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第十一章 現実との戦い(3)

 明日は絶対に園崎さんと話をしなければ。  密かな決意を胸に一晩を相馬のマンションで過ごした俺は、明けて翌日、気もそぞろに授業を受けていた。  ノートはどうにか取れていたが、その内容を説明する教師の言葉は上滑りしていった。時間が経ったことで、昨日見た夢に実感が湧いてきたのかも知れない。園崎さんが姉だとして、俺が弟の瑞樹だと知ったらどう感じるだろう。そればかりが頭の中を占める。  ドジって事故を起こした俺を笑い飛ばしてくれるだろうか? それとも、とんでもない世界に転生させやがってと怒るだろうか? まだ死にたくなかったと言われるかもしれないし、何故今まで気付かなかったのかと責められるかも知れない。考え得る全ての可能性をシミュレートした俺は、自分の威勢が当初に比べて萎んでいるのを感じずにいられなかった。  俺が園崎さんから逃げ回るような真似をしていなければ、もっと早く気付けていたかもしれないのに。  高熱を出した直後の俺は、良く昔の夢を見た。あるときは小学時代の友人と川で釣りをしていた。またあるときは高校時代の友人と街を歩いていた。家族と食卓を囲んでいる夢も見たし、少しだけいい雰囲気になった女性と現実にはしなかったデートをしている夢も見た。  目を覚ました俺は、それらの夢がもう取り戻せない過去であることに気付いて泣いた。前世では祖父母の葬儀ですらそこまで泣くことのなかった俺だったが、あの時期は違った。過言ではなく、一生分の涙を流したと言える。そのぐらいに、元に戻せない現実が俺は悲しかった。  けれども、時間が経つにつれて、夢は回数を減らしていった。  同時に、俺の中に自覚が生まれた。  俺はこの世界でこれからも生きていくのだ。そうである以上、いつまでも過去に囚われていてはいけない。  前世の自分を吹っ切った俺は、そこから今日に至るまで城石望海として生きてきた。その日々の中で、少しずつ前世の記憶は細部を薄れさせていった。例えば顔。親友や家族といった近しかった人間の顔はきちんと思い出せるが、ちょっと関係があった程度の人間の顔はもう明瞭(はっき)りとは思い出せない。彼らの属性などもそうだ。必要なときに情報として引き出すことは出来るが、それだけだ。特に拘って記憶に深く残そうとは思わない。  俺にとって前世の記憶は、遠く過ぎ去った日々のものとなったのだ。  そうした認識が、俺から大事な姉の記憶を失わせてしまったのではないか。いや、もしかすると、物語の強制力のように、俺にはどうにも出来ない力が働いた可能性もある。だってそうだろう。昨日の相馬は何と言った? 意識を飛ばしながら性行為(セックス)をしていた筈の俺を、「いつもより積極的だった」と評したのだ。  まるで他人が俺の身体を乗っ取っているかのような相馬の発言。それはつまり、俺の自我が薄くなっている間に、望海が表に出てきていることを意味しているのではないか――その、ぞっとする可能性を思い付いたのは四時限目の授業の終わり際だった。  こうなると居ても立ってもいられない。俺は急いで食事を済ませ、D組に向かった。そして、俺を心配する眞との会話もそこそこに園崎さんを呼び出して中庭に向かった。  十月の爽やかな風が吹き抜ける中、そろそろ色付き始めた木々を見上げる。少し後ろを付いてくる園崎さん。彼女が遅れないよう歩くスピードに気を付けながら、俺は柔らかくなった陽射しの下を歩いて、人けの少ない奥まった場所にあるベンチを目指した。 「どうしたの、城石くん。こんなところまで連れてきて……」  途惑う園崎さんをベンチに座らせて、一成と一臣を離れたところに立たせる。ついでとふたりに人払いの役も任せて、俺は園崎さんの隣に腰を下ろした。「驚かないで聞いて欲しいんだけど」頭の中でシミュレートを繰り返した言葉を口に乗せる。 「園崎さん、瑞穂って名前に覚えはない?」  瞬間、園崎さんが柳眉を(ひそ)める。  何かを言おうとしたのだろう。瑞々しい口唇が開きかけるも、言葉を発することなく閉じる。続けて小さく首を振った園崎さんに、けれども俺は確信を持った。知らなければ知らないと一言言えばいいだけだ。だのに園崎さんはそれを言葉にするのを躊躇った。凛とした女性である園崎さんにしては不可解な動き。これは何かを知っていなければ出来ない反応だ。 「瑞穂姉さんだよね、園崎さん。俺、こんな姿だけど、瑞樹なんだよ」 「瑞、樹……?」  目を見開いた園崎さん――いや、姉が俺をまじまじと見詰めてくる。  園崎さんの顔に姉の顔が重なる。美貌では園崎さんに遠く及ばない姉だったけれども、何故だろう。ふたりの雰囲気はどこか似ている。こうして驚いたときにする表情もそっくりだ。 「直ぐに信じろって無理だよね。俺も気付くのに時間がかかったし」 「本当に、瑞樹なの?」  姉の両手が俺の肩にかかった。細くしなやかで白い指が、震えながら俺の肩を掴む。 「この世界でどうやってこんな嘘を吐くの」 「じゃあ、あなたもあの事故で」 「ごめんね、姉さん。俺の所為でこんなことになっちゃって」  俺の視界が滲む。  そこからは早かった。堰を切ったように溢れ出てくる涙が、次から次へと俺の頬を伝ってゆく。 「いいのよ、いいのよ、瑞樹。泣かないで」 「だって、俺」 「あなたの所為じゃないのよ。私があなたを無理に連れ出したのよ」 「でも、俺がもっとしゃんとしてたら」 「大丈夫よ。ふたりでこうして同じ世界に生まれ変われたんだもの。だから、大丈夫よ」  俺の肩を摩っていた姉さんの手が、ふわりと頭に置かれた。ああ、姉さんだ。俺は脳の底から湧き上がってきた姉の記憶に、喉の奥から声を絞り出して泣いた。そう、俺の姉は、俺が弱っているときにこうして良く頭を撫でたくれた。大人になっても、ずっと。そして、必ずこう言うのだ。大丈夫よ、と。  俺は滂沱の涙を止めることが出来ずにいた。  最初は申し訳なさからだった。俺の運転ミスに姉を巻き込んでしまった。まだまだやりたいこともあっただろう姉の人生を俺が終わらせてしまったという口惜しさ。けれどもそれは、少しもすると安心感に変わった。ずっと、ずうっと、俺が抱え込んできた秘密を、やっと共有出来る相手が出来た。  俺は本当は心細かったのだ。  相馬たちは優しい。俺を大事にしてくれる。それでも、俺は彼らに心の奥深いところを晒すことは出来なかった。だってそうだろう。彼らはこの物語世界で必要とされているキャラクターだ。そこにどうして、物語を逸脱したいと望む俺の本音を吐露出来たものか。  でも姉は違う。前世の記憶がある姉は、俺の価値観を理解してくれる唯一の人間だ。しかも俺以上にこの世界に詳しい。  頼もしい味方の登場は、俺の中に常にあった不安を取り除いてくれた。もう俺は問題解決の為にひとりで悩まなくていい。それはどれだけ俺の心を軽くしてくれただろう。 「大丈夫よ、瑞樹。私がいるからね」  子どものように泣きじゃくる俺に姉は黙って寄り添ってくれた。遠く、近く、学園の生徒たちが賑やかに過ごしている声が聴こえてくる。それが俺に正気を取り戻させた。時折顔を撫でる風が、俺の頬に溜まった熱を和らげてゆく。  ややあって、涙が止まった俺は姉と顔を見合わせて笑った。 「俺、姉さんに話したいことが沢山あるんだ」 「私も瑞樹に聞きたいことが沢山あるのよ」  そこに予鈴のチャイムが鳴る。俺は急いで姉と電話番号を交換した。そして足早に教室に戻った。  話したいことが何も話せなかった昼休みだったが、園崎さんが姉であることが明確になっただけでも充分だ。俺は午前中とは打って変わった清々しい気分で午後の授業を受けた。とはいえ、相馬たちからすれば、園崎さんを相手に俺が泣きじゃくっていたのは大きな問題であったようだ。授業が終わると入れ替わり立ち替わり俺の許にやってきては、大丈夫かと尋ねてきたが、すっかり調子を戻した俺が大丈夫と言い張ると何も言えなくなくなったのだろう。「無理だけはしないこと」と、引き下がった。  唯一、今日のデートの担当である真優だけは心配そうに俺の許に残ったけれども、俺が笑ってデートはすると言ったら安心した様子をみせた。そのまま、真優と連れ立って学園を後にする。彼らの新たな一面が見られるだけでなく、色々な場所で思い出を作ることが出来るのだ。このデートの時間をなしにするなんて俺には出来そうにない。  でも姉は驚くだろうな。俺が結局、五人と付き合ってるって知ったら。  その報告を聞いた姉の反応を想像すると笑いが込み上げてくる。俺は隣町のブックカフェに連れて行ってくれるという真優と肩を並べて歩きながら、今夜にでも姉に電話をしてみようと思い、そしてその内容について考え始めた。

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