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第六章 ヒロインとの接触(2)
木々の合間から覗く今日の空にはうっすらとした雲が伸びていた。中央を走るのは飛行機雲だ。けれども飛行音はもう聞こえない。
都会のコンクリートジャングルには様々な音が響き渡る。行き交う車の走行音、密集した人間のざわめき声。そして、生徒たちの軽やかな笑い声。あっという間に掻き消えた飛行音。南東の空に機影を小さくした飛行機に興味を削がれた俺は、空から視線を戻した。
視線の先には相馬。俺の膝を枕にしてベンチの上に横になっている。
何でも昨日の酔いが軽い頭痛となって残っているらしく、横にならせて欲しいと煩かったのだが、そんなのは口実に決まっている。体育の授業だって、学園の王子様らしく見事なパス回しを披露していたぐらいだ。だからきっと、俺に甘えたいだけなのだ。そう思った俺は相馬の我儘を聞き入れて膝を貸した。
昼休みとあって、中庭には人がそれなりにいる。時にはまじまじと見てくる生徒もいたが、相馬の俺に対する距離が近いのは今に始まったことじゃない。前から頭を撫でてくるぐらいは普通にあった。とはいえ、膝枕は初めての経験だ。俺は周囲の生徒の視線をこそばゆく感じながら、相馬の整い過ぎたきらいのある顔を見下ろした。
「なんか、恥ずかしいね。こういうの」
「そうかな。私は気分がいいよ。望海の膝は温かい」
酔って醜態を晒したことをなんとも思っていないような相馬の態度。むしろ、昨晩の件が相馬をより大胆にさせているようだ。「ねえ、望海」と、相馬の滑らかな手が俺の頬に触れてくる。
「彼女と何を話したのかな」
「え、園崎さん?」
俺は相馬が彼女を気にしていることに驚いた。
彼女が俺の謹慎処分騒動の発端になっているのは確かだが、被害者側の人間である。彼女が被害に合っていなければ――そして警察に俺の名前が彼女に無礼を働いた連中から出ることはなかっただろうが、そんなのは難癖だ。そのぐらいのことは相馬も理解している筈である。
「そう。望海が彼女と何を話したのかを知りたい」
「別に大したことじゃないよ。俺が謹慎処分を受けたことについての謝罪を受けただけ」
校舎の一階の端にある保健室には、体育館から徒歩五分ぐらいで着く。だから俺が園崎さんと話せたのは、本当にそれだけだった。本音を云えば、本来ゲームのヒロインである彼女が、今どういった状況にあるかは知りたかったが、何せさっき初めて口をきいたばかりだ。それであれこれ訊けもしまい。
折角、彼女が俺を庇ってくれたのだ。減点されるような振る舞いは控えなければ。
「彼女なりに俺のこと調べたみたいだよ。それで俺を信じてくれたみたい」
俺は続けてそう云った。
けれども相馬の疑いは晴れなかったようだ。ベンチの後ろに控えている一成と一臣を見上げると、「本当?」と尋ねる。
「ええ、相馬様。少し離れたところから話を伺っておりましたが、望海様の仰る通りです」
「それ以外の話をしていられるほどの距離もなければ時間もありませんでしたし」
「ふうん。自分で調べた、ね……」
ふたりの返事を聞いた相馬が何事か考え込む。
「何を気にしてるの、相馬?」
「可愛い望海が彼女に惹かれたりはしないかと思ってね」
口元に柔らかい笑みを浮かべた相馬が揶揄い混じりに言葉を吐く。
俺は途惑った。相馬のこういった態度は本気なのか冗談なのかがまるでわからない。本心を胸の内に押し隠して笑顔でコーティングしているような隙のなさ。とはいえ、思慮深い人間である相馬がまさかその程度の理由で俺に園崎さんとの会話の内容も聞きはしまい。
「もう、相馬。巫山戯ないで」
「半分は本気だよ。望海も男だからね。ああいった美しい女性になびくかも知れないだろう?」
「ないない」俺は手を左右に振った。「あんなに綺麗だと気後れしちゃう」
間近にするとよりその美しさが際立つ園崎さんは、けれども俺の当初の印象を覆しはしなかった。
あまりにも完璧過ぎて、却って近寄り難い。
勿論、ゲームではプレイヤーが彼女を育成して高みに導いてゆくのだが、鳴り物入りで学園にやってきた少女という設定は初めからだ。頭脳明晰で容姿端麗。そして純一無雑。彼女は学園に入学した時から既にある程度完成されているヒロインだった。
それをリアルで目にするとああ映るのだ。
俺は彼女の息を飲むような容姿を思い出した。ああいうのは遠巻きにして愛でてるのが一番幸せだ。そう、テレビの向こう側のアイドルを眺めているように。そうでないとどういったとばっちりを受けるかわかったもんじゃない。現に今日だって、女子からあれだけのブーイングを受けてしまっている。俺は今後も園崎さんには迂闊に近寄らないことを決めていた。
「そう口にしたということは、女性に興味がないという訳ではなさそうだね」
「ええ? そういう意味で云ったんじゃないんだけど」
思いがけず及んだ俺の性的指向の話に、俺は焦った。焦って、そして、あれ? となった。
そう云えば、自我を取り戻してからというもの、誰にも恋をしていない。
望海は人間不信な一面があるからか。女の子に対する興味も薄く、誰かに恋をするなどということはなかったのだが、俺は二十六歳の立派な成人男子である。縁がなかったとはいえ、女性に対する興味までもを失っていた訳ではない。前世で好きな人もいた。だのに、この世界の俺はこれまで誰にも恋をしてきていない。
品行方正であることに必死になり過ぎたからだろうか?
確かに恋のひとつも出来ていないこの状態では、この世界での俺の幸せを見付け出すのには無理がある。俺は前世の俺が思い描いていた将来を思い返した。仕事に疲れていたことや、友人たちが先に結婚していっていたこともあって、死ぬ直前の俺はひとりでの幸福を模索していた。偶にいいものを食べて、偶に旅行に行く……趣味らしい趣味のない俺は、金に不自由せずに少しだけ余暇を充実させられればそれでいいと考えていた。
良くないな。そう思った。
折角、記憶のある状態で人生を遣り直せているのだ。しかも恵まれた立場で。それならばもっと高い目標を掲げてもいいのではないか? そう、例えば好きな人との結婚とか。例えば仕事での成功とか。新しい趣味を見付けて、余暇に全振りした生活もいい。
そうだ。俺は思った。
俺に足りないのは人生に対する意欲だ。ここが定められた物語の世界だと諦めていた自分。断罪イベントから逃れなければという意識は、俺から生きる意義を考える余裕を奪ってしまっていたのだろう。どこか消極的で受け身な自分を反省する。これからはもっと貪欲に生きよう。そう考えていると、頭上から一成と一臣の声が降ってきた。
「望海様はそういった意味で他人への関心が薄そうでしたからね」
「興味があるらしいということが知れたのは収穫でした」
顔を上げれば、いつもと変わらぬふたりの笑顔がある。
常に俺の傍につきっきりだった彼らには、俺が誰にも恋をしていないというのはお見通しだったようだ。それだけに自分たちが付け入る隙があると思っているのだろう。余裕綽然とした態度は、俺が女性に興味があるという事実にはまるで構っていないようでもあった。
「いや、ないっていうか。そういうことを考える余裕がなかったっていうか」
だからこそ一成と一臣は怖いのだ。ふたり揃うと何をしでかすかわからない。
望海に自分たちの想いをぶつける方法として、肉体的な接触を先に持ってきたところからして、一成と一臣の思想はかなり過激だ。そこに後から加わってきた相馬。もしも俺に好きな人が出来たら、そしてそれが女性だったら、この三人はどうするのだろう?
俺を同時に愛するという選択をした彼らが、その瞬間にする反応を想像して俺は背中を冷たくした。絶対にこの三人は容易くは引いてくれない。そう、それこそ俺が彼らと一緒に生きるという選択をするまで、俺に迫り続けてくることだろう。そのぐらい彼らの俺に対する執着心は強い。
「私たちの中から選んではくれないのかな、望海は」
案の定と云うべきか。甘くもぞくりとする言葉が相馬の口から零れ出てくる。
「え、選ぶっていうか……その、その……あ、相馬! 残りの半分について聞いてないよ!」
俺は自分でもやり過ぎだと思うくらいに露骨に話を逸らした。
三人に囲われている今の生活は心地がいい。このまま彼らが与えてくれる優しさに溶けていってしまいたいほどに。
けれども、それは物語の強制力が働いているからではないのか? 自分の中にある疑念を晴らせずにいる俺は、あるべき道へ俺を導いてゆく見えない手を恐れていた。自分の感情さえも信用ならないこの世界で、俺は自分なりの幸せを見付け、その将来に向かって進んで行かなければならない。怖い。正直にそう思う。
わかっているのに、彼らの愛を実感する度に舞い上がらずにいられない。恋愛に奥手だった前世が影響しているのだろう。神代学園の王子様である相馬、甘いマスクで女性人気の高い一成に一臣。他人から愛を捧げられるのが初めてであれば、これだけのステータスを持つ人間に囲まれるのも初めてだ。これでどうして舞い上がらない筈があったものか。
「狡いね、望海は」
それが証拠に相馬のこの顔だ。温かな眼差し。愛情に満ちた彼の瞳を見ていると、心が吸い込まれていきそうだ。
「……狡くないよ。話を逸らしたのは相馬でしょ」
「先は長そうだよ、ふたりとも」
口唇を尖らせた俺に困ったようだ。曖昧な笑みを浮かべた相馬が一成と一臣を見上げた。
「これは『お仕置き』が必要なようですね、相馬様」
くすくすと笑った一成が、仄かに淫靡さを含ませた表情で優艶と言葉を紡ぐ。
「全く。きちんとご自分が愛されていることを理解させて差し上げなければ」
続けて一臣も。密やかに笑いながら継がれた言葉に、俺は淫猥にも胸が弾むのを止められなかった。
「そうだねえ」相馬が俺の口唇に指を這わせてくる。「日曜日にマンションにおいで、望海。勿論、ふたりとね」
相馬のお誘いに、更に鼓動が跳ね上がる。
自信たっぷりな三人の態度は、その優れた容姿の所為だ。
子どもの頃から異性同性を問わず人気の高かった三人。頭一つ相馬が抜け出ているとはいえ、一成や一臣も相当なものだ。それはバレンタインにバックを別に用意しておかないと、チョコレートを持ち帰るのに困るというエピソードでも知れた。両手に抱えきれない量。ひねた性格でそういった方面に人気のなかった望海とはえらい違いだ。
「いいけど、あんまり酷くしないでね。次の日は学校だよ」
俺は相馬に釘を刺した。昨日の約束は有効だと、言外に含めておく。
「わかっているよ。とはいえ、週に一度か二度の逢瀬ぐらい、愉しませてくれてもいいだろうにねえ」
あれだけ酔った風でいても、俺との会話は覚えていたようだ。それでも欲は隠せないのだろう。艶めいた眼差し。俺の口唇をなぞっていた相馬の指が、俺の口唇を開かせてくる。
「そ、相馬。ここ、学校」
「可愛い望海を見ていると、キスがしたくなる」
身体を起こした相馬が俺の顔を覗き込んでくる。
距離が、近い。
本当にこのまま口付けられるんじゃないかと思った俺は、慌てて相馬の出来のいい彫刻のような顔を押し退けた。心臓が早鐘のように鳴り響いている。正体不明の緊張感。そして甘やかな高揚感。俺は彼らに愛されているのを実感する度、自分でも訳がわからなくなるぐらいに逆上せてしまう。
だのに俺の彼らへの気持ちは、まだ愛情ではないのだ。
これが愛情に変わるなんてことがあったら、俺は生きていられないのではなかろうか。俺はどぎまぎしながら相馬に顔を向けた。少し距離を離した彼が、小首を傾げながら俺を見詰めてくる。
「しては駄目?」
「駄目に決まってるでしょ。日曜まで我慢してね」
俺は姿勢を正した。そして中庭に視線を向けた。
まばらに点在する学園の生徒たちは思い思いの時間を過ごしているようだ。俺たちに注目する視線も減った。俺が相馬と幼い頃から親しくしているのが知れ渡っていることもあるのだろう。まあ、彼らならそのぐらい距離が近くても……と、思われているのかも知れない。
「楽しみにしているよ、望海」
遠く校舎から聞こえてくる予鈴の音。ベンチから立ち上がった相馬に俺は続いた。
しかし何でこの三人はこんなに望海が好きなんだろう。いや、ここが同人誌の世界である以上、そして最終的にハーレムになることが確定している以上、彼らの好意の源がどこにあるかなんて考えるだけ野暮だし、三人からそれなりの理由を聞いてもいるのだけれども、それにしても情熱的過ぎる。これが城石望海本人ならまだ小悪魔的な魅力がなくもないキャラクターだ。彼らが惑わされるのもまだわかる気がするが、今の望海の行動の主導権を握っているのは俺である。望海ほど高貴に振舞えない俺としては不思議に感じることこと他ない。
俺みたいな凡俗の徒、本来なら彼らの箸にも棒にも掛からぬ存在だと思うのだけど。
やっぱりこの容姿なのか? 俺はほっそりとした望海の手足に目を遣った。そして儚げな作りをしている顔を思い浮かべた。男としてみると頼りないが、女だったら守りたくなるような容姿であるのは間違いない。でも、だからって。俺は首を振った。それだったら俺より優れた容姿である園崎さんなんか、一発で彼らを惚れさせられるってことになってしまう。
それにしても園崎さんだ。俺ははっとなった。
あんなにいい人に相馬はどうして引っ掛かりを感じているのだろう。
結局、相馬にはぐらかされる形になった俺は、いつかはちゃんと聞かないとな――と思いつつ、中庭を抜けて昇降口を上がった。ここから四階の教室はかなりの距離がある。「急ぐよ、望海」相馬に急かされた俺は、彼に続いて階段を急いで上っていった。
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