども、それを俺の口から三人に提案するのは躊躇われた。一成も一臣のコンビもそうだが、相馬にしてもそうだ。何も云わずとも通じ合っているような動きをしてみせる三人。彼らの中で、俺を一度に分け合うという行為が許容されているのであれば、このままでいた方が俺の身体には優しいのかも知れない。  だってそうだろう? 三人を一度に相手にしているからこの回数で済んでいるのだ。これがお互いの目の届かない場所でそれぞれと――となったら、お互いの存在を意識し合っている三人だ。無駄に張り切るに決まっている。特に一成と一臣だ。次は手枷では済まないかも知れない。マンションでの生活を忘れていない俺は、彼らの嫉妬心を下手に煽るような真似だけはすまいと思っている。 「云ってみたら?」  ぽんと耳に飛び込んできた言葉は、俺の悩みを吹き飛ばすような力強さに満ちていた。 「ひとりずつセックスしよう、って?」 「そう。その方が望海がいいって云うのなら、伝えた方がいいでしょ、それ」 「いや、でも、どちらが公平なのかは、俺には良くわからないんだよね」  けれども、俺の中にある躊躇いは消えなかった。  三人を相手にしている間の、あの恍惚感。あれに勝る快感は、恐らくこの世の中にはない。この一週間余りで身体に染み付いた欲。それが俺を彼らとの性行為(セックス)に縛り付けている。 「どうして?」 「それぞれ別に相手にするとなると、見えない部分が出来ちゃうでしょ。それが嫉妬心を煽るんじゃないかって思っちゃう」 「あー……」  俺の云わんしていることが伝わったようだ。真優が悩まし気な声を発する。 「だから今はこのままの方がいいのかなって」 「確かに、そうかもね。って、恋人がいない僕が云っても説得力がないんだけど」 「ううん。ありがと、真優。心配してくれて」  そこで俺はベンチを立った。  将来的にはハーレムの一員となるとはいえ、今の真優は部外者だ。これ以上、俺たちの問題に付き合わせるのには無理がある。自分でも云っているように、真優の恋愛経験値は低い。しかもイレギュラーな事態である。如何に彼が博識であっても、門外漢なのは間違いなかった。  それに、あまり俺が胸中を晒してしまうと、真優が一成や一臣、そして相馬の嫉妬を煽る存在になりかねない。現に相馬は俺とクラスメイトの仲に対しても嫉妬を感じているぐらいだ。今の真優を俺たちの関係に巻き込んでしまっては、どうなったことか。ややこしい事態を避けた俺としては、真優は安全圏に置いておきたかった。 「じゃあ、俺は帰るね」  真優も自分では役に立てないことを覚ったのだろう。「うん」と、俺の後を追って立ち上がる。 「そうだ、望海。明後日って空いてる?」 「土曜日? 空いてるよ」 「久しぶりにお父さんの蔵書を見せてもらってもいいかな? 読書会も暫くやってないし……」 「いいよ。じゃあ、父に云っておくね」  俺は真優に向かって手を振った。そして、一成と一臣の方に向かって歩を進めていった。  いい奴だな、真優って。  これまで読書を通じた付き合いしかしてこなかったけど、俺のことをこんな風に大事に思っていてくれたんだ。それがわかったことが素直に嬉しい。これからはいい友人として付き合えそうだ。そう思う。  けれども、半面どうして? という思いが拭えない。  どうしたらこんないい奴がハーレムの一員になるんだ?  もしかしたらフラグが折れたのかも知れない。そうだったらいいのになあ。そう思いながら、俺は一成と一臣と一緒に中庭を出た。夕方を迎えてようやく陽射しが和らぎ始めている。今日は帰ったら真面目に勉強しよう。そう思いながら俺は帰途に就いた。

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