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第六章 ヒロインとの接触(3)
午後の授業の間中、俺は自分の幸せについて考えていた。
今の生活は幸せか不幸かの物差しで測れば圧倒的に幸せに傾いている。会社経営者である父親にモデルの母親、そして眉目秀麗な三人の幼馴染み。これだけでも充分に恵まれているというのに、金や衣食住にも不自由していない。この環境に不満を覚えるような人間がいたら、余程の贅沢者だと俺は思う。
それでも、時々、前世での生活が懐かしくなることがあった。
ブラックな傾向のあった会社での残業続きな日々。ハラスメント気質な上司の元で働いていた俺は、姉が自分のハマり物を楽し気に話すのを聞くのに癒しを感じるほど疲れきっていた。そんな俺を心配をしていたのかも知れない。姉は面白いと感じるゲームに出会えば俺にプレイをさせてきた。『エンジェルスフィア』もそのひとつだ。周回プレイの手伝いをしなさいよ。なんて云いながら、俺に肩を並べてゲーム画面を見詰めていた姉。
美味しいと感じるメニューと出会えばUberで取り寄せて食べさせてくれもした。ドライブやプチ旅行に連れて行ってくれもした。非アクティブな俺を引っ張り回してくれる姉は俺と外の世界のつなぎ役で、俺はお陰で職場と自宅の往復などというつまらない生活をせずに済んでいた。
でも、その所為で俺は死んでしまった。
運転は任せた。なんて、元気な姉に連れ出されて少し離れたアウトレットモールに向かった。目的は姉が友人の結婚式に着てゆく服の調達。今日のように澄みやかな九月の青空が頭上に広がる日だった。
友人の結婚が嬉しかったのだろう。車内でいつになく姉は饒舌で、それに付き合わされていた俺は大分疲れてしまっていた。だからだろう。判断力が鈍った俺は事故を起こした。飛び出してきた自転車を避けようとした結果、ハンドルを切り損ねて、ガードレールに突っ込んでしまったのだ。
恐らく、即死だったんじゃないだろうか。俺の意識はそこで途切れている。
助手席にいた姉がどうなったかはわからない。無事であってくれれば嬉しいが、それを確認する術はもうなかった。元居た世界に転生していたのであれば新聞で調べることも出来たが、ここはゲーム世界を下敷きにした同人誌の世界だ。この先も、俺が姉の無事を知ることはないだろう。
姉を恨む気持ちはない。
ただ、俺がもう少し自分の体調に気を付けていれば――という思いはある。
俺が死ぬような事故だったのだ。奇跡でも起こらない限り、姉は五体満足ではないだろう。幾らポジティブでバイタリティ豊富な姉でも、その事態には苦しみを覚えている筈だ。そう思うと胸が押し潰されそうになる。
両親だってそうだ。平凡を絵に描いたような夫婦だったけれど、俺と姉を大事に育ててくれていた。彼らの悲しみなど計り知れない。先に死んでしまってごめんなさい。自我を取り戻した最初の頃、俺は夜中にはっとなって飛び起きては、もう会うことのない両親に何度も詫びた。
だから、なのだ。
俺があの平凡だった日々に戻りたいと願ってしまうのは。
城石望海の人格が俺の中にあるのも、俺のそういった気持ちを後押しした。俺は世界の結末を知っているという、本来この世界にいてはならない上位的存在だ。だったら元の世界に戻る方法を見付け出せるのではないか? 当初俺が抱いた淡い期待。それが絶望に変わるのは早かった。
いいアイデアが何も思い浮かばないのだ。
チートものだったら神様がヒントを与えてくれたり、仲間が知恵を貸してくれたりする場面だが、残念なことにここはゲーム内転生ものの世界である。しかも俺は気が触れたと思われるのが怖くて、自分が転生者だという事実を誰にも打ち明けられずにいる臆病者だ。その手のラノベの知識も姉に聞いたぐらいしかない。
だったらこの世界で『自分の人生』を生きる決意を固めた方が早い。
ただそうすると、結局、幸せとは何だ? という当初の問題に戻ってしまう。困ったぞ。俺は教室の時計を見上げた。全く考えが定まらないまま授業が終わる時間になってしまった。
「今日は如何なさいますか、望海様」
「偶には寄り道もいいと思いますが」
終礼が終わったところで、一成と一臣が俺の席にやってくる。
相馬は? と思って席に目を遣れば、今日も仕事があるようだ。俺に向けて軽く手を振ると、ゆったりとした足取りで教室を出てゆく。
「本屋にでも寄ろうかな。真優に貸してもらった本のお礼をあげたいんだ」
俺は鞄に荷物を詰めて席を立った。
「本そのものではなく、栞やブックエンドといった本周りのアイテムでもいいかも知れませんね」
「読書用のお茶やお菓子などもいいですね」
一成と一臣のアイデアに耳を傾けながら教室を出る。
「城石、また明日な!」
「うん、またね」
「望海、今日は何処かに寄るのか? 喫茶店行こうぜ」
「ちょっと用事が出来てね。また今度誘ってくれると嬉しいな」
クラスメイトが声をかけてくる中、下校する生徒で賑わう廊下を抜けて階段に向かう。真面目に自分のことを考え続けた後だけに、真優へのプレゼントを考えるのが楽しくて仕方がない。何をあげようかな。あれもこれもと浮かんでくるアイテムやお茶菓子に胸が弾んでくる。俺は軽い足取りで階段を下り始めた――と、俺の少し前を行っていた女子生徒が足を滑らせた。
「危ない!」
考えている暇なんてない。俺は彼女を助けようとして手を伸ばした。が、届かない。
虚空を掴んだ指先に、落ちると思っていると、俺より先に動いていたようだ。一臣が女子生徒を後ろから抱え込んだ。
「大丈夫か」
「有難うございます」
あれ? この声。
俺は一臣の腕からは僅かにみ出ている女子生徒の後姿を眺めた。豊かな黒髪が微かに揺れている。
間違いない。園崎さんだ。
「何をしている!」
俺が彼女に声をかけようと一歩階段を下りた瞬間、階段の下り口の角から厳しい声が飛んできた。視線を落とすと、スリーピースの背広をきっちりと着こなしたロマンスグレーの中年が姿を現す。理事長だ。俺は嫌な場面で顔を合わせてしまったと思わずにいられなかった。
「私が階段から落ちそうになったのを助けていただいたところです」
「本当かね? 私には城崎が君を突き飛ばしたように見えたが」
細いシルバーのフレーム。眼鏡の奥で、神経さが際立つ鋭い眼差しが俺を向いている。
「彼女を助けようと手を伸ばしました。それがそう見えてしまったと云うのであれば謝罪します」
流石に濡れ衣が過ぎるとは思うが、理事長は固定観念が強い人間であるようだ。夏休みの一件でもそうだ。俺の過去を盾に一歩も譲ろうとしなかった。だから謝罪とセットにすれば、退く態度をみせてくれるのではないかと思ったのだが、そこは流石に良家の子女が数多く通う学園の理事長である。簡単には引き下がろうとしない。
「君に疑いがかかっている以上、君の言葉は信用ならん」
「私が彼女を助けているのに、ですか」一臣が言葉を挟む。「望海様が突き落としたのであれば、私が助ける必要はありません。それでも理事長は望海様をお疑いになられると」
前回、俺を庇った言葉をまともに取り合ってもらえなかっただろう。言葉の端々から滲み出る嫌気が一臣の今の心境を表している。
「城崎の仲間である君の言葉も信用はならんな」
案の定と云うべきか。耳を貸す気配のない理事長に、一臣が舌を鳴らした。
そもそも、当の本人である園崎さんが自分で落ちそうになったと云っているのに、何故理事長はこうも頑なに俺を悪者に仕立て上げようとしているのだろう。一向に進まない話に流石に不信が生まれる。まさかこの世界の園崎さんは理事長ルートに入っているとか? そう思ったところで、園崎さんの澄んだ高い声が凛と響いた。
「理事長先生は私の言葉を信用してくださらないのですか」
「君は庇い立てをしているのではないかね? もしくは勘違いをしているか」
「違います。私は自分で足を滑らせました」
「……午前中にもボールを当てられたと聞いているが」
「あれは事故です。他の女子も直ぐ傍にいましたし、私に狙って当てるのは不可能です」
「しかし、君は――」
ぶれることのない園崎さんの態度に理事長が微かに動揺をみせた瞬間だった。膠着状態に陥った場の空気に耐え兼ねたのだろう。「俺が見てましたよ、理事長先生」その言葉とともに、一成の後ろに出来ていた人だかりから、ふらりとひとりの男子生徒が姿を現した。
「城崎は誓って園崎を突き落としたりしてませんよ、理事長先生。それとも俺の証言じゃ信用なりませんかね」
「銅音 か……」
着崩した制服が退廃的な雰囲気を醸し出している美形。ウェーブのかかった白みがかった金髪がふわりと揺れる。後ろにひとつに縛ったセミロングは、比較的校則が緩いこの学園ならでは。園崎さんと同じクラスの銅音眞 がそう証言すると、下校時で人が多かったのが幸いしたようだ。「私も」「俺も」と、人だかりの中から声が上がった。
「城崎くんは園崎さんを助けようと手を伸ばしました」
「俺にも園崎は足を滑らせたように見えました」
複数の証言に理事長もこの場は引いた方がいいと判断したのだろう。「……わかった」と、苦々しい表情を浮かべると、「とにかく、疑われるような真似は慎むんだな」俺を見てそう云い捨て、元来た道を戻っていった。
「ごめんね、園崎さん。変なことになっちゃって」
俺は階段を少し下りて、園崎さんの隣に並んだ。
念の為に足元を確認する。
定期的に清掃業者が入っているこの学園では、生徒は基本的に軽い掃き掃除しかしない。清掃業者が入るのは月に二回。隔週の水曜日の放課後と決まっている。つまり、今週清掃が行われたばかりということだ。
ワックスの利いた階段は、不注意を起こせば滑る可能性が高い。他にはおかしなところがない以上、園崎さんが何かの弾みで足を滑らせたのは間違いなさそうだ。
「いいのよ、城崎くん。こっちは助けてもらったんだから」
「ありがとう。そう云ってもらえると助かります」
俺がぺこりと頭を下げると、大輪の花が咲いたような艶やかな笑顔が園崎さんの顔に浮かぶ。
「ううん。当たり前のことだから、気にしないでね。じゃあ、私、部活があるから」
「うん。階段、気を付けてね。清掃業者が入ったばかりだから、滑り易くなってるみたい」
それにこくりと頷いた園崎さんが、きゅっと足を鳴らして階段を下りて行った。
足を捩じって歩く癖があるのだろう。三階の下り口を彼女が曲がると盛大に上履きが音を鳴らす。なんだろう。俺は彼女の特徴的な歩き方に引っ掛かりを覚えた。ああいう歩き方をする人間を知っている気がする……。
少し考え込んだが答えはわからなかった。脳に霞がかかっているかのように、記憶がはっきりしないのだ。
きっとどこかで見かけたものが印象に残ったのだろう。そう思うことにした俺は階段の踊り場を振り返った。証言をした生徒たちに一成と一臣が礼を述べているのが目に入る。
「ありがとう、銅音」
「他の皆も。助かったよ」
彼らだけに任せておいては、意を決して証言してくれた生徒たちに失礼だ。
俺は一成と一臣の前に出た。そして銅音を先頭に固まっている生徒たちに礼を述べた。「ありがとう。助かったよ」と、同時に上がり始める理事長に対する不満の声。先程の傲慢な態度が癇に障ったようだ。何人かの生徒が俺を取り囲む。
「理事長、園崎さんを贔屓し過ぎよね」
「園崎さんも困ってるんだよ、あれ」
よくよく話を聞いてみれば、十年ぶりの特待生として入学させたからか。理事長は園崎さんにかなり目をかけているらしく、授業中に様子を見にきたりすることも珍しくないようだ。それだけではない。悪い虫を寄せ付けてなるものかと、他の生徒を牽制することもよくあるのだとか。
成程。俺は納得した。
これまで彼女との接触を避けてきた俺は、だから理事長の嫌な面を目にする機会がなかったのだ。
となると、彼女の敵認定されている俺は、今後も理事長に難癖を付けられることになるのだろう。俺は頭が痛くなる問題を前に、どうしたものかと考え込んだ。品行方正に過ごしてきたこの三年間がまるで通用しない相手。平穏な学園生活を過ごすのに、理事長は敵としては大き過ぎる。
「じゃあ、俺はここで。この後、習い事があるから」
いきり立つ生徒たちの輪の外で成り行きを窺っていた銅音が、話の区切りがついた頃を見計らって俺に声をかけてくる。
「あ、珠算?」
「そう。この年齢にもなって続けてるのもおかしな話だけど」
俺と去年同じクラスだった銅音は、派手な外見とは裏腹に物静かな人間だ。小学生の頃から珠算教室に通って暗算能力を磨いてきたとかで、珠算の大会では全国三位に食い込むぐらいの実力がある。
「いや、凄いよ。それだけ好きってことでしょ。誇っていいと思うなあ」
「はは。有難う。頑張ってくるよ」
「いってらっしゃい」
そう声をかけると、擦れ違いざまに銅音に頭をぽんぽんと撫でられた。
きっと俺が理事長に強く当たられたのを心配してくれたのだろう。イギリス人の母親を持つ銅音は、言葉でのコミュニケーションよりもジェスチャー的なコミュニケーションを好む傾向がある。特に頭一個半も身長が高い銅音にとって、俺の頭は丁度いい位置にあるようで、ついつい撫でたくなるものであるらしい。去年もしょっちゅう撫でられていた記憶がある。
「子どもじゃないんだけどなあ」
俺が頭に手を置いて云うと、銅音は「あはは」と、笑いながら階段を下りて行った。
ちなみに彼も生徒会ハーレムの一員になる予定だ。役職は会計。数字に強い銅音には似合っていると思うけれど、今の距離感でどうやればそんなことになるのか、俺には全くわからない。うっすら覚えている範囲だと、そこまでの経緯が全部吹っ飛ぶほどに性行為 シーンが過激だったような気がするんだけど、銅音は大人しい性格だしなあ。記憶違いかも知れない。
「しかし厄介なことになりましたね」
「他の生徒にもああいった態度となりますと、私たちだけの問題では済まなくなってしまいます」
一成と一臣を連れて生徒たちの輪から離れた俺は、彼らの言葉を聞きながら、再び舞い戻ってきた理事長問題について考えた。何故、そこまで理事長は園崎さんを大事に扱うのだろう? 幾ら十年ぶりの特待生にせよ度が過ぎる気がする。
確かに神代学園は名家の子息子女が通う学校だ。それだけに生徒が起こした問題にはきつい対応をするけれど、だからこそ生徒の自主性を重んじる校風でもある。緩めの校則だって、自主性を重んじた結果だと聞いた。それだのに、理事長が一生徒にここまで強い干渉をしてくるのでは。
「父さんにもう一度相談をしてみようかな。あの理事長の態度は他の生徒たちにも良くないし、何より園崎さん自身が迷惑してるんじゃ……」
「そうですね。私も父に相談してみようと思います。生徒の問題解決能力を阻害していると」
「私もそうしてみましょう。理事長の意見を聞かない態度には問題があると思いますので」
あまり父親の力を使いたくはないのだけれど、こうなってしまっては仕方がない。一度はきちんと相談しておかないと、また前回のような騒動になった際に後手に回ることになってしまう。父親にとって寝耳に水な事態になるのは避けなければ。
それに、もしかするといい知恵を貸してもらえるかも知れない。そういった意味でも話をしておいて損はない筈だ。
「ところでどちらのお店に向かわれますか?」
話に区切りを付けたからだろう。一成が尋ねてくる。
「何を買うかお決めになられましたか?」
こちらは一臣。俺が何にするか悩んでいるのを見抜いていたようだ。「それなんだよね」俺は階段の先にある昇降口に下りた。
中断された思考。真優へのプレゼントの中身を再び考えながら、下駄箱の前に立って靴を取り出す。
「どうせだから全部買っちゃおうかな。これまで沢山本を貸してもらってるしね。そのお礼なんだから、少しぐらい豪勢でもいいでしょ」
「いいお考えです」
「喜んでいただけるといいですね」
ふたりの同意を受けた俺は、安堵して昇降口を出た。
靴を履きながら空を見上げると、西に傾き始めた陽射しが少し柔らかくなった光を校舎に注いでいる。
今日は色々あったけど、園崎さんがいい人だと知れて良かった。あれなら俺の敵に回ることは恐らくない。ひとつの懸念が片付いた俺は、足取り軽く学園を出た。
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